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 ――翌日。
 個人塾の待機スペースで正司くんのお姉さんに会ったので、ここぞとばかりにきいてみた。
「あの……深森さんって、なんで急にここでバイトすることにしたんですかね」
「あ。私が話したんだよー」
「なにを?」
「西村くんの弟くんとどこで会ったのか深森くんに訊かれてね? この塾で会って……通うことにしたらしいよって話を。時給いいよって言ったら、深森君、興味持ったみたいで」
 ……深森さんは、ここに俺が通ってるってわかってバイトをはじめたんだ。
 やっぱりなにか勘繰ってしまう。
 何が狙いなんだろうとか、深森さんについてはすっかり人間不信だ。
 足音を聞いた気がして、思わず振り返る。
 そのタイミングで本当に自動ドアが開いて、深森さんが入ってきた。「よお、西村弟」
 感情の読めない虚ろな眼差しに、視線を返す。
「なんだよ、挑戦的な顔ー」
 そう言って、何の気なしに深森さんが俺の顎を指の背で上げた。
「きゃ」
 小さな悲鳴がした方を見ると、正司くんのお姉さんが少し驚いて俺たちを交互に見ている。
「……衝撃映像だから、それ」
「は?」深森さんが怪訝そうに眉を寄せる。
「深森くん、弟くんにセクハラするのやめて?」
「これが? セクハラになんの」そう言ってわざと、くいくいと指で上げたままの俺の顎を揺する。
「ちょ……やめてくださいよ」
 俺は、言いながら顔を背けた。人の顔で遊ばないでほしい。
「ほーらー……ちょっかい出したら西村兄に怒られるんだから」
 一瞬、深森さんの気配が強張った気がした。
「めんどくせ……」小さく呻いて、深森さんが頭の後ろを掻きながら歩き出す。「時間だ、始めるぞ」
 壁時計を見上げると、丁度、5時をさしていた。


「そこ、空欄足りないから言い換えて」
 言われて、記憶を引っ張り出そうとする。つい今まで不定詞をやっていたから頭の切り替えがうまくいかない。
「進行形は、助動詞使って言い換えられるだろ? 中学英語だぞ」
「……すいません……」
「別に謝らなくていいけど」
 深森さんが、指先で机を叩いている。今日はどうもイラついている。さっき、休憩所で兄さんの話が出たせいなのか様子がおかしい。
「……深森さん」
 なに、と小さく言って、冷めた目が俺を見てくる。
「兄さんには、おそらくこれから婚約者になる人がいます」
 俺の言葉に、深森さんの指先が止まった。
「仮に、その人と結婚しなかったとしても、兄さんは自由恋愛なんてできません」
 俺はそう、ひと息に言ってから、問題集に視線を落とした。「……だから、兄さんのことばかり考えていないで、英語を教えるのに集中して下さい」
 知らず、シャーペンを握る手に力がこもる。
「俺、絶対受かりたいんです」
 言ってしまったら、スッとした。
 残酷な言葉だっただろうか。
 それでも、深森さんが言う、兄さんに手を出すなんて考えが、どんなに軽い発言なのか思い知らせたかったんだ。
 これ以上、兄さんを悩ませることは許さない――そういう気持ちが、ずっと俺の中で渦巻いている。
 深森さんの様子を窺おうとしてしまうのが嫌だったから、目の前の問題に集中する。
 2問解いたところで、ふと、手元に影がさした。
 思わず顔上げたら、驚くほど近い距離に深森さんがいた。
「え……」
 何か反応をする間もなく。
 俺の唇に、深森さんの唇が押し当てられていた。



 つづく
 2018/05/02





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