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サディストの憂鬱






6、世界の終わり


 日の落ちた道を歩いていた。
 まだ慣れない町の風景は、どこか他人事で冷え冷えとしていた。
 未成年の社会は新参者を簡単に受け入れるほど甘くない。同級生達にとって俺は冷めていて鼻につくらしかった。
 ……父親にさえ、その目が気に入らないと殴られるのだから、そんなに驚きもしない。
 こんなものかと。世界に絶望していた。
「誠二兄ちゃん」
 通りに入って来たところで声をかけられた。
 道の先に立っているのは……近所のガキだ。
「帰ってくんの遅いね」
「……おお」
「夕飯あるよ。食べに来てよ」
 そう言って、買い物袋を上げてみせる屈託ない笑顔。人生に輝きや希望を持った、清い魂。
 不愉快で仕方なかった。でもどこか心地良さがあった。
 俺という存在は確実にこいつの関心事項で、その純粋で一途な興味の大部分を奪っている。
「俺の分は買わなくていいって」
 横に並びながら話しかけた。いつもこいつに言ってることだ。
「おかず、一人で食べきれないんだもん」
「育ち盛りは、食わねえと背ぇ伸びねえぞ」
 からかってやるとそいつは、うるせーよ、とすねたように顔を背けた。小さな耳が赤くなっていた。
 その時まで。その瞬間まで。俺は、確かにこの世界に絶望していたんだ。
 あのまま絶望していればよかった。
 そうすればきっと、誰も不幸にしなかった。
 俺みたいな最低な人間に、光は必要なかったのに。


 ◆


 俺は中学に上がってすぐに新しい街へ越して来た。
 最近、役職をもらって調子に乗った俺の父親は家でも威張り散らして、お袋と俺をよく殴った。耐えかねたお袋が俺を連れて逃げるようにこの街へ来たんだ。
 いかにも都会らしい街は、静かで素っ気無く、無関心で性に合っていた。
 転校は想像通りに不愉快で、最低の中学から最悪の中学に移っただけだった。
 着慣れない詰襟が息苦しい。
 ……ただひとつ、俺の世界に似合わない奴が現れた。
 名前は、秋川穂。
 斜め向かいのアパートに住んでいる、2つ下のガキだ。
「気のいい奥様でね、果物いただいちゃった」
 胸くその悪い学校から帰ってきた俺を捕まえて、お袋が楽しげに話す。
 前に住んでいた町でうまくやれなかったお袋がようやく見せた笑顔だったから、俺は黙っていた。……いらない約束をしてくるまでは。
「秋川さん、小学校5年生の息子さんがいるんだって」
「へえ」
「だから今度、誠二君ごはん食べに来てね、だって」
「なんでそうなるんだよ」
 話は強引に進み、俺は次の日には秋川家で夕飯を食うことになっていた。
(……たりぃ)
 近所付き合いに巻き込まれるのは面倒だ。
 インターホンを押してすぐ、なんの応答もなしにドアが開く。
 ドアを開けた目のでっかいガキが、俺を見て固まった。
「……ここ、秋川サンの家だろ」
 そう言うと、鳩が豆鉄砲食らったみたいな顔はすぐに笑顔になって、こっちが面食らう。
 俺がこの歳にはもう反抗期だったはずだ。素直な笑顔を向けられて居心地が悪い。
「もしかして……たかがみ、せーじさん?」
「ああ」
「母さんまだ買い物なんだ、もうすぐ帰って来るんで上がって――」
 簡単に家に招き入れようとする穂に、ひやりとする。
「おい」
「え」
「ドア開ける前に誰が来たか確認しろ。簡単に家に上げるな。変態だったらどーすんだ」
 思わず言ったら、穂は目をきょとんとさせていた。
(……今のは余計な世話だったか)
 言ってしまったことを後悔する。小さい頃から留守番の仕方をお袋に叩きこまれていた俺にとって、穂の行動は考えられないことだったから。
 ……まあ、どうでもいい。一度飯を食うだけだ、深く関わるつもりもない。
「うん、気をつける」
 そう言ってまた素直に笑うガキに、俺は毒気を抜かれてしまった。
 穂は父親も兄弟もいないせいか、俺に懐いた。
 会ってすぐに俺を「誠二兄ちゃん」と呼び始めたところを見ると、人見知りしない性格なんだろう。母親に溺愛されて育ったんだなと、そう思った。
 二ヶ月経つ頃には、俺は新しい土地でそこそこ愛想よくする術を覚えた。
 引越しの時にやめた空手の道場も、安いところを見つけて通うようになった。
 同時に、お袋に夕食を持たされて「穂くんと一緒に食べて」と背中を押されることが増えた。パートに出るお袋にとって都合が良かったらしい。
 そしていつのまにか、穂と夕食をとることが普通になっていた。


