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 数日後。
 深夜に、屋敷の空気がざわついた。
 父親が帰宅したのだ。
 きっと青野も一緒だろう。
 歩は、寝間着にパーカーを羽織って廊下に出た。
 気持ちが浮ついている。久々に青野に会えると思うとそわそわした。
 ゆるやかな螺旋階段の上から階下を見下ろすと、出張の荷物を持った青野が上がってくる。
 歩は、それを階段上で迎えるような体勢で青野を見下ろしていた。
 と、青野が歩を振り仰ぐ。
 相変わらずの冷ややかな目。
 いつものゾクリとした感覚が体を駆け抜けて、歩は、青野にかけるつもりでいた労いの言葉が喉の奥に引っ込んでしまった。
 青野が、冷えた目でたっぷりと歩を見てから、視線を外す。
 ――なんだかいつもと違う。
 とっさに思って、歩は眉をひそめた。
 少なくとも普段は、冷え冷えとした視線をかろうじてオブラートに包もうとする気遣いがあるのだが、今日はザラザラした剥き出しの殺気を放っている。
 歩に対する気持ちを繕う余裕もないほど疲れているのだろうか。
 確かに気だるそうにも見える。
 その様子は、皮肉にも色気があって、歩は切なくなってきてしまった。
 青野が無言で歩の傍らを通りすぎ、歩の部屋とは反対側の廊下の奥――父親の部屋へ向かった。
 詰めていた息を吐き出しながら、広い背中を見送る。
『立ったまま寝ていた――』
 板野から聞いたエピソードを思い出して考え込んでいると、父親が上がってきた。
「なんだ起きていたのか」
「目が覚めたんです」
「寝ろ。それと、青野から聞いたぞ」
 言われて、ご令嬢の件だ、と体を固くした。
「一度会ったぐらいでわかるか。わがままを言うな」
 問答無用の父親の言葉に、どっと疲れを感じる。
 父親は、自分中心に世界が回っていると本気で思い込んでいるところがあった。
 この父に四六時中付き添っているなんて、並の精神力じゃ無理だ――歩はそう思いながら、廊下を歩いていく父親の背中に、とっさに声をかけた。
「透真さんを」
 父親が、歩の声に足を止めておざなりに振り向く。
「……透真さんに用があるから、早く返して」
 自分でも、なぜそんなことを言ったのかわからない。
 脳裏に、先刻の青野の疲れた様子が思い浮かんだせいだろうか。
「おまえは部屋に戻っていろ」
 そう言い残して、父親が開け放たれたドアから自室に入っていく。
 言われたものの、青野が出てくるまでこの場を動くつもりはなかった。
 近くの壁に背中を預け、パーカーのポケットに突っ込んだ手を握ったり開いたりして時間を過ごす。
 間もなくして、青野が部屋を出てきた。廊下の先で待っている歩を見てほんの一瞬眉を寄せると、指先で眼鏡を押し上げながら足早に歩いてくる。
 歩は、その様子をどこか切ない気持ちで見ていた。ぎゅうと、おなかの奥が震えるような。
 ……数日ぶりに姿を見ただけで、こんなに胸が締めつけられるなんて。
(……困ったなぁ……好きなんだよな、透真さんのこと)
 自分の気持ちから逃げられない。
 それを認めた上で、今は、これから自分が何をすべきか考えるしかなかった。
「歩様。ご用をお聞きします」
 歩が、ちらりと父親の部屋を見る。扉は閉まっていた。
「透真さん、今日はもう終わりですか」
「はい。歩様のご用が終わりましたら帰宅いたします」
「そっか、おつかれさまでした」
 青野が一瞬、わかりかねる、といった気配を出した。
「用事があったわけじゃなくて……。いつも、出張の後、父の荷物や資料の片付けだとかで、透真さんずっと仕事してるから」
「ええ、そうですが」
「そんなの、父が自分でやればいいってずっと思ってたんです」
 青野は、歩の真意がわかった、というように目を細めて言った。
「……歩様、そのようなお気遣いは――」
「執事って、普通こんな遅くまで仕事するもんなんですか」
 歩の言葉に、青野は口を閉じて、再び開いた。
「それぞれですので」
「透真さんが疲れてたら、俺の勉強みるのに支障が出るでしょ」
「そのようなことはないように致しますーー」
「なんでもかんでも、やらせたりしない」
 青野が一瞬黙る。
 そして、ああ、と小さく呟いて、言った。
「……私が先日申し上げたことを気にしておられるのですか」
『その気になれば、私にどんなことでもさせられるのですよ』
 たしかに、青野がそう言った意味を歩なりにいろいろ考えていた。
 好きな人だからという以前に、使用人にでも執事にでも、やらせていいことと良くないことがある。そういうことなんだろうと、歩は思った。
 だから、歩の勝手な好意に青野をつきあわせてはいけないし。
 父親が自分でできるような用事に、深夜まで働かせてはいけないのだ。
「それと……もう困らせないから」
 青野が、小さすぎた歩の声に目を細める。
「すみません、もう一度――」
「なんでもない。おやすみなさい」
 歩が部屋に戻るまで見送ろうとする青野の腰元を、いいから、と階下へ促すように押す。「透真さんが帰ったの見届けないと、本当にちゃんと帰ったか不安だから」
 そう言った歩に、青野は開きかけた口を閉じて、では失礼します、と背を向けた。
 青野が、振り返ることなく足早に階下に降りていく。
 歩は、その背中を見送りながら、ひとつの決心をしていた。

 明日の朝は、もう変わっているのだ。
 歩も、歩を取り巻く世界も。なにもかも。



 つづく
 14/01/05
 14/04/07 修正




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