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サディストの憂鬱






2、こぼれた水


「……は?」
 呆気にとられた声が返ってきて、今、自分が何を言ったのかわからなくなった。
 俺を凝視してるきれいな顔としばらく見合ってから、死んでも口にしちゃいけないことを口走ったことに気づいて俯く。
「おい……赤くなってんじゃねえよ」
 呆れて少し怒ってもいる声に、俺は恐る恐る視線を上げた。怪訝そうな眼差しとまともにぶつかって、頭の中が真っ白になる。
「だ、だから、その」
「おまえ、冗談言うキャラだっけ」
「ち、違うよ! 冗談じゃ――」
「からかう相手が悪ぃんじゃねえの」
 ――言わなければよかった。
 後悔したって、もう遅い。
 俺が小学5年の時に近所に越してきた中学生が、誠二兄だった。
 親同士が仲良くなってから、よく家に来るようになって、一人っ子だった俺は兄貴ができたみたいで嬉しかった。ずっと後ろをついて回っていた気がする。
 誠二兄の視線はいつも遠く、どこか影がある。大人っぽくて落ち着いていて、憧れていた。
 でも俺が高校生になる頃には誠二兄とほとんど会わなくなった。訪ねて行っても、いつも留守。
『いつもどこに行ってるんだろ』
『前はよく勉強教えてくれてたのに――』
 気がついたら、誠二兄のことばっかり考えてた。
 俺も受験で忙しくなって、会うきっかけさえなくしていた頃。
「なあ、穂。おまえ高上さんと知り合いじゃなかったっけ」
 予備校の休憩スペースで同級生に急に言われて、ドキリとした。
「誠二兄がどうかした?」
「俺の兄貴があの人と同じ大学なんだけどさ、すげえらしいよ。なんか聞いてる?」
「すごいって……なにが?」
「モテまくってるって。彼女いるらしいけど」
 その瞬間、ズキッと胸が痛んだ。
 俺が知っている誠二兄は硬派で、その口から女の子の話を聞いたことはなかった。でも俺の家によく来ていた頃から数年経っているし、性格だって多少は変わったかもしれない。彼女だって……誠二兄くらいかっこよければ、いて当たり前だと思う。
 でもなんか、胸がざわざわした。
「噂じゃ、とっかえひっかえ遊びまくってるってさ。彼女も何人いるんだか」
「え……?」
 あざけるような表情の同級生を見つめる。それって本当に誠二兄の話なのか? 
「来るもの拒まずって感じだよなあ。ろくでもねー、クズじゃん」
「……誠二兄のことよく知らないで勝手なこと言うなよ」
 思わず声が尖った。ひるんだ同級生はすぐに謝ってくれたけど。
 俺はその日からよく眠れなくなった。
「彼女が何人もいるってホントかな……しかも、遊びまくってるなんて――」
 同級生が言ったことが頭の中を引っ掻き回した。
「誠二兄が欲望の向くまま……? 想像できない……」
 そういう人じゃない――俺の中で妙な確信があった。
 会って話してみればわかると思う。たしかめたい。噂は本当なのかどうか。
 頭の中が誠二兄でいっぱいで、今すぐにでも会いたくて変になりそうだった。
 せめて声だけでも聞きたい。そう思い詰めた頃、学校帰りの道端で携帯を取り出したところでばったり会ってしまった。俺のあまりにも強い念で引き寄せてしまったのかとさえ思った。
 久しぶりに会ったその人は、たしかに俺が知ってる誠二兄とは違った。精悍で寡黙だった雰囲気は、手足も背も伸びて気だるくて甘くて、いかにもモテそうな印象に変わっていた。
 誠二兄は緩やかに波打つ茶髪を掻き上げて、目にかかる前髪の合間から俺をだるそうに見た。
「……穂かよ」
 俺がよく知っている声よりも、もっと低くて色っぽい声で。俺を、呼んだんだ。
 一瞬で、汗が吹き出すほど体温が上がった。
 やっぱり誠二兄だ。会いたくてたまらなかった誠二兄が今、目の前にいる!
 ふいと顔を背けて行ってしまおうとする足を止めたくて必死で、俺は段階をすっとばした。
「俺、誠二兄が好き……!」
 『近所のガキ』に涙目で叫ばれた誠二兄の困惑した反応は正しい。目の前に、顔を真っ赤にした男子高校生が立っていたら、どうしていいかわからないだろうし。
 俺は大失言をやらかしたんだ。
 全部、終わった――。
「で?」
「……え?」
「え、じゃねーよ……」
