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「……様。歩(あゆむ)様。そろそろご自宅です」
 夢の向こうから呼ばれた少年――葛城歩(かつらぎ・あゆむ)は、重い瞼を開けた。
 目の前には運転手の背中。中学と家との行き来は、この車が足だ。

 東京・成城。
 高級住宅地の一画に年季の入った洋館が佇んでいる。
 歩が住む、葛城家の邸だ。
 滑りこんだ庭先に大量の椿が咲き誇り、むせ返るほどの赤が圧倒してくる。
 後部座席のドアは、運転手が開ける。
 歩は、この待ち時間がいつも面倒だなと思っていた。自分で開けて出た方が早い。
 3階建ての白い洋邸に住んでいるのは、歩と、殆ど家に居ない父親だけだ。広すぎるこの家で過ごす一人の夜は、いつも静かでひんやりしている。
「歩様、お帰りなさいませ」
 待っていたように開いた玄関扉から迎えに出たのは、先月入ったばかりのハウスキーパーの女性だった。「旦那様が戻っていらしてます」
「え」
 父親は、いつも急に帰ってくる。口を開けば会社の話ばかりで、歩には興味がないようだった。
 歩に母親は居ない。理由は知らない。何も聞かされないまま14年間生きてきた。
 似ているとは思えない父親との血のつながりも怪しいが、それでも唯一の家族だ。
 歩は、少し緊張して居間へ向かった。




極上執事の毒
序章







 居間に入ると、本当に父親が帰っていた。
 2ヶ月ぶりに会う父親は、見る度に違う高級スーツを着ている。世間で言う美丈夫なのだろうが、今度の柄はさすがに若作りな気がした。
 その父親の隣に、背の高い男が立っている。
(……誰だろ)
 逆光で表情はわからないが、その仄暗い佇まいが歩を不安にさせた。
「歩。こっちに来なさい」
 父親に言われてゆっくりと近付くと、男の眼鏡のフレームが光ってドキリとする。そして、男の顔が見えた。
 上品な顔立ちだ。
 後ろに撫でつけているアッシュブラウンの髪。冷たい印象の目元にストイックそうなシルバーの眼鏡。清潔なグレイのスーツがよく似合っている。顎が細く、唇は固く引き結ばれていて口数は多くなさそうだ。理知的な雰囲気は、計算高い経営者を思わせる。
(父の知り合いかな……どっかの社長とか)
 歩が、立ちはだかる壁のような男に圧倒されていると、父親が言った。
「執事だ」
 思わず眉を寄せた歩に、父親が少し苛立った表情をする。「明日からこの家に仕える。おまえの身の回りの世話をするから紹介しておく」
 事情がよくわからない。
 歩が尋ね返す前に、眼鏡の男が、自らの胸に手を置き頭を下げてみせる。
「青野透真(あおのとうま)です」
「と、透真……さん……?」
 面食らいながら、名前を舌にのせて確認する。
 突如現れたスーツ姿の男が、中学生の歩に頭を下げ、敬語で話しかけてきた。
 自分よりよほど育ちが良さそうに見えるこの人が、一体自分の何をどう世話するのだろうか。
「話していた一人息子だ」
「お任せ下さい」
 低く響いた青野の声は硬い。
 歩は、おずおずと青野と目を合わせて、息を呑んだ。
 異様な迫力の眼差しが、凍てつく杭のように歩を貫いてきたのだ。
 射殺(いころ)されそうな目。今にも腕が伸びてきて、この首にかかりそうで。
 歩は気圧されるように後退って、助けを求めて父親を見た。が、父親は何も気がつかないで無表情に口端を上げている。
 ごくりと生唾と恐怖を飲み込んで青野に視線を戻す。……冷たいだけでなく、その目は歩を嬲る気配さえ含んでいる。
 初めて会う人間に、こんな敵意をぶつけられる理由がわからない。
 いや、これはもはや殺意ではないだろうか。事実、青野の目はもう何度か歩を殺していた。
 立っているのがやっとで、からからの喉から声を絞り出す。
「お……俺の名前は、歩です」
 青野は一瞬目を眇めて強烈な殺気を残すと、視線を歩の胸元に逸らして口を開いた。
「よろしくお願いいたします」
 殺人的な視線から解放されて、歩は詰めていた息を吐き出した。
 ――この男から早く離れたい。
「歩。部屋に案内してあげなさい」
 父親の非情な命令に、弾かれたように顔を上げる。
(そんな……)
 恐る恐る青野を窺い見ると、彼は何もなかったかのように目を伏せて立っていた。その表情は静かで、さっきまでのひどい気配は消えている。
「早く行け。私は予定が詰まっているんだ」
 父親に急かされた歩は、不安に押し潰されそうになりながら青野の前に立って歩き出した。


