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「ん……」
白い天井だ。ここは――?
「おい」
地を這うような声が聞こえて、冷や水を浴びたように体が竦み上がった。ギギギ、と音がしそうな眼球を動かして声の方向を見ると、少し離れた丸椅子に座って世にも恐ろしい人が俺を睨んでいた。
俺は、保健室のベッドの上にいた。
「お、俺――?」
「貧血だ」
予想外な低音の答えが、返ってくる。
えっ、と頭を動かそうとしたら、くらっと眩暈がした。かろうじて上半身を起こして、背中を壁に預ける。
大ヤクザの息子……いや、東先輩は、ギリッとつり上がった眉と、見るものみんな切ってしまいそうな切れ長の目で俺を見て……いや、睨んでいた。
ガタイも背もあって、見るからに強そうだ。迫力、っていうか――怖い。想像してもらえればわかるように生きた心地がしない。
何しろ俺は、東先輩のシャツを汚してしまったから――。
……あれ?
汚したはずのシャツが、白い。
「あ……シャ、ツ――」
「いつまでも汚れたもん着てると思うか」
「ひっ、すみません!」
縮み上がると、東先輩が、はあっとため息をした。
「細っけえな。飯食ってんのか」
「す、すみませ……」
「いちいちビビるな。カタギに手ぇ出さねーよ」
東先輩が、面倒そうにため息をしている。
どうも、俺をどつこうとか、責任取れとか、そういうことを言いたいわけじゃないみたいだ。
……なら、東先輩は、なんでここにいるんだろう。
「あ、あの、もしかして……東先輩が……俺をここに?」
尋ねると、東先輩が無言で視線を逸らす。
不機嫌そうに腕組みしてるけど、態度が、そうだ、って言ってた。
俺は、驚きすぎて言葉が出なかった。
呆気にとられてる俺を見ると、先輩は小さく舌打ちして口早に言った。
「急に倒れやがって……てめえみたいなチビに何かしたかと勘繰られた。いい迷惑だ」
「ご、ごめんなさい」
「謝るばっかだなてめえ」
そう言って、呆れたように窓の外を遠い目で眺めている。
「……怒ってねえよ」
「え」
「怒っちゃねえから、いちいちビビるな」
静かな口調で言われて、なんて反応していいかわからなかった。
ここで初めて、東先輩は、低くて通るいい声だって気づいた。
冷静になってみれば、ゆったり落ち着いてて、おなかの底に響くような凄味のある声だ。
口調も別に怒ってるわけじゃない。元々、ぶっきらぼうな言い方をする人なんだろう。
強面で凄まれると怖くてたまらないけど、普通に話してると口の悪い虎って感じで。
……どこか、懐かしい感じもする、ような。
「……兄貴は元気かよ」
一瞬、何を言われたかわからなくて固まってしまった。
「おまえの兄貴だよ。街村だろ、てめえは」
「え、あ、はい」
俺の兄ちゃんの知り合いなのかな。
しばらくぐるぐる考えて、記憶の底に過ぎった影を捕まえる。
……もしかして。
いや、もしかしなくても。
ぼんやりと蘇ってきた。
俺には2つ上の兄ちゃんがいる。俺が幼稚園の時、小学生だった兄ちゃんと兄ちゃんの友達が、母さんの代わりに俺を迎えに来てくれていた。
確か、兄ちゃんは、その友達のことを「虎(とら)」って呼んでて――。
……え!?
「……も、もしかして、虎、兄ちゃん……?」
一瞬、東先輩が驚いた表情を浮かべた。
でもすぐに、いつもの凄みのある顔に戻ってしまう。
「兄ちゃんじゃねえ。先輩って言え」
「ごっ、ごめんなさい」
ぐっと眉を寄せて凄まれると、体に緊張が走って、シーツを掴む。
10年も前のことなのに、虎兄ちゃん、なんて馴れ馴れしく呼ばれるのは嫌だったかもしれない。
でも、俺は、虎兄ちゃんのことが好きだった。
いつも背筋がぴんと伸びて落ち着いていて、男らしくてかっこよくて。俺がいたずらした時には、父親みたいに叱ってくれた。
俺は、すごく懐いてて、虎兄ちゃんが家に遊びに来るとずっと後ろをついて回ってた。
俺が小学校に上がる頃に、うちが引っ越して、全然会わなくなっちゃったけど……。
俺は、引っ越す前日、虎兄ちゃんの服を掴んで離さなくて、ずいぶん困らせた。
『……また縁がありゃ会える。だから泣くな』
虎兄ちゃんは、困ったような笑顔で言って、嗚咽する俺の頭をずっと撫でてくれた。
こんなところで会えるなんて思ってなかった。
しかも、この辺りで最も恐れられている、東先輩だなんて。
思い出してから改めて見ると、確かに面影が残ってる気がする。
ぴんと姿勢が良くて、落ち着いてて、男気溢れてそうなところとか。
背は何倍も大きくなってるし、武道でもしてるんだろうっていう体は、昔とは比べものにならない程たくましくなってる。
オールバックの金髪は当時とは違うけど、ぐっと引き結ばれた口元なんかは、そのまんまだ。
……人って、こんなに変身しちゃうもんなんだな。
この10年間、虎兄ちゃん……じゃない、東先輩は、どんな風に過ごして来たんだろう。
「それで、兄貴は元気なのか」
「えっ、あ、はいっ!高校は、ちょっと遠い私立校に通ってますけど」
「そうか」
ふ、と。微かに、口と目元の表情が緩んだように感じた。
……笑った?
