[]





 週明けの月曜。
 俺は担任クラスの教室の戸を、少しの緊張を抱えたまま開けた。
 真っ先に視線をやった窓際の席に、見覚えのある姿がある。
 ――あ……。
 育井田は、眠たそうに窓から外を眺めていた。いつもの、大人びた横顔だ。
 胸が高鳴って嬉しくて、たぶんニヤニヤしてしまっていたと思う。
「相川」
「はーい」
「育井田」
「……はい」
 いつもは返ってこない声が返ってきて、俺の胸に染み込んだ。


 4限目までびっちり入っていた担当教科の授業を終えた俺は、この疲労感にも関わらず軽い足取りで廊下を歩いていた。
 ファミレスの話し合いからまだ3日だ。まだ夜のバイトはやめていないだろうけど、朝のホームルームに出てくれたのは大きな一歩だと思う。
「せーんせ」
 背中をどんっと押されて振り向くと、俺のクラスの女子3人組がニコニコして立っていた。
「お、おお。どーした?」
「育井田くん、今日は授業全部出てたよ」
「えっ、ほんと!?」
 女子がこそこそと手で口元を隠しながら伝えてくれて、俺は子どもにかえったみたいに一緒にはしゃいでしまった。
「……おーい、ちくってんじゃねーよ」
「きゃっ」
 どこかまだ眠たそうな育井田が、いつのまにか後ろに立っていた。袖をまくった腕を指定のスラックスのポケットに突っ込んで、女子生徒たちを眠そうに見下ろしている。
「悪いけど、先生に話あるから借りていい?」
「う、うんっ」
 頬を赤く染めながら、女子たちが遠慮しいしい場を譲ってくれる。
 ……育井田の女の子の扱い方に、確実に夜のバイトの成果が出てしまっていて一抹の不安を覚える。
「あんたまで一緒になって、きゃっきゃしてんなよ……女子かっての」
「ちょうど良かった育井田。放課後に生徒指導室においで」
 育井田は、は? って顔で俺を見ていた。
 俺だって、週末何もしなかったわけじゃないんだからな。
「進路相談だよ。今度こそ絶対来てな」


