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 広い背中、伸びた背筋。
 清潔な細身のスーツ。
 輝く日差しの中で、彼は、テーブル上のカップにティーを注いでいる。
 声をかけても振り向かない。
 それでも何度目かの名前を呼ぶと、やっと振り向いた。
 眼鏡の奥、凍るような冷たい目をして。
『――穢らわしい』
「っ!」
 堕ちる感覚に目を見開いた。一瞬、ここがどこかわからなかった。
 指先に触れたのは……シーツ。
 ベッドの中だ。




極上執事の毒


01 鉄の男




「……またかぁ……」
 歩は、自己嫌悪しながら目を覆った。
 この疲れる夢。もう何度目だろう。
 歩は、庭園に面した2階東向きの寝室のベッドでため息を吐いて、シーツの海から抜けだすとカーテンを開けた。
 日曜の朝陽に照らし出される高級アンティークの家具たち。艶やかに光る木製のドレッサー。その抽斗から、調度品に不釣り合いな簡素な長袖Tシャツとジーンズを引っぱり出す。父親にはYシャツを着ろと言われるけれど、堅苦しいことは嫌だった。それでもこのTシャツは、1枚が5万もする高級ブランドのものだ。
 鏡台に映った自分の姿。剥き出しの鎖骨を、まだ少年の面影が残る指先で撫でる。
 18を迎えると、自分の体がもうさほど大きくならないことは薄々わかってきた。憂鬱な気持ちを隠すようにTシャツをかぶる。
 ――コンコンコンコン。
 計ったように4つ、寝室のドアがノックされる。
 ぴったり7時。寸分違わない朝の音は、たとえ日曜でも変わらない。
『歩様』
 扉の厚みをものともせずに、目覚ましの低い声が寝室に通った。
 歩が、一息置いて返事する。
「起きてます」
『失礼いたしました』
 感情のない無機質な声は、夢の中と同じだ。


 身支度を済ませて寝室を出ると、ソファやデスクがある15帖の部屋に出る。ここも歩の部屋だ。
 日差しに暖められている開け放たれた格子戸。そこから小さな羽根が舞い込んだ。陽に透けて、窓の桟(さん)の上に落ちていく。
「……あ」
 桟につくかつかないかのタイミングで、歩の視界の外から現れた白手袋の手が布巾で羽根を拭い去る。
 容赦ない手捌きを見せたのは、目覚ましの冷たい声の主だ。すいと背筋を伸ばし、歩を一瞥して目を細める。
「透真さん……」
「歩様、おはようございます」
 真鍮のように冷たく整って動かない表情と、シルバーの眼鏡が朝の日差しをはねつけていた。
 ――穢らわしい。
 夢の中で、確かにそう言った。歩を軽蔑するような目で。
「……おはようございます」歩は、晴れない気持ちのまま鈍い返事をした。
「いつも申し上げていますが、敬語は不要です」
「でも、あなたは年上だし――」
「主(あるじ)が従者に敬語を使っては不自然です」
 この、鉄のような執事兼教育係には容赦がなかった。