「誠二兄、中学楽しい?」
「そこそこ」
「なにが得意?」
「まあ……どれもそれなり」
「空手やってるんでしょ? 何段?」
「昇段試験受けたことねーからわかんねえよ」
 可愛がっていたわけじゃない。返事も適当だった。
 ただ、俺の厭世的な考えを押しつけないために、自分のことは話さなかった。
 穂の話を聞いてやって、相談されればソツのない答えをした。
 それがどうも大人っぽいと思わせたようで、これ以上なく懐かれた。
 俺の時間は、自然と穂に奪われていった。


 ◆


「風呂入ったら?」
 穂が目をキラキラさせてそう言うようになったのは、俺が高校受験を控えていた頃だ。
 学校の帰りが遅くなって雨に降られた日。弁当屋の軒先で、濡れた頭を振りながら携帯で穂に電話をかけた。
『あ、誠二兄?』
「なんか食ったか」
『まだだよ』
「弁当買ってく。何がいい」
 自分と穂の分のを買って、いつものように穂の家に向かう。
 アパートに着くと、穂はずぶ濡れの俺を見て驚いた。
「誠二兄、びしょびしょ……!」
「傘忘れた」
「風呂入りなよ」
「家でシャワー浴びてくる。おまえ、先これ食ってろ」
「でも、もうお湯入ってるし! 着替え持ってくるから」
「おい――」
 止めるのも聞かず、穂は自分の部屋に俺のジャージを取りに行った。穂の母親が帰ってこない日は泊まることもあったから、俺の部屋着もこっちの家に置いてある。
「はあ……」
 ため息しながら濡れた髪を掻き上げて、とりあえず風呂場へ向かう。
 服を脱いで浴室の扉を開けると、湿気と温い空気が襲ってきた。大抵いつもシャワーで済ませるから、湯船に浸かるのは久しぶりだった。
 人ん家の風呂は落ちつかない。道場で酷使した筋肉痛の腕を撫でながら、湯煙の中で白いタイルの壁を眺めていた。
「誠二兄ー」脱衣所から穂が声をかけてくる。
「あ?」
「俺も入るー」
「……は?」
 返事も聞かない内に、穂が腰にタオルを巻いて浴室に入ってきた。
「冗談だろ、この風呂、二人で入るようにはできてねーぞ」
「だいじょぶ、だいじょぶ」
 にこにこしながら泡立てた石鹸で体を洗ってる穂に「なにが大丈夫だ……」と呆れた。
「……おまえって、思春期ねえのか」
「なに、思春期って」
 頭と体を洗い終わった穂が白々と言いながら、入浴剤で乳白色に染まった湯に入ってくる。
 タオルで覆った隙間から細い太ももが見えた。
(……小せえ尻)
 僅かな動揺を悟られないように、わざと舌打ちする。
「狭いっつってんのに」
 ガキの成長は早い。初めて会った時は細っこい肩をしていた。成長途中の穂の体は確実に大人に向かっている。元々が白い肌はまだ男の体に程遠かったけれど、伸びやかな線が出てきていて色気を感じた。
 花が咲く前の、若葉みたいだ。
 体を小さく縮め、向かい合うように湯船に入って座った穂が、俺の腕を目で辿る。
「おおー」
 感嘆の声を上げながら、風呂の縁に乗せていた俺の前腕の筋肉を押した。
「空手効果かあ……腹も割れてる?」
 湯の中を穂が手で探ってくる。その指先が俺の腹筋を探って妙な気分になった。
「……すご、固い!」
「その下もすげえけど」
「下ネタ禁止!」
 眉を寄せた穂は、湯気のせいか頬が上気して見えた。


 一緒の入浴が案外楽しかったのか、穂は味をしめたように機会さえあれば一緒に風呂に入って、俺に触りたがった。まだ筋肉も満足につかない自分とは対照的な俺の体が物珍しかったんだろう。
「またかよ……狭ぇんだよ」
「いいじゃん、裸の付き合いだろー」
 男同士の裸の付き合いってのは大衆浴場で行われるものだと説明するのも面倒で、放っておくことにした。
 狭い湯船で、穂が俺に背中を向けて座る。
「……なんだよ」
「頭洗って」
「甘えてんじゃねー」
 わざとガシガシ洗ってやると、痛い、とふざけて笑っている。
 泡がその首筋を流れていく。肩へ、背中へ。なんとなくそれを眺めていた。
「誠二兄の筋肉、順調に育ってる?」
 頭を流し終わってやると、穂がそう訊いてきて、俺は湯で赤らんだ体を目で撫でながら答えた。
「育ってんのは筋肉だけじゃねえぞー」
「……下ネタ禁止だって言ってんのに」
 いつものように言った穂の声が、少し上擦っているのを怪訝に思った。
 俺は、この頃から始まった自分の変化に、戸惑いを感じていた。