 廊下を歩く間も気が気じゃなかった。
 この家に執事が来るなんて――自分より年上の、冷たい目の男。
(後ろから刺されたりしないよな)
 思わず歩調が速くなるが、青野は長い足で悠々とついてくる。
 歩は、部屋の前に着くと、男を恐々振り返った。
「俺の部屋、ここです――」
 青野は、無言の間をとってたっぷりと歩を見下ろした。「敬語は不要です」
「え」
「申し忘れましたが、歩様の教育係も兼任いたします」
 暗い廊下を背にした青野の気配は、凄みがある。
 立ちはだかる姿に、思わず歩の喉が鳴った。
「きょ、教育係って……?」
「家庭教師のようなものです」
 明日から、この男に世話され勉強を見られるのか。一日中べったりではないか。
 状況は絶望的だった。
 ――二人きりになったら、きっと殺される。
「今後、お世話のためにお部屋に無断で立ち入りますが、よろしいですか」
「えっ」
 どうしよう――歩が追い詰められたように眉を寄せると、見下ろしてくる青野の目が細められた。反論を許さない冷たさだ。
「し……寝室、は」
「はい?」
「寝室は、入らないで下さい」
 やっとそれだけ言う。咄嗟に自分の身を守る部屋が欲しいと思った。
 青野は気分を害したような様子もなく、かしこまりました、と即答した。
 物腰も口調も至って問題ない。むしろ落ち着き払って品がある。いかにも教養高い大人の男の風情だ。
 なのに、この異様な殺気は。
(この人、一体なに)
 頭がぐるぐるする。
「あ、あの、訊きたい、んですけど」
「なんでしょう」
「……俺、のこと……嫌いですか?」
 歩が、青野の無表情以外の顔を見たのは、後にも先にもこの時だけだ。一瞬驚いたような、でもなにか考えているような表情だった。
「お会いしてから、ものの10分と経ちませんが」
「……そのはず、なんですけど……」
「私が、なにか失礼を致しましたか」
「ち、違います」
「仰ってください。改めます」
 青野の言葉は、誠実だった。
 もしかしてこの冷たい空気も、この男が持って生まれた雰囲気なのかもしれない。
(だとしたら……なんだか悪かったかな……)
 人を見かけで判断したことを反省する歩に一瞥くれて、青野が深々と頭を下げる。
「誠心誠意お仕えいたします。歩様」
 真摯な言葉だ。
 歩が少し安堵していると、再び目が合う。
「……っ、ひ」喉の奥で悲鳴を噛み殺す。
 青野は、思わず震えが起きるような目をしていた。
 隠し切れない憎悪をすんでのところでこらえているような。
 ……勘違いじゃない。この男は、やはりこういう目をするのだ。わざと。
「あ……」
「はい」
 思わず出た意味のない言葉を、青野が律儀に受ける。
 心臓が、ドキドキと強く脈打ちはじめた。でもこれは恐怖じゃない。この痺れる感じは――青野が放つ、壮絶な色の気配だ。
 眼差しや佇まい、放たれる殺意の中に言い得ない色香が滲んでいる。
 それは、凶暴で危険な色気だった。
「……歩様、いかがされましたか」
 名前を呼ばれた途端、腰がじわっと熱くなる。「あ、あの、俺、宿題あるので……案内はもういいですよね」
 逃げるように部屋へ入る。慌てて閉めようとしたドアを青野の手が阻んだ。
「……わ……っ」思わず悲鳴を上げて、部屋の中に飛び退く。
 距離を。距離をとらなければ。捕まえられて殺される――。
「歩様」部屋の奥で身を竦ませている歩に、青野は部屋に一歩も入ることなく続けた。「明日の朝より、7時に参ります」
「あ……は、い」
 歩が呆然と返す言葉に、青野は目を伏せると静かにドアを閉じた。
 廊下を遠ざかっていく、革靴の音。
 歩は、その音が聞こえなくなるまで固まったままだった。震える膝から力が抜けて、ヘナヘナとその場に座り込む。
「し……死ぬかと思った……」
 いや、殺されると思った。
 あの強烈な気配の名残で、体がじんじんする。
 青野の冷たい視線にまだ穿たれているみたいだった。
 この感覚が何なのか、まだ幼気な歩にはわからない。ただただ、大人の男をそら恐ろしく思う。


 執事――青野透真は、歩の日常に投げ入れられたピンの抜けた手榴弾だった。



 つづく

 11/01/20
 13/12/30 改稿
 14/04/07 修正




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