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罪人は、それでも幸せを願う
第7話





 押しつけられた唇が、大胆に動こうとした。
 途端、砂嵐のような不快感がこみ上げる。
 目の前の肩を力いっぱい押しのけると、座っていた椅子が軋んで悲鳴のような音をたてた。
「な……にすんだよ……っ!」
 精一杯凄んだつもりだ。怒りで、唇を拭う手が震える。
 深森さんは、突然のキスと結びつかない冷めた目をしていた。
「チクれば? 来たばっかの職場なんて未練もないし」そう、ペンでファイルをコツコツと叩きながら悪びれなく言い放つ。
「……な……」
「黙らせようと思ったら思わず口が出た。殴られるより悦かっただろ」
「ふ……ざけ……!」
「ムカつくんだよ」
 気怠いのに冷ややかな声に、俺は喉が詰まった。
「西村のこと考えるのをやめろって? 指示される筋合いねえし。婚約者がいようがいまいが、俺には関係ねえから」
 ムチャクチャだ、この人。怒りとか理不尽とか通り越して、呆れる。
「……そうやってなんにでも気持ち押しつけて、満足なんですか」
 恨み言を言う俺を、深森さんが胡乱な目で見ている。
「弟クンは、惚れた相手に婚約者がいると諦めるタイプ? 世の中にはそうじゃない奴もいるって知らないのかよ」
 はっ、と息を呑む。次の言葉が出てこなくて、口を閉じた。
 ……たしかに、兄さんを困らせたくない俺の言い分であって、深森さんには関係がない。
 深森さんは兄さんの友達で、弟の俺とは、違う。
「なんで俺が章宏をあきらめないといけないワケ? 章宏から直接なにを言われたわけでもねえのに」
 ずき、と胸が疼いた。
 婚約者がいるから諦めろって言われたところで……できるわけない。
 人の気持ちは、そんなに簡単じゃない。
 たしかに、俺が深森さんにそれを言う権利もない。
「……すみません、言い過ぎました」
 深森さんが、怪訝そうな表情で俺を見る。「まさか、セクハラした相手に謝られるなんて思わなかったな。俺は謝らないけど?」
「いいです、期待してないです」
「へえ……許してくれんの。弟クンの唇はそんっなに安いんだな」
 挑発してくる言葉も、今はどうでもいい。
 話を終わらせたかった。胸の中がざわざわするんだ。
 諦めらなきゃいけない気持ちを、俺は、勝手にこの人に投影していたのかな。
 ……歪(いびつ)だ。俺の気持ちは、不自然に歪んでいる。 
 問題集に目を落とした。羅列されたアルファベットは頭に入ってこない。
 どうして俺は、兄さんの弟なんだろう――こんなこと、もう何万回も考えたのに。もう、嫌なのに。
 横顔にさっきからずっと視線を感じる。居心地が悪くて、隣を睨んだ。
「……なんですか」
 深森さんは、乾いた目で俺の顔を見つめながら短く嗤った。「弟くんも負けず劣らずのブラコンだな」
「もう、なんでもいいですよ。放っておいてください」
 含みのある目に、この頭の中を読まれてしまわないかと気が気じゃない。
 この人には、ひとつも弱味を握られたらダメなんだ。ましてや……弟の俺が、兄さんのことを好きだなんてこと、絶対に知られちゃいけない。
「章宏って、いい男だよなー」
「……知りませんよ」
「寝てみたいと思う? 弟でも」
 思わずシャーペンを取り落とす。衝撃で折れた芯が、視界の隅で跳ねた。
「さすがに、いくら見た目が良かろうが、血が繋がってたら生理的に無理かー」
 そうなんだろう。
 世間から見れば、そうなんだろう。
 血が繋がっていなくったって、俺たちは血縁者だと思われている。
 兄さんと家族になりたいと切望したい人もたくさんいるだろう。
 でも、俺は。弟というこの立場が、重くて重くて仕方がない。
「まあでも、個人的には禁断の愛ってのも結構好きなジャンルだけど」
 そううそぶく深森さんに、苛立ちが増す。「……いい加減にしてください」
「そうそう、その意気。そうじゃないと面白くねえからさ」
 軽い言葉を吐く深森さんを、誰か遠くへ連れて行ってくれないかと本気で願った。
 その時、ガチャリとドアが開いて、先生と生徒が入ってくる。
「はい、雑談お終い。問題集に戻って」
 深森さんは、大げさに先生らしく仕切って俺の肩を机に向かうように押す。
 ふ、と小さな笑いが聞こえた。
 きっと、人を喰ったような顔で嗤ってるんだ。






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