「……っ」
 グラビアを開いて、手を動かす。
 白い足の先から、膝、むちりとした太ももを眺める。
 今にも揺れそうなたわわな胸や、布地に隠された股間の膨らみ。感じている顔を想像して興奮を高めていく。
 一人、暖房のない部屋で行う排泄行為は、いつも惨めで後ろめたかった。大股開きで誘うアイドルは空しさの塊で、事が終わった後はいつも破り捨てたくなった。
 この、いつもの作業に変化が起きたのは、穂ともう何度目かの風呂に入った時だった。
 穂は風呂で俺の筋肉に触るのが恒例になっていて、湯船に浸かってすぐまた俺のヘソの辺りを撫でていた。
「あー……偶には一人でゆっくり入りてえなあ」
 そうゴチて、わざと湯船の中で足を伸ばすと、穂が文句を言いながら膝立ちになる。
 目の前にその薄い胸やら腹やらが晒されて、一瞬動揺した。桃色に染まった肌。流れ落ちていく水滴。つんと小さく上向いた桜色の乳首――いつものように乳白色に染まった湯は穂の腰から下の肝心な所を隠していて、心臓がドクリと鳴る。
「誠二兄がどんどんでかくなるから狭くなるんだろ……」
 穂がぶつぶつ言いながら、俺の太ももの上に跨って座った。
「……っ!」
 思った以上に肉が少なくて小ぶりな尻が、ぺたりと俺の腿に吸いつく。
 すぐ目の前に、上気した肌と乳首。
 溜まっていたのかわからないが、その瞬間、俺は反応してしまった。
「ばか、上に乗るな」声が掠れる。やばい。
「誠二兄が足伸ばすから悪いんじゃん。ここしか座れねえんだもん」
 そう言いながら、ずず、と俺の腿の上を柔らかい尻で滑り落ちてくる。
 俺は焦って、その細い腰を両手で掴んだ。
「っ」びく、と穂の体が揺れる。
「……てめえ、成長期舐めんなよ」俺は、そう、暗に自分の状態を知らせた。
 穂が、あ、と呟いて、みるみる赤くなる。
 ……何も遠慮するはことない。男同士だ。変に隠す方がおかしい。
 穂が困ったようにもじもじと体を揺らすので、俺は「動くなアホ」と睨んだ。
「だって……俺……」言いながら、穂が湯の中に両手を突っ込んで腰に巻いたタオル越しに自分の前を押さえている。
 俺は、呆気にとられた。
「……つられてんじゃねーよ」
 穂が抗議しながら体をよじるのに構わず、俺はその細い腰がそれ以上悪さをしないように抑えつけて、ひたすら自分の熱が治まるのを待った。


 風呂から上がると、気まずそうにしている穂に構わず、言葉少なに家を出た。
 冷えた夜気で、火照った体を冷まそうとする。妙に気分が高まっていた。
 自分にあれこれ言い訳しながら自宅に入ると、俺は誰も居ないリビングを通り自室に入った。カバンと制服をもぐように脱いで、部屋着に着替えながら机の奥にしまいこんであるグラビア雑誌とエロ本を取り出す。
 ページを開いて、ベッドに投げ出した。ジャージの中に手を突っ込むと、一旦鎮まったはずの自分のモノがまた反応しているのに寒気がした。
 忘れるために、行為に耽る。
 ……俺が求めてるのは、こっちだ。大きく膨らんだ胸と、いかにも触り心地のよさそうな肌、誘うような女の目――そう言い聞かせながらモノを扱く。
 雑誌を見ていないことに気がついたのは、自慰を始めて間もなくだった。
 頭の中には水着の女じゃなく、裸の穂が居た。頭から追い出そうとしても無駄だった。
 掴んだ細い腰の感触が、この手に残っている。穂を浴室で組み敷く妄想ばかり浮かぶ。抵抗する足を開かせて、本人の意思に逆らって反応している幼さの残る性器と自分のとを片手で持って擦り合わせる。
 穂は、俺の下で快感に抗えずに顔を真っ赤にして喘いでいた。
『あっ、んん……っ』
「……っ」
 腰の動きを激しくしてやると、しなやかで白く細い肢体がびくびくと痙攣をはじめる。跳ね上がる足を俺の腰に絡ませて、その華奢な腰が揺れる。
『せ……いじ、にぃ、俺、もぅ……っ』
 その動きが、次第に大胆になって。
 俺は悶える体を押さえつけて、恥ずかしい台詞を注ぎ込んだ。
 たくさんねだらせて、蹂躙する。痙攣する白い腹。その上にぶちまける。
 穂が赤い唇をはあはあと震わせながら、俺の下で快感の名残で震えて――……今までで最高に興奮した汐を吐き出した後、俺は呆然としていた。

