人は、忘れる生き物だ。
だから生きていけるという。
君を忘れられない僕は、きっと短い命を生きるんだろう。
白雨
君を忘れられない。
僕は、異国の血が混じった変わり者だ。
目は青く、髪は茶色い。
バケモノと呼ばれるのを何より恐れていて、無口で、友がいなかった。
だから、雨が好きだった。傘と雨に守られて、彼らにとっての『普通』じゃない色を隠せたから。
学校に履いてきたはずの靴がなくて、雨の中を裸足で帰ったりもした。いつも守ってくれる雨は足元までは隠してはくれない。
「ねえ」
それが僕にかけられた声だと気がつくのに、あと2度呼ばれなければいけなかった。
「うちに寄りなよ。すぐそこだから、靴を貸すよ」
疑り深く目を細めた僕を青い傘の下から見上げていたのは、黒髪の華奢な君だった。
青の瞳が海のようだねと言ってくれたのは、君がはじめてだった。
茶色の髪は亜麻色のヴァイオリンのようだと言ってくれたのは、君がはじめてだった。
黒い髪と黒い瞳を心から美しいと思えたのは、君がはじめてだった。
まだ十代だった僕らは、それから、友情を育てながら傍にいた。
心の内を長い時間語り合った。
だから僕は、君のどんなことも知っている。
だから君も、僕のどんなことも知っている。
ただひとつ僕が君に言えなかったことは、君の陶器のような肌に触れてみたいと思っていたことだ。
時が経つにつれ、君を失いたくないが為にする隠し事が増えていった。
君といると胸が潰れそうで。嬉しくて、辛かった。
それでも、子どもだった僕らはいつまでもこのままでいられると思っていたし、欲しいものは願えば何でも手に入ると思っていた。
18の、あの夏の日。2人で急な雨に降られたあの日。
君の髪先から滴る雫に目を奪われて。貼りついたシャツの下の肌色に、目眩がして。
吸い寄せられるように、雨に冷えて色を失った唇に触れた。
動揺した君に頬を打たれ、我に返った時にはすべてが遅かった。
友と友の関係は消え去って、恋患う僕と困惑する君の関係が現れた。
その日を境に、2人の空模様は雨雲へ変わった。降っては止み、太陽が顔を出そうとすると横殴りの雨が降る。
いずれ、雨は止む。太陽が白日の下に僕らを照らし出してしまう時がくる。
どうかその前に――思い詰めた僕は、熱と狂わんばかりの想いに任せて君を裏切った。
優しい君は、僕の自分勝手な懐柔と欲望にほだされ、僕が求める関係へ墜ちていった。
真面目な君は、いつでもどこか後ろめたそうで。それがかえって、僕を夢中にさせた。
好き、と、欲しい、とを。何度、君に囁いただろう。
一番欲しいものが手に入らない、もどかしい恋に溺れきっている内に大人になった。
この大正という時代は、僕達を古色(こしょく)の社会の中に強引に引き込んでいった。
君にも僕にも、家柄があった。
関係が始まって1年もしない内、先に君が。後に、僕が。
相手を宛てがわれ、約束され、当たり前の色に塗り潰されようとしていた。
僕は抵抗するつもりだった。君をつれて誰も知らない場所に行こうとも考えていた。
ある長雨の夜。いつになく緊張しながら、僕は君を抱いていた。
ベッドで指を絡ませて、声を涸らした君の唇が。
その翌朝にまさか、にべもなく別れを告げるとは。
……今思えば、あの朝は。
友でなくなった君と迎えた二度目の夏の雨が、止んでいたように思う。
『カシャン』
指から滑り落ちたカップがコースターとの間で派手な音をたてる。
朝から続く憂鬱な雨の匂いが、甘く苦い記憶を延々と呼び起こし続けていた。
代金とチップをテエブルに置くと、椅子にかけてあったスーツのジャケットを掴み、カフェーを出る。
……ああ、まだ君を忘れられない。
別れ話の後すぐに海の向こうへ旅立った君は、行き先も告げずに僕を拒絶した。
それが君のためなのか、僕を嫌ったからなのか、今でもわからない。
そのすぐ後に今度は僕が、強引な縁談から逃げるように渡米した。3年を過ごし、君の消息を追うものの見つからず。半年前に日本へ戻って来たが、早速、新たな縁談が待ち受けていた。
「浩政(ひろまさ)さん?」
金融街の街では珍しく、女性の声に呼び止められた。
僕の新たな縁談相手だった。
「……君、どうしてここに」
「父の会社が近くですの。先程まで一緒にランチをしていたので」
彼女の父親は、僕の父の取引先の副社長をしている。
結婚という名の取引は、この世界では当たり前のことだ。心のない者同士が、金と家の為に一緒になる。
「雨が降りそうですから、お気をつけて」
僕は、更に何か言いたそうな彼女に別れを告げて足早にその場を離れた。
数ヶ月後には、彼女と寝室を共にする仲になるのだろう。
こうして皆、大人になっていく。渡されたカバンに入りきらなかった荷物を諦めて。
