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極上執事の毒


03 必死




「青野」
 青野が、一瞬動きを止めた……ように見えた。
 歩は、鏡の前で制服のタイを結びながら、部屋の入口に立っている青野に続けて言う。
「今日は、友だちと飯食いに行くから。車の迎えは要らない」
 歩が淡々と告げると、青野は、かしこまりました、と目を閉じた。
 ……言った。
 青野、と。呼び捨てした。敬語も使わなかった。
 慣れない振る舞いに、緊張で手が震えている。
 歩は、この数日よく考えた。
 春先のまだ冷える夜に窓を開けっ放しにして考えこんでいたせいで、さっきからぞくぞく寒気がするけれど、半分以上は第一声を放つまでの緊張のせいだ。
 先々週の日曜の夜に、青野に「立場をわきまえてもらわなければ困る」というようなことを言われたのを歩なりに考えてみたのだ。
 青野が望む通りに、振舞ってみようと。
 肌に合わない話し方も、慣れてしまえば平気になるかもしれない。
 ……ほんの少しでも、人間らしい感情を見せてくれるんじゃないかとか。
 もしかすればーー特別な目で見てもらえるんじゃないかとか。
 バカだった。
 この4年あまり、何を見てきたか。私心を挟まず、顔色ひとつ変えることもしない青野の徹底した仕事ぶりだ。
 本来、青野に執事として職務を全うできるよう集中させるのが正しいはずだ。彼は優秀な執事なのだから、仕事の邪魔をしてはいけない――そう決心した矢先に。
『――歩様』
「……はあ」
 ひどい夢を見た。殺されながら、聞いたこともないような甘い声で……愛してるなんて、たとえ夢でも言わせるなんて。
 自己嫌悪がひどい。
 特殊な環境下で美しい人間が自分の世話をしていたら好意をもつのも仕方ない――と、一応の自己弁護はしたいけれど。
 夢のせいで多少勢いは殺がれたものの、それでも歩の決意は固かった。
「朝食は、部屋に運んで下さい」
 青野が一瞬動きを止める。
 言ってしまってから、はっとした。今のは敬語だ。
「……軽くでいい。時間ないから」
 いきなり尻すぼみになった勢いが、いつまで続けることができるのか、歩は不安になった。
「歩様」
 青野の声に、息を潜める。
「飯食いに行く、はいけません。夕食を食べに行く、と仰って下さい」
 教育係は、今日も平常運転だ。
 歩の一大決心など、何も気にしていないように。


 ※ ※ ※


「傷んでんなー……」
 クラスメイトの吾妻洋祐(あづま・ようすけ)が、教室で紙パックのジュースを吸いながら言った。パーマのかかった茶の前髪を指先で弄っては、上目遣いに枝毛を気にしている。
 洋祐は、中学からの歩の仲の良い友だちで、『エイ・アミューズメント』という複合エンターテイメント施設を扱っている会社の御曹司でもある。 
 中高一貫の『成城栄田(せいじょうさかえだ)高校』は、高額な学費で有名な私立共学校で、大企業や有名人の子どもが多く通っている。由緒ある家柄、というより、商売で成功した両親を持つ子どもが多く、一般常識や金銭感覚もそれほど世間離れしていなくて、歩にとっては比較的まともな学校生活だ。
「おまえんとこの……鉄仮面、だっけか?」
「……鉄の男」
 父親が時々、青野を形容する時に使う言葉だ。
「おまえんちのパーティで見たっきりだけど、あれは強烈だよなー。執事のくせに目立ち過ぎっていうか……一種のエンターテイメント」
 洋祐が言っているのは、半年前に歩の家で開かれたホームパーティのことだ。
 ホームパーティと一言で言っても、100人程度の取引先の人間を招いた懇親会で、吾妻は、その招待客の一人だった。
「透真さん、芸能事務所の社長から名刺もらってた」
 洋祐が、うはっと一笑して、歩の背中を叩く。
「パーティ会場でスカウトされる執事なんて聞いたことねーわ」
「あの後、執事の仕事をドキュメンタリーで撮らせてくれませんかって正式にオファーが来て……父さんは即行断ってたけど」
「美形の執事なんて話題性あるもんな。テレビ局は惜しいことしたなー」
 商売人の血が騒ぐようで、にやにや面白がりながら洋祐が続ける。「で、歩くんは何をそんなに悩んでるんでしゅか?」
「おまえ、バカにしてない?」
「してないしてない。言ってみ。お兄さんに」
「同い年のくせに……」
 歩は、はあ、とため息を挟んで、言った。「執事と仲良くなろうとするのって、普通じゃないかな」
「っていうか、ルール違反」
 間髪入れずに、歩の予想通りの答えが返ってきた。
「使う側も立場をわきまえねえと、使われる方が困るんだよ」
「……それ、同じ事言われた」
「当たり前じゃん。そういえばおまえ、パーティの時、鉄仮面に怒られてたよな! 雇い主が従業員に怒られるとか……超ウケたし」
 眉をハの字にして笑う洋祐を、歩がじとりと睨む。
 あれは、パーティの中盤頃だった。
 歩が、臨時に雇われていた給仕の男性に要らぬ気遣いをしたのを青野に咎められたのだ。
「あれはさ、給仕がケーキ落としたから……そんなのハプニングだろ? 片付け手伝ってたら透真さんに見つかっちゃって」
「ないわな。おまえ主催者の息子だろ」
「そういうもんらしいね」
「らしいね、じゃねえよ。どういう教育されて育ったんだよ」
「透真さんにいっつも文句言われるんだよ、跡取りなんだからそれらしくしろって」
 洋祐が、後ろの席の歩の机に頬杖尽きながら言う。
「でも俺、おまえのそういうとこ嫌いじゃねえよー?」
 タレ目を細めながら、洋祐が危なげに歩を見る。「庶民感覚の金持ちなんて、女の子だったら全身舐めて握りつぶしたくなるね」
 洋祐はそう軽い調子で言うと、ヂューッとパックの中身を吸いきり、握りつぶしてゴミ箱に投げた。
 女の子じゃなくて良かったよ、と歩が引き気味に言う。
「わかんないなー……主らしくするってなんだろ」
 洋祐は、頭を抱える歩の肩をがしりと掴むとイタズラに引き寄せて、その鼻先や頬に無茶苦茶にキスをする。
「っ、ちょ、ばか、やめろって……苺くさい!」
「んー、歩はかわいーなあ。もっと苦悩しろー構い倒してやる」
 洋祐の過剰なスキンシップはいつものことだ。誰にでもこうなのだが、仲の良い歩には輪をかけて遠慮がない。
 教室の後ろで、女子のグループが笑いながらこっちを見ている。
 歩は、げんなりとして、洋祐の顔を押しやった。




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