 ぶつぶつ言いながら煙草を取り出してくわえた誠二兄の口元に、自然と目がいってしまう。
(……いつから吸ってるんだろ)
 急に知らない人みたいに感じて、胸ががさがさした。
 誠二兄がライターで火をつけて煙を吐き出す。
「目ぇうるうるさせて妙なこと口走ってる理由を説明しろって」
「だ、だから、誠二兄のこと、が……って……」
「ぼそぼそ言うな、聞こえねえ」
「……せ、誠二兄、好きな人いる? 彼女は?」
そうだ。順序としてはこっちの方が正しいはずだ。
 同級生の話が本当なら、誠二兄には彼女がいる可能性が高いけど……とにかく話をしたかった。
「そんなの訊いてどーすんの」
「どうする、って」
 この人は俺の話を聞いてたんだろうか?
「俺に恋人がいなかったとして。おまえ、どーするつもりなわけ」
 ……あ、そうか。わかった。誠二兄の言いたいことが。
 誠二兄にしてみたら、男に告白されて男とつき合うとか……そういう発想はないんだ。
「ご、ごめん……」
 消え入りそうな声で言ったら、大きなため息が聞こえた。
「要するに、俺と寝てみたいってこと?」
「そ、そうじゃなくて」
「違うのかよ」
「あ、いや、違わない、けど」
「おまえゲイなの」
 ギクリとした。誠二兄が好きだということしかわからない。だから俺は混乱して考え込んでしまった。そんな俺を見て、誠二兄は目を細めて顎を撫でた。
「あー……女か」
「へ?」
「彼女できたんだろ。予行演習? ゴムの付け方なら教えてや――」
「ち、違うよっ」
 誠二兄のこと考えて……した、こともあるし。でも、この気持ちは寝たいとかってだけじゃなくて。そうじゃなくて。
 じわ、と視界が歪んで唇をかみしめた。喉の奥が痛い。
「おーいー……泣くんじゃねえ、俺が泣かしたみてえだろ」
「ご、ごめん」俯いたまま鼻をすする。
 何か考えているような誠二兄の空気が煙と一緒に漂った。
 その沈黙が重くて、震える息を吐き出す。
「俺、誠二兄とつきあいたい、ん、です」
 そうだ。そうなんだ。
 俺は誠二兄の恋人になりたい。
 好きだから、傍にいてもいい関係になりたい。ただそれだけなんだ。
「だから……ちゃんとフってもらえれば、もう困らせるようなことは――」
「いいけど」
 一瞬、思考がストップして顔を上げた。
「……へ?」
「ヤるだけなら。おまえ、まあ可愛いし……できなくもなさそうか」
 なんだろう、この展開。誠二兄のセリフが頭の中でぐわんぐわん回る。
「抱く方なら、やってもいいけど」
 ――俺のこと、どう思ってんの?
 とか、そういう次元の話は通用しなさそうなのは想像がついたので、俺は誠二兄のだるそうな調子の声を縋るように聞いていた。
「言っとくけど俺、男にマジにならないから」
 ――フられた。
 確かにこのとき、フられていたんだ。
 けど、思考がマヒしてた。煙草をふかす目の前の大学生の話に茫然としすぎていた。
「それでもいいんだったら相手してやるよ」
 よせばいいのに俺は、催眠術にでもかかったように思いっきり頷いてて。
「い、いい! それでも!」
 夢にまで見た誠二兄がいいって言ってくれるなら、なんでも言うことを聞けると思った。
 一瞬、煙たそうに眉根を寄せた誠二兄が、吸い殻入れを取り出して煙草を突っ込む。
「重いのはムリ。束縛されんの嫌いだから」
「わ、わかった、束縛しない!」
「体だけな。恋人みたいなのとか期待すんなよ」
「せ、誠二兄が、それがいいなら!」
「わかってんのかよ……セックスするだけだって言ってんだぞ」
「わかってる!」
 言ってから、はっとした。
 誠二兄は気が向くまま……やっぱり気軽にこういうことをするんだ。
 噂はほぼ真実なんだとわかった。それでも俺の中の誠二兄への気持ちは変わらなかった。さっきからドキドキしっぱなしで、俺に構ってくれるなんて奇跡だとも思った。
 他にもなにか釘を刺すようなことを言われた気がする。事実上のセフレ扱いなのに、俺は好きでたまらない誠二兄に相手にしてもらえるという状況に目隠しされて、大事なことに気づけなかった。
「……おまえ、俺のこと大好きなのな」
 大きなため息をして呆れている誠二兄に、頷くしかできなかった。
 誠二兄が一瞬見せた複雑な暗い笑みを、今でもはっきり覚えてる。
 今思えばあの時、俺はボタンを掛け違えてしまったんだ。