「……せんせー」
 職員室の入り口から呼ばれて顔を上げる。
 カバンを斜めがけした育井田が、両ポケットに気だるそうに手を突っ込んで立っていた。
 俺は、用意していた紙袋を小脇に抱えて急ぎ足で歩み寄った。
「今度は忘れないで来たなー、えらいえらい」
「……うざ」
 育井田は、はーっとため息しながらも、廊下を歩き出した俺の後について来る。
 生徒指導室の前に来ると、俺は下げ札を『使用中』に替えて先に中に入った。
「今日は大人しく来てくれたんだな」
「おいで、って言われるの、なんかいいなーと思って」
「なにそれ」
 生徒指導室で向かい合いのソファの一方に座りながら呆れて返事する。
 俺は、練りに練った話を切り出すためにひとつ深呼吸した。
「とりあえず、最後までひと通り、俺の話聞いてくれる?」
「どーぞ」
 育井田がカバンを置いて、どさっとソファに座った。
「大学、諦めるなよ」
 俺の言葉に、育井田がきゅっと眉根を寄せる。
 待てって、続きあるんだから。
「宇宙の勉強したいって言った時、育井田の目がきらっきらしてた。俺は生徒のそういう目を守るために教師になったんだ」
「……そーいう恥ずかしいこと、どうやったらマジな顔して言えんのか教えてほしいんですけど」育井田が決まり悪そうに言った。
「こんな顔だよ。はい、これ」紙袋に入れてあった資料をどすんと机に置く。
「……なにこれ」
「奨学金の申請要項と、健全なバイトの紹介。大学関係や教育機関のを中心に取りそろえてみた」
「はあ」
「働くなとは言えないから俺も全力で応援する。だから、夜のバイトはやめてほしい」
 育井田が黙る。怒ってるわけじゃなくて、なんて言ったらいいか迷ってる感じだ。
「時給いくらだった?」
「はい?」
「今のバイトの」
「……1700円プラス手当」
「それは確かに……いいバイトだよな……」俺は頬を掻いてから、気を取り直して続けることにした。「キャバクラも普通は高校生を働かせたりしないんだ。筋を通さずに無茶をするような店は……一言で言うと、怖い人たちと繋がってたりもするからやめた方がいいよ」
「まあ、俺も中卒だって嘘ついてるし」
「育井田ぁー……」
「それに、俺だと安心だからって雇われたんですよ」
「へ? なんで安心なの?」
「俺、男が好きなんで」
 あまりにもさらっと言われて、俺は、え、と口に出したまま固まってしまった。反応できなくて育井田を見つめてしまう。
「店の女の子に絶対手ぇ出さないから、雇い主からしたら安心でしょ」
「まあ……確かにそうだな」
 変に沈黙が訪れる。
 こんな時、なんて言ったらいいんだろう。
 育井田は今、カミングアウトしてくれたわけで。
「……話してくれて、ありがとう」
「別に。礼言われるようなことじゃないんで」
 ーーまあ、それもそうか。
 生徒たちと関わっていると、はじめて経験することばかりだ。
 俺は咳払いをひとつして、話を元に戻すことにした。
「……で。これは、ここだけの話だけど」
 何事だ、って顔で、育井田がうさんくさそうに俺を見つめる。
「足りないバイト代の分は、俺のところでバイトしてよ」
「……は? 何の?」
「俺の家で、住み込みの家事バイト。家政夫ってこと」
 育井田の目が見開かれる。
「ほんとは俺の実家にでもバイトに行ってもらえたらいいんだけどさ、実家は石川だから……住み込みってのも無理だろうし。って、この話はいいか」
 自分でも思った以上に緊張してる。手が汗でベタベタだ。
「雇用条件は、家事ひとつにつき2千円。洗い物とか……片付けとかさ。何時間もかかるような家事は手当も出すよ。言いにくいけど、その……家賃が浮くと思って多少のことは我慢してもらえるといいんだけど」
「いや、それは構わないんすけどーー」
 珍しく育井田がうろたえている。
 そりゃそうだ、担任からいきなりこんな提案されたら戸惑うよな。
 育井田みたいに人に頼ることが苦手な人間は、バイトっていう対価を用意した方が、ただウチに居候しろって言うより受け入れやすいと思ったんだけど。
 ……どうだろう。
「生活が安定するまで……少なくとも高校卒業まではそうしたらいいんじゃないか。緊急避難だと思えばいいし」
「それって……先生、大丈夫なの」
「生徒が4人も5人もってなったら俺も破産しちゃうけど」
「それはまあ……バイト代なんかいらないくらいですけど」
「俺の家で生徒がバイトしても法律に違反してるわけじゃないし。けどまあ……褒められたもんじゃないから黙っててな」
 内心ハラハラだけど、それを顔に出して育井田を不安にさせちゃいけない。
「いや、そっちの心配じゃなくて……いや、そっちもですけど」
「そっちとかあっちとか、なに?」
 俺が眉を寄せると、育井田が一瞬黙って髪を掻き上げる。
「……俺、男が恋愛対象だって言いましたよね」
