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サディストの憂鬱






5、最悪の結末


 手で探った白いシーツは冷えて、温もりはない。
 ああ、なんだ……いつもと同じだ――。
 目を開けたくない。いつもの悪夢が続いていることがわかってしまう。あんなにひとつになっていたはずの人が、この部屋にいないことに気づきたくない。
 ――思いが通じ合って、ハッピーEND。
 そんなのはきっと、おとぎ話の中だけなんだ。

 薄暗い部屋の空気を裂くように無遠慮な着信音が鳴る。体を起こそうと動かした腕は、昨夜の名残で力が入らない。 
 なんとか携帯を手にとって刺さるような音を打ち切り、耳に当てる。
『あなた今、どこにいるの』
 今一番聞きたくない声に上の空で返事をする。一方的に待ち合わせ場所を告げられて、通話が切れた。
 だるい体を起こして、バスルームに向かう。
 昨夜、途中で気を失ったのかもしれない。記憶にないけど体が拭かれていた。
 シャワーにすべてが洗い流されていく。甘い倦怠感に包まれているのに心の中がざわついてしょうがない。
 誠二兄の石鹸を使ったら、バスルームに溢れた香りに条件反射みたいに腰が疼いた。苦々しさをぶつけるようにタイルの壁を叩く。
「どうして居てくれないんだよ……」
 確かに昨日触れ合ったはずだ。
 誠二兄の目の奥に、何かの感情が見えた気がした。でも確信がない。
 だって、前と後の文脈が繋がらないんだ。
 店で「もう会わない」って言われて。ベッドで「愛してる」って言われた。
 昨夜はほとんど熱に浮かされていたから全部が夢だったのかもしれない。
 シャワーを出たら帰って来てるかも――わずかに抱いた期待は、部屋に戻るといつも通りに崩れた。
 誠二兄の上着はない。携帯も見当たらない。
 そして、主が帰ってこないことを知っているような部屋の空気は、いつも通りに冷たい。
『俺が今まで、どれだけ必死でおまえから離れようとしてたか、わかれよ……!』
 ――あの言葉は、今思えば最後通告にもとれる。誠二兄の最終的な答えはきっと変わってない。
 全力でぶつかるほどに、俺は自分の体が砕けている気がした。
 デスク上のデジタル時計を見ると、あと2分で8時だ。着替えを済ませてカバンを手に持つ。ほんの少しの期待をこめて、ほんの少し、部屋の主を待った。
 三十分を過ぎても、部屋はシンと静まり返っていた。
 期待をすると後が辛い――そう、俺に教えてくれた人の部屋を後にして、待ち合わせ場所に向かった。