 ◇


「……ン、んぅ」
「……は。なんだよ、今日はずいぶん熱心に舐めてんのな」
 降ってくる吐息と一緒に髪をやんわりとかき乱されて、目を開ける。
 なんで急に昔のことを思い出したんだろう。あのときはまだ、誠二兄にこんな風に触れる日が来るなんて思ってなかった。
 誠二兄が眉根を寄せる度に、ぎゅっと俺の腹の奥が疼く。いつも好きにされるけど、この時だけは主導権を握れる気がして興奮するんだ。
「……なに、人の顔見てんだよ」
「ン、だ、って」
 薄く嗤った誠二兄に見下ろされて、舌の根がひくつく。
「ついこの間、やめるとかなんとか、っ、騒いでた奴が……」
 誠二兄の内股の震えと同時に強く髪を握られる。息を噛み殺しながら俺を見下ろす表情がズクンと腰にきて、頭を動かすのを速めた。唾液が溢れて口の中いっぱいの誠二兄に絡まる。
「っア、はぁ……っ、ハッ、出」
 る、を聞く前にぐっと頭を押さえられる。えずきそうになったところに飛沫を感じて、味を感じる間もなく飲んだ。誠二兄の体の震えにつられて身震いして、あ、と思ったら少しイっていた。
「っ、は……人の舐めただけでイッてやんの」
 掠れた声が色っぽい。腰が疼く。
 腕をひかれてベッドに組み敷かれた。首や胸に吸いつかれて、息も絶え絶えに喘ぐ。
 久しぶりのたっぷりとした前戯が、たまらなく気持ちいい。見ているだけで胸が切なくなるような大好きな手や唇が自分の肌を撫でているなんて、天国にいる心地だ。
 どろどろにとろけきったところで両脚を割り開くように抱えられると、繋がる前の独特の緊張感に体が震えた。
 圧しかかってくる体。誠二兄の肩の筋肉が引き締まって、心臓が跳ねる。
 さっき出したはずなのにまた固くなってるのを押しつけられて、お尻の奥が疼いた。
 誠二兄は脇腹で俺の脚の付け根を押さえつけて体勢を固定すると、自由になった右手で俺の尻の狭間を探った。遠慮のない指先に、びくりと膝が震える。
「ぬるっぬる。早くしてくれって?」
 今更だけど、誠二兄はドのつくサドだ。こういう関係になるまで知らなかった。
 そんな誠二兄の言葉にいちいち感じてしまう俺は、バカのつくマゾかもしれない。
「腰動かすの面倒だなー……」
 耳元に息を吹き込むように告げられて、ぶわっと肌が粟立つ。あからさまな言葉に想像させられて、欲しくてたまらなくなった。
「こんなキツそーなとこ、つっこむのもめんどくせえ」
 熱い体温が一瞬そこをぬるっと撫でる。俺の頭の奥で何かが外れてしまった。
「や、やだぁ……っ」
 腰を揺らめかせて滑っていった熱を探してしまう。
「なんだよ」
 熱っぽい息で冷たく言われて、頭がぐるぐるする。
 誠二兄は、なかなか言葉にできない俺に愛想を尽かしたように体を起こそうとする。俺は焦って、その肩に縋った。
「……ねが……っ、して……っ」
「あ?」
 誠二兄が口端を上げる。意地悪な顔。たまらなくなって俺は啜り泣いた。
「っ……俺が、自分で乗る、から……っ」
 誠二兄の目が細められる。
 俺は震える手を伸ばして、誠二兄の熱いモノに必死で指を絡ませた。
「誠二兄のこれ、俺ン中に入れてもい……っ?」
 急に、誠二兄の全体重がかかってくる。
「エロガキ」
 咬みつくようなキスと一緒に脚を抱え直されて、入ってきた熱で一息に奥まで突き上げられた。
「んぅ――……っ!」
 待ち焦がれた繋がりは強烈で、一瞬目の前が真っ白になった。
 続け様に腰を揺らされて、じんじんする先端から押し出されるように何度も精を吐き出してしまう。
「ぅ、うぅ……」
「……おま、ところてんかよ」
 我慢できねー奴、と舌打ちしながら見下ろしてくる目は狂悪に熱っぽかった。
 力が入らない体を突き上げられる度に、ビクビク痙攣してしまう。
 背中を仰け反らせて厚い肩に縋った。ぴんと伸びた自分の爪先が視界に入って、達した体に火が燻ってるのに気づく。
「あ、あ、ア、ぁん……っ」勝手に濡れていく声と一緒に、頭の中が蕩けていく。
「俺がイくまで我慢しろ。できなきゃ、途中でやめるからな」
 揺さぶられながら乱暴に囁かれて、俺は必死で体の中の誠二兄を締めつけた。