「あ、東先輩は、俺のこと、覚えててくれたんですか」
「変わってねえからな」
「変わってない、ですか……」
幼稚園生の頃から、成長がないってことか?
確かに、背は高い方じゃないかもしれないけど、さすがに幼稚園の頃から変わってないなんて言われたらショックだ。
「……甘えたなところなんか、そのままだ」
穏やかな声に、胸がぎゅっとなる。
緊張と嬉しさがごっちゃになって、さっきからずっとドキドキしてる。
「俺、虎兄ちゃ……東先輩のこと好きだったんですよ」
「あ?」
東先輩の眉間が、ぐっと寄る。
一瞬、ひっ、と凍りついたけど、気を持ち直して続けた。
「……当時の俺にとっては、憧れでした」
「でした、って、ナメた1年坊だな」
「だって、今は、怖い方が勝っちゃってるっていうか――」
「ヤクザの息子はビビられてなんぼだ」
そう言った東先輩が、一瞬、遠い目をした。
「……調子が戻ったんなら俺は帰るぞ」
「あ、あの!」
椅子を立った先輩の広い背中を呼び止める。
「ありがとう、ございました」
「おせえよ」
顔だけ振り返ったその横顔が、少し笑ったような気がして。
また、胸がぎゅっとなった。
***
「虎雄が?」
「うん。覚えてる?」
兄ちゃんと家で二人で食卓を囲んで夕食を食べながら、東先輩との驚きの再会を報告していた。
「覚えてるよ。あいつ、俺が母子家庭だって知って、かいがいしく面倒見てくれたからな……そっか、基(もと)と同じ高校だったか」
「会ってみたくない?」
「そうだなー……久々に会う機会があればな」
「だって仲良かったんだろ?会いたくないの?」
「元々、俺は、虎雄と特に仲が良かったわけじゃないぞ。虎雄が幼稚園に一緒に迎えに来るようになったのだって、おまえが会いたいってわんわん泣いたからだろうが」
「え?」
箸を持った手が止まる。
覚えてないのか?って眉をひそめながら兄ちゃんが言った。
「基、一度俺の小学校に来たことがあったろ。俺のサッカー部の練習試合を母さんと見学に来て――」
「そう……だっけ?」
「おまえ校内で迷子になってさ。その時に、虎雄に連れられて戻ってきたんだぞ」
「あ」
脳裏に、虎兄ちゃんの手を掴んだ記憶が蘇った。
そうだ確か、俺、校舎内で迷って、半泣きで。
そしたら、非常階段に一人で居た虎兄ちゃんに会ったんだ。
『どうした、ガキんちょ』
つんつんの短髪で、見下ろしてきた虎兄ちゃんは眉がキッとなってて、目は眠たそうに細められてて怖かった。
でも俺はなぜか、この人なら頼っても大丈夫かも、って思って。
サッカー部の試合のことを話したら、虎兄ちゃんは「しょうがねえな」って、俺の前を歩き出したんだ。
俺は、慌ててついていって、その指先を握った。
虎兄ちゃんは、一瞬困ったような顔をしたけど、振りほどかずに俺に合わせて歩いてくれたんだ。
当時のことを思い出したら、また、胸がぎゅっと掴まれるような気分になる。
引越しの時にすごく泣いたこととか、見送りに来た虎兄ちゃんの、遠くを見るような目とか――。
あ……そうか。
東先輩が保健室で見せた、あの遠い目。
あの日、虎兄ちゃんと離れた日に見たあの表情と一緒だったんだ。