行き先の決まった列車に乗り込む為に、握りしめていたチケットを車掌に渡す。後は、ただ流れていく窓の景色を目で追うだけ。それが、人生だ。
――頬に、雨粒が当たる。始まった夕立。
この後、得意先の訪問を控えている。濡れるわけにはいかない。
大股で走り込んだ古びたアンティーク店の軒先で、逆から走り込んできた人影とぶつかりかけてとっさに抱きとめる。「失礼――」
「……すみません」
強張った声に、息が凍りついた。
抱きとめたままの肩。上等のスーツ。僕を見上げもしない男。
体が動かなかった。どしゃ降りの雨音が僕の鼓動を速くする。
まさか。まさか。
彼の手が僕の腕に触れて、逃れたい、と押した。
我に返った僕は、支えた肩から手を離した。
「ひどい、雨ですね」喉が震える。
確かめたい。声を、聞きたい。
「――ほんの一瞬ですよ」
ぽつりと返ってきた声が。
……ああ。
乾いた砂の体に、波紋のように広がって染み込んでいく。
「夏の雨は……あっという間に通り過ぎますから」
濡れた髪先から雫を滴らせながら言う君は、頑なに僕を見ようとしない。
いつ戻ってきたのか。今、どこに住んでいるのか。なぜ連絡をしなかったのか。僕から逃げるように去ったのは、なぜなのか。相手はいるのか。……結婚は、しているのか。
次々と浮かぶ疑問を口に出る前に握り潰す。
「……どこへ行くところだったの」
僕は声を絞り出した。あふれるほどの言葉の中から、自制を失わない適切な言葉を探すのは、とても難しかった。
「書類を届けに」
そう言った君は、ビニイルに包まれた封筒を握っている。
その手が、少し震えていた。
君の薬指には、まだ誰との誓いも嵌められていない。
熱い氷を呑んだように、喉が締まる。炎が白紙を静かに灼いていくように、胸が疼いた。
あの日の運命は僕達を裂くためだけにあって、君も僕もただ泣くしか知らなかった。
あの時の君の涙をすべて、飲んであげられていたなら。
……今でも思っている。
あの時、無理矢理にでも君を奪っていたなら。
咎める唇を塞いで、押し返す腕を封じて。掻き抱いて、すべてを奪ってしまえばよかったって。
瞬く間に通り過ぎた時と、足踏みの間に去った季節と。二度と戻らない君をずっと悔やんでいた。
あれから時間は充分に経ったはずなのに、夏の雨が未だに僕達の周りにカアテンをかけている。
「幸せなのか」
押さえた声で、君にたずねた。
君の声が、この荒々しい欲望の火を消してくれるように願いながら。
雨の音が、大きくなる。
君がなにか言った。雨音で聞こえない。
君が懐中時計を気にする。やはり僕を見もせずに。
……こっちを見てくれ。僕を見上げてくれ。
僕が愛した、黒い艶やかな瞳で。
そうしてくれれば僕は、今度こそ君を離しはしないのに。
「……それじゃあ」
一言言った君が、雨の中に小走りに駆け込んでいく。
煙った雨が、君を覆い隠す。
……ああ。
もうあの夏の日の雨は上がって。違う雨が、僕らの前に降っているんだ。
あきらめが僕を襲った。目の奥が痛んで、思わず咳き込む。言葉にならなかった想いが喉を裂いてしまいそうだ。
終わりはいつでも、呆気がない。
心の整理が何もつかないまま、手に残った君の体温を未練がましく追いかけていた。
……ふと、ひどい雨の中から音がする。
走る音が近づいてくる。
その、シルエットが。
僕は思わず、半歩前に出る。
君が、雨のカアテンの向こうから走り込んできた。ずぶ濡れの肩で息をして、僕を見る。
雨なのか涙なのか、わからないほど濡れた頬で。目を赤くした君が僕を見ている。
――泣いていたのか。
ずっと?
もしかすると、この束の間の時間中、僕の隣で。
いや……僕らが離れたあの日から、ずっと?
「……僕が、幸せだったと思うのか」
耐えかねたように言った君の声は、僕を責めるように嗚咽で震えていた。
運命は、僕らをいたずらに引き合わせて、なにを望んでいるんだろう。これから起こる悲喜劇を楽しもうというのか。
なら、見ればいい。
引き裂かれ、圧し殺され、お互いを求める心がどこに行き着くのか。
君を引き寄せる。
君は、あの日のように僕の胸を押した。
「生きていけないほど好きでいるのは……もう嫌なのに……っ」
君の、哀しくて溶けそうな甘い言葉が体を刺す。
道を分かたれたあの日から、後悔し続けていた。なぜこの愛しい唇を塞いでしまわなかったのかと。
君のあの日々の言葉はすべて、『奪って』と切に僕に請うていたのに。
「忘れ、られなかっ――」
その唇が哀しいセリフを二度と紡がなくていいように、今度こそ強引に言葉を奪って僕が呑み込む。
君の唇はあの夏の雨の日のように、冷えて震えていた。
2017/07/17
修正 2021/08/10
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