 朝になると独りだった。もう慣れた。
 渡されている部屋の合鍵は『勝手に帰れ』という意味であって、甘い理由で持たされてるわけじゃない。
 ひどい。あの人は、ひどい人なんだと思う。
 同級生から見れば、誠二兄はクズだったんだろう。
 でも俺は誠二兄とこうなることを止められなくて、やめられもしない。
「なんでかな……わかんねえ……」
 ギシギシ甘く痛む体をバスルームまで引きずって、シャワーをひねる。朝方の行為の後始末をするために後ろに指を這わせて、腹が痛くなる前に目が覚めてよかったと思った。
 指にまとわりつくぬめりに、昨夜の誠二兄を思い出して唇を噛む。
 誠二兄の声が好きだ。物憂げな空気も大人っぽい香水の匂いも。その中に包まれるほど近くで浸っていると体が甘く溶けてしまう。突き放すような言葉や視線さえ貴重で、相手をしてもらっていること自体が奇跡に思えてしまうんだ。
 俺はいつも敗北している。
 せめてセックスが最悪ならいいのに。サディストらしく、酷く扱われていれば嫌いになれるかもしれないのに。口では酷く言われても、抱かれている内にどろどろになって、最後にはどうしても気持ちが悦くなってしまう。
 胸やおなかに無数につけられたキスマークを指先で辿る。内もものきわどい場所に歯型の内出血を見つけて、じんと全身が疼いた。
 いくら肌を合わせても、心がわからない。誠二兄にとって何のための行為なんだろう。
 男を抱くのは面倒くさいんじゃないんだろうか。わざわざ面倒な思いをしてまで俺を抱く理由はなんだろう。
 ……期待したくなる心が虚しい。
『ヤるだけなら。おまえ、まあ可愛いし……できなくもなさそうか』
 あの時の誠二兄の言葉を思い出した。
 ――ああ、そうだよ。
「……都合がいい以外、何もないんだ……」
 好きなだけ抱いて中に出せる。下品な俺たちのセックスに意味なんかないんだ。
 俺の情けなく震えたため息は、シャワーの音に掻き消された。




初出 2008
修正 2019/12/22




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