 会ったら、誤魔化すつもりだった。
 昨日と同じ服の言い訳も考えていた。友達の家に泊まっていたとか、バイト先の先輩に捕まって朝まで飲んでいたとか。
 でも駅前に現れた待ち合わせの相手――俺の母親は無表情のまま開口一番に言った。
「あの人と一緒にいたのね」
 俺がまだ小さい頃。母さんが無表情になった時は、夕食を抜かれたり、一日口をきいてもらえなかったりした。そんな過去の記憶が浮かんで、俺はこの表情は母さんが怒り狂っている時だという事を今の今まで忘れていたことに気づいた。
 それぐらい俺の頭の中は、誠二兄のことでいっぱいだったんだ。
「あの人、って」
「言わせないで」俺の腕を掴んで、母さんが口早に言う。
「帰るわよ」
「っ、は?」その手を振り解いて後ずさる。「何だよ急に」
「偶然会ったなんて下手な嘘ついて……二人揃って親を騙して! 昨日一緒にいたんでしょ!?」
 さっと血の気が引いた。
「なんで、そんなこと」
 母さんが黙っている。
 俺は、目の前のこの女性が急に他人のように感じて怖かった。
「あの人がそういう行動に出るんだったら、私だって考えがあるわ」
「……あの人、って、誰のこと言ってんの」
 誠二兄の名前さえ口にしようとしない母さんの態度に、ふつふつと怒りが湧いてくる。
「あの人と寝てるの?」
 急に叩きつけられた言葉に、思考が凍りついた。
「昨日、あの人のところに泊まったのね」
「だから、何の話してんだよ」
「とぼけないで!」
 無表情だった母さんが声を荒げた。そしてふと我に返ったように周りを見渡すと、声を抑えながら最大限の怒りをこめて俺を見据える。
「男同士なんて……あなたは私の息子なのよ!?」
 俺の両腕を掴んで、母さんが力いっぱい揺さぶってくる。
 俺は何がなんだかわからないまま、目の前で取り乱している母さんを見ていた。
「あなたは普通に女の子と恋愛をするの! 私に孫の顔を見せてよ!」
 何かにとりつかれたようにまくし立てる母さんと対照的に、俺は頭から冷水を浴びているように冷静で、徐々に状況が飲み込めてきた。
「嫌な予感がしてたのよ……あの人、うちに遊びに来るようになってから穂を変な目で見てた。私、気づいてたんだから」
「……は?」
「あんたは素直でスレてないから心配だったの! あの人、見るからに遊んでそうだったわ、いやらしい――」
「待てよ」
「もっと早く引き離しておけばこんなことには」
「待てって言ってんだろ!」
 今度は俺の声に母さんが目を見開いた。
「今の話、どういうことだよ」
 一瞬、表情を曇らせて母さんが視線を逸らす。
 俺は逃すまいという気持ちを込めて、母さんを真っ直ぐ見据えた。
「誠二兄に、なに言ったんだよ」
 母さんが顔を上げる。そして、俺を睨んだ。
「穂から離れてって言ったわ」
「え」
「あなたが高校に上がる時に、【二度と穂に会いません、連絡を取りません】って、サインまでさせたのに」
 ――……え?
「なのにあなた達は会ってた……あの男は嘘をついたのよ!」
 ――なんだよ、それ。どういうことだ?
「穂。お願いだから、あんな遊び人に関わらないで。あなたは騙されてるの」
 雪崩れてくる話を、俺は何も言えないままどこか遠くに聞いていた。
 頭が回らない。わけのわからないやり場のない気持ちが喉の奥を上がってくる。
「……ふざけんなよ……」やっと一言、喉から絞り出た。「誠二兄にそんなこと……どうして!」
 手を振り解こうとすると、母さんが尋常じゃない力で俺の腕を掴みなおして叫んだ。
「あなたは高校生になる頃だった! 悪い影響を受ける前に離さなきゃいけなかったの、わかるでしょ!?」
「わかんねえよ!」
 母さんの手を振り解く。
 駅に入っていく人達が、何事か、という風にちらちらとこっちを見ていく。でも、どこか別の世界だ。今、俺のいる世界は道行く人達と隔たりがある。
 いつからこんなに遠く離れてしまったんだろう。
 また伸びてきた母さんの手から、とっさに逃げた。
 ……触られたくない。親の顔をして、どんなひどい事を誠二兄に言ったのか。俺の好きな人に、どんなひどい事を言って傷つけたのか。
 怖くて情けなくて、悔しくて、やり場のない感情が溢れそうになる。
「穂」
「ひでえよ……っ、どうして、そんなこと」膝が震える。
 再会したあの日。道でばったり会った誠二兄の表情が、つい先刻のように蘇る。
 俺を見た時の驚いた顔。気まずそうな視線。
 誠二兄が口にした、ひどい言葉。ひどい条件。
 それを俺は全部呑んで、誠二兄にあんな表情をさせた。
『おまえ、俺のこと大好きなのな』
 あの自嘲めいた苦笑は、言葉にならない誠二兄の気持ちだった。
 ――俺が、ひどいことしてたんだ。
 誠二兄が母さんになんて言われたのか大体想像はつく。
 何も知らなかった。なんで気づかなかった?
 好きな人のことなのに。なんで――。
「穂。どこに行くの」
 元来た道を足早に戻る。一刻も早くここから離れたかった。
 頭の中がぐちゃぐちゃだ。誰でもいい、宥めてほしい。全部夢だ、心配いらないって。
 でも、これは現実なんだ。
「穂! お母さんは許さないわよ!」
 背中に叩きつけられる取り乱した声に涙がこみ上げる。
「あの人と会わないで! 今後一切……!」その声が、あまりにも悲痛で。
「あなたは男の子なの!」
「言うなよ!」
 振り返ってぶつけた声が、情けなく裏返った。
 母さんは無表情に、その目で『許さない』と俺に言っていた。
「……もう、いい加減にしてくれよ……っ」
 刺さった事実が全身を蝕んでいく。
「どうして、あの人じゃなきゃいけないのよ……!」
 耐えられない。
 振り切るように駆け出した。めちゃくちゃに走った。人目もはばからず夢中で。この現実から逃げ出したかった。
 でも、いくら走っても知ってしまった事実はますます俺の心を深く抉っていく。
 そして、母親にあんな顔を……あんなひどいことを言わせてしまった自分に気づいて、どうしようもない苦しさに襲われた。
 俺はみんなにひどいことをさせている。どうしてだろう?
 ただ、誠二兄を好きなだけなのに。
 ――会いたい。
 会っちゃいけない。俺の片想いは誠二兄を悪者にしてしまう。
 頭ではわかってるのに、その胸に縋りたくてたまらなかった。
 突き飛ばされてもいい、あの腕に触れたい。
 抱きしめてくれなくてもいい。俺が抱きしめたい。
 抱きしめて、「ごめんなさい」と言いたい。
 何も知らずに、苦しめて悩ませて、酷いことを言わせてごめんなさい。
 そう言って――別れたい。
 視界がぼやけて、嗚咽がせり上がってくる。
 誠二兄がどうしていつも姿を消すのか。逢う度、何もなかったかのように、振り出しに戻ったように振舞うのか。
 どうして、あんなに苦しそうに俺に触れるのか。
 どうして、酷い男なのか――全部、わかった。
「誠二兄……っ」
 人気のない通りで膝から崩れ落ちる。全ての力を奪って涙が声と共に溢れて出て行く。
 謝りたくて、顔が見たくて、好きで、苦しくて、離れたい。
 二度と会わないと、今度は俺が誓う。もう苦しめないとあなたに誓うから。
 誠二兄はサディストじゃなかった。俺を突き放せない、優しい、近所のお兄さんだった。
 俺があの日、好きと告げなければ。きっとずっと優しいお兄さんでいてくれたはずだ。
 遠くの喧騒は今はただ優しく。嗚咽する俺を静かに包んでいた。




初出 2011/08/02
 No.30000ゲッター様リクエストで、「『サディストの憂鬱』の続編」でした。特に語ることもありませんが……予想通りのシリアス展開ですね。反省。リクエストありがとうございました!

 久賀


修正 2019/12/22




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