 育井田の妙に男っぽい声音に、一瞬びくっとする。
「別に、俺は気にしないよ?」
 俺が言うと、育井田は一瞬、視線を彷徨わせた。
「……一応、気にして欲しいんだけど」
「あ、そっか。俺と同居が嫌なら断ってくれていいからさ、別の方法考えるし」
「嫌、とか……じゃなくてさー……」
 ぶつぶつ言う育井田に、俺は昨日の晩に準備してきた言葉を一通り伝えきってしまいたくて仕切り直す。
「とにかく、当分はそれで学費と生活費を貯めればいいよ。無理にとは言わないからーー」
「やります」
 少し考えてみて、って俺が言う前に即答した育井田に、面食らった。
「先生の家に居候させてもらえたら家賃浮くし、助かります」
「そ……そっか!」
 実は、ずっと心臓バクバクしてたんだ。
 俺なりに必死にひねり出した解決策だったから、これ以外の方法って言われるとまた考え込まなきゃいけない。
「誰にも秘密のバイト、ってことですよね」
「まあね」
 なんとなく含みがある言い方が気になったけど、俺はほっと胸を撫で下ろしていた。
「サービスしますよ、俺」
 膝に頬杖つきながら言った育井田は、冗談にしても高校生と思えない雰囲気を出してくる。
「やっぱり……バイト先で変なこと覚えたな」
「接客はしてないけど」
「しっかり影響受けてるよ! 早くやめてほしいな……妙な方向に育ったら困るよ」
 なまじ育井田に夜の接客業のポテンシャルを感じるだけに、一刻も早く学生らしい道に戻ってほしい。
 丁度タイミングよくドアをノックされて、立ち上がる。
「南先生、部屋よろしいですか?」
「あ、はい。すみません、出ます」
 持ってきた紙袋に資料一式をしまって、立ち上がった育井田に渡した。
「働いてみたいところが決まったら教えて。わからないことあったら相談乗るから」
「はい」
 素直に受け取ってくれた育井田に、少しほっとする。
「先生」
 指導室を出て歩き出したところで、ふいに育井田に呼ばれる。
「ん?」
「ありがとうございます」
 育井田が深々と頭を下げた。その潔い感じは、本当に好青年だ。
「……先生だけです。本気で俺のこと考えてくれた人」
「大げさだなあ」
「好きです」
 俺が呆けたら、育井田が目を細めた。
「……そーいうクソ真面目なとこが」
「あ、あー……そっか」
 びっくりした。胸が一瞬バクバクした。育井田って、なんか雰囲気あるもんだから。
 女子生徒二人が廊下の先からこっちに手をブンブン振ってくる。
「南先生ー、ちょっといいですかー?」
「おー。少し待ってな」
 育井田はまだ何か言いたげだったけど、俺に軽く会釈した。
「それじゃ俺、帰ります」
「引っ越ししたい日が決まったら教えて? 片付けしとくから」
 声をひそめて言った俺に、育井田が唇にふっと笑みを浮かべる。
 それは、張り詰めていたものが解けたように本当に柔らかい微笑みで、俺は胸がじんわりと温かくなるほど嬉しかった。
「南先生」
「う、んん?」
 珍しく名字を呼ばれたもんだから、動揺して返事の調子が狂った。
「やっぱり、すぐにでも先生の家に行きたいんで、片付け始めておいてもらえますか」
 不意打ちのように艶やかに微笑まれて、俺は言葉を失ってしまった。
「週末でよければ俺も片付け手伝うんで」
「ああ……ありがと」
「ベッドって、2つ置けるんですかね。先生の部屋」
 ドクン、と胸が鳴る。
 ……育井田の、この感じ。例えるのが難しいけど、これ、なんだろう。
「あー……2つは狭いかも……?」
 そうだよな、寝る場所って重要だよな。俺としたことがまだそこまで気が回ってなかった。
「俺、床でもいいですよ」
「それは可哀想だから、何か方法考えておくよ」
 思わず苦笑したら、育井田が目を細めた。
「2つ置けなくても、セミダブルならいけるんじゃないですか」
 もう一度、胸が鳴る。
「……俺、先生と一緒に寝てもいいですよ」
 ……わかった。この感じが何なのか。
 育井田は今、男の顔してるんだ。
 少し首を傾げて俺の目を探るように見つめてくる。
「……センセ?」
「南ちゃーんっ」
 痺れを切らしたように女子生徒たちがもう一度俺を呼んだ声に、ハッと我に返った。
「ま、待ってなさいって! すぐ行くから」
 くす、と育井田の小さな含み笑いが聞こえた。
「じゃあ、先生。また明日」
「あ、うん。気をつけてな」
 育井田はいつもの生徒らしい表情に戻って、俺に頭を下げて廊下を歩いて行った。
 ……新しい生活が始まる。
 学校には……バレないほうがいいだろう、緊張感のある生活が。
 これからやってくる夏本番をひかえて、俺はひとつの達成感と、少しの不安を抱えながら、帰りの初夏の空を見上げたい気分だった。




 久賀
 皆様にとって、新しく、すばらしい一年になりますように。
 20.01.04

 季節モノ短編





[]







- ナノ -