 俺はその日を境になにかと理由をつけて、穂の家に行かなくなった。
 高校に入れば生活も変わった。適当に彼女も作って、本来の道はこっちだと自分の体に染みこませようとした。
 その内、大学受験の勉強も忙しくなって、穂とはますます疎遠になった。
 時々、道でばったり会うこともあった。知らないフリで通り過ぎようとする俺に、穂は必ず声をかけてきた。
「誠二兄、最近来ないね」
 寂しそうに言われる度に、責められているようで。
 汚い自分を見透かされているようで。
 俺はいつも、逃げるようにその場から離れた。


 ◆


「誠二くん」
 塾帰りの夜、自宅に入るところで穂の母親に声をかけられた。
「話があるんだけど、いいかしら」
 一見にこやかに見える表情は引きつっている。なにかよくない話なんだろうということはすぐに想像がついた。
 家に招き入れて、テーブルに案内する。誰も居ない部屋は冷え切っていた。穂の母親は、暖房と茶を入れようとした俺を引き止めて向かいに座るよう促した。
「これを見てくれる?」
 テーブルの上にデジカメの画面を差し出され、目を細める。
「……俺、ですか」
 写っていたのは、紙に印刷された俺の写真だった。
 嫌そうな顔をしながら湯船に浸かっている、1枚。
 次の画像は、学校帰りの俺を撮った、1枚。
 最初の1枚は覚えがあった。一緒に風呂に入った時に、穂が携帯で俺を撮ったものだと思う。誠二兄の筋肉はかっこいいと褒めちぎられて、満更でもない気分でいた。
 2枚目は覚えがない。信号待ちみたいだが、無意識の時に撮られたものだ。
「これが、なんですか」
「……これだけじゃないの」
「え?」
「穂の部屋に、あと3枚あったの。お風呂で撮られたものだと思うけど」
「はあ」
「あなたの全身が……裸で写ったものもあった」
 俺は、すぐに穂の母親が言いたいことがわかった。
「……穂が、俺に渡すつもりで持ってたんじゃないですか」
 俺が茶化すように言うのを遮るように、穂の母親が表情のない声で口早に言った。
「大人の本に挟んであったのよ」
 ああ、こういうのたまんねえな――と思った。母親にオカズにしてる本を探し出されて、使ってる写真を見つかるっていうのは屈辱的で絶望的だ。
 穂に同情した。嫌悪感はなかった。なんとなくわかっていたのかもしれない。穂が俺に、そういう意味で関心を持っていることを。
 それは最後に一緒に風呂に入った時にわかった。あいつは反応した俺につられたように勃たせていたし。俺も、そんな穂に欲情した。そのまま扱いて気持ちよくしてやっても良かった。
 そうしなかったのは、俺の中に思った以上に常識や恐れがあったせいだ。
 穂はたぶんあの時、自分の中の違和感に気づいたんだろう。少なくとも俺は気づいた。気づいて、頭の中で穂を汚した。
 俺が穂と距離をとろうと決めたのは、穂をオカズにした罪悪感だけじゃない。
 次に会った時、穂が何かを期待するような表情をしたからだ。その顔を見た途端、俺はどうしようもない焦りに駆られた。
 真っ直ぐに育っていたはずの若葉の花弁を、無理やり開いてしまった。太陽に向かって咲くはずが、暗く湿った、俺が棲む日陰を向いて――。
 俺は、穂の未来を汚してしまった事に気づいた。
 その時俺は急に襲ってきた焦りから逃げ出したくて、忙しくなるからもう家には行けない、と穂に告げた。
 穂は、そうなんだ、と無理に笑っていたけど、内心傷ついていたと思う。
 俺にはそれを思いやるだけの余裕がなかった。
「穂と会わないで」
 金輪際。二度と。うちにも来ないで――。
 それは、母親としての決意を含んだ強い口調だった。
 俺は、穂の母親の中で悪者だった。反論はない。俺も、そう思った。
 あんなに真っ直ぐで一途で、この俺を一瞬でも上向かせた穢れない存在を、俺は頭の中だけじゃなく現実に辱めているんだから。




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