 鉄の男――青野透真は、イギリスの執事養成学校を卒業したプロの執事だ。
 落ち着きぶりから30歳前後に見えるが、自分のことを話さないので本当のところはわからない。
 執務着の黒の3ピーススーツが、青野の存在感を際立たせている。
 白シャツのボタンを一番上まできっちり留め、その上から結び目美しく結ばれたシルバーグレイのタイは、規律正しい執事にかけられた錠前のように見えた。
 派手ではない整った顔立ちが冷ややかさに輪をかけ、目を眇めると冷気は倍になる。
 そして、トレードマークの鉄の表情。
「歩様。おわかり頂けましたか」
「……透真さんの雇い主は、父でしょ。俺が給料出してるわけじゃないんだし」
 歩の父親は、6つの会社を束ねる葛城グループの総裁だ。1年の内、合算ひと月ほどしか家にいない。代わりに、この家には通いの使用人が、執事の青野と女性のメイド、庭師と鍵守の合計4人いる。
「屁理屈も上達されましたね」
「へりくつなんかじゃーー」
「貴方は主も同然です。いずれは、葛城グループを継ぐお立場なのですから」
「ただの商売人の息子ですよ」
「歩様」咎めるように青野が遮る。「……その頑固さは、どなたの影響でしょうか」
 含みのある言い方に歩が眉を寄せる。
 青野は、窓の桟を改めて拭うと春の風を閉め出してから歩に向き直った。
「歩様のご主義はわかりました。が、他の者の前ではお立場があります。お忘れなく」
 念を押すように言われて、歩は返事代わりにそっぽを向く。
「ご朝食はどちらでおとりになりますか」
「……部屋で食べます」
「歩様」
「部屋で……”食べる”」
「かしこまりました」
 慇懃に目を伏せて頭を下げる青野を、歩はため息混じりに見ていた。
 元々、歩は教室の席でひとり頬杖ついて、ぼんやりとグラウンドを眺めているような性格だ。
 しかし最近、青野と話す時にはなぜかケンカ腰になってしまう。
 青野とギスギスし始めたのは、ここ半年程。高校3年生になった途端に、青野が以前にも増して厳しくなった。
 思い当たる理由は、2つ。
 18にもなると法的に何かと責任が起きてくる。青野は、大会社の跡継ぎ候補である歩に自分の立場を自覚させようとしているのだ。
 そして、青野が厳しい理由は、もうひとつ――。
「資料をご用意しました」青野が、視線で示すようにテーブルの上を見る。
 それにつられて歩も目を向けると、花の図鑑が3冊乗っていた。
「先方は花がお好きなようですので、お会いになる前に目を通されてください」
 歩が返事できずにいると、青野が切れ長の目を細める。「本日の午後、お客様がお見えになる予定ですが」
(ーー……わかってるよ)
 そう、胸の中でひとりごちる。
 この家に女の子が来る。父親の知り合いの娘で……いわゆる見合いだ。
 青野が厳しくなったもうひとつの理由というのは、これ。
 歩の結婚相手探し。
 伴侶を探す年頃なのにいつまでも学生気分では困りますよ、ということだ。
「新調したスーツが出来上がりましたので、お持ちします」
「あの」歩が、ドアへ踵を返した青野を追って呼び止める。
「はい」
「……俺、18なんだけど」
「ええ。婚姻が許されているお年です」
 事務的な返答に、歩は、また胸が重くなるように感じた。
 青野は冷たく見えても、なんだかんだでいつも歩に助け船を出してくれる。特に、父親が無理難題を強いようとする時などは、歩が泣き言を言うと陰でそれとなく口添えしてくれているようなのだ。
 今回もそれを願っていたのだけれど、青野の反応は歩が思った以上に冷たいものだった。
「お写真を拝見しましたが、大変お似合いです」
「お似合い……って」身を投げ出すように座った歩を、3人がけのソファが受け止めて軋む。
「お性格もご容姿も歩様好みかと」
「……透真さんは、俺の何を知ってるんですか?」
「朝食をお持ちいたします」
 歩の不満を流して足早に部屋から出て行く青野を、不満全開の表情でたっぷり見送る。
「……本当に、ロボットだったりして」小声で悪態をついて、苛立ちをため息で吐き出した。
 青野は、当初に歩が心配していたほど怖ろしい男ではなかった。
 むしろ、先を読んだ気遣いとかいがいしい働きぶりには感動すらおぼえるし、他の執事と比べたことはないが指折りの有能さなのではと思う。
 歩は、いつも完璧な青野を労いたいし、時には話し相手になってほしい。もっと気さくになって、心を許してほしいとも思う。
 しかし、青野は歩からの施しは一切受け取らなかった。旅行先の土産も受け取らない。歩がなにか青野と距離を詰めようという素振りを見せると、明日の予定や業務連絡の話にすりかえて煙に巻くのだ。
 歩は、この4年余り、青野からかいがいしいほどの身の回りの世話と教育指導を受けてきた。淡々と、一方的に。いつも相変わらずその表情も眼差しも冷たく凍りついてはいたけれど。
 ミルクを注がれ続ければやがてコップから溢れてしまう。ただ降り注ぐばかりの冷たい雨は、歩の体を冷やしていた。
「はあ……」
 歩が丁度ため息をしたタイミングで、メイドがカートに朝食を乗せて部屋に来た。
 15分で朝食を済ませると、食器が下げられるのと入れ違いに、青野がブラウンのスーツひと揃えを手に戻る。
「こちらにお着替え下さい」
 ソファで浮かない表情を浮かべている歩に構わず、事務的にスーツをソファの肘掛けに置いた。
 歩は、それを横目で見て呟く。「……この色、趣味じゃない」
「歩様がご指定下さった生地ですが」
「う。そうだけど――」
 青野は無表情にゆっくりと瞬きすると、眉を寄せてスーツを見つめている歩に音もなく近づいた。
「お着替えを、お手伝いいたしましょうか」
「ぅあっ!?」急に間近で囁かれた歩は、ソファの上で飛び退いた。
「いかがいたしますか」
 もう一度問いかけてくる執事に、スーツを胸に抱え込みながら慌てて首を横に振る。
「い、いいっ」
「本当によろしいのですか」
「いいです!」
 青野は、「では」と頭を下げて、部屋を出て行った。
 スーツを抱えたまま、歩は歯噛みする。あしらわれたことがわかるくらいには成長しているつもりだ。あの冷たく低い声が残ってゾクゾクする耳を手で覆う。
「あー……もう!」
 苛立ち任せに脱いだTシャツを傍のクッションに放り投げると、胃に火がつくような焦れったさが込みあげた。
 なんであの人は、何の感情も見せてくれないんだろう――。
 機械みたいに歩の言うことを聞いて、機械みたいに歩の世話を焼く。
 でも、いつも心がここにない。
 歩がどんな態度をとっても青野は顔色一つ変えない。それが歩を苛つかせる。
 一番引っかかっているのは、青野が笑わないことだ。それも、歩と一緒の時だけ。
 青野は、パーティでは客人に対してそれはそれは綺麗な笑みを向ける。形の良い唇を微笑ませ、ほんの少し目を伏せて。思わず見惚れてしまうような上品な笑みを。
 けれど、歩にはそれを向けてくれない。微笑んでもくれない。
 それがとてつもなく寂しいし……なぜなんだろうとも思う。
「……透真さんは、なんで俺のことが嫌いなんだろ……」
 言葉にしてみると、胸が痛んだ。
 会った頃から、青野に嫌われているだろうことにそれとなく気づいている。
 あんなに容赦のない冷たい目で見られるのは、きっと世界でただ一人、歩だけだ。
「……なんで俺のこと、嫌いなのーー」
 訊いてみたい。でも、こわくて訊けない。
 重い足取りで寝室に向かって、新品のYシャツに袖を通す。ひやりとした質感に包まれると、なぜか青野を感じた。
 仕立てのいいシャツに着られている鏡の中の自分は、情けない顔をしている。
 自信に満ちた、あの、背筋の伸びた執事とは大違いだった。




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