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「っ」
 章宏と、目が合った。
 その濡れたような眼差しは、不意打ちに出くわすには強すぎて心臓に悪い。
 晴哉は、笑いを呑み込んで喉を鳴らした。徐ろに立ち上がった義理の兄を何事かと見つめる。
 章宏は、晴哉からするりと目を逸らすと、級友たちに向かって「買い出しに行くから欲しいもの書いて」と告げて、傍にいた女の子にメモ用紙を渡した。
「私も行くー」
 章宏が、手を上げた何人かに微笑みで遠慮をしてから、再び晴哉を見る。それはまるで晴哉が自分を見ていることが当然かのように自然な目配りだった。
 来いよ、と声なく口を動かされて、晴哉が肩を震わせた。進一のIDを受け取ったのを確認してから、腰に抱きついた腕を「ちょっといい?」と解かせて立ち上がる。
「あれえ? どーしたの?」
「え、と……買い出しに行くから。食べたいものとかこれに書いて」
 進一にメモを渡す。回して、好きなものを書いてもらっている間に、正司が立っている晴哉に言う。
「俺も行こうか」
「大丈夫だよ。近所のスーパーだと思うし……たぶん車で行くから」
 正司が、ちらりと章宏を見る。メモを受け取って内容を確認しているその涼しい横顔を見ながら、ふーん、と鼻を鳴らした。
「じゃあよろしく、悪いな」
 そう言って、晴哉の脚を軽く叩く。
 晴哉は、頷いてみせて、さっさと部屋を出て行く章宏を追いかけて行った。
 その背中を見送る正司が何か言いたげに黙っていると、遠い席から女子高生の一人――まゆがそそくさとやって来る。
「……西村兄弟、すごいね。噂には聞いてたけど」
 正司とまゆは、公立中学の同級生だ。章宏と晴哉の学校に近かったので、二人の噂は耳に入っている。
 ――美形の兄と、溺愛されている弟。
 相当な噂ぶりだった。しかし当時、晴哉はまだ中学生で、周囲は美形の兄に溺愛される弟の真価を見極めることはできなかったのだが。
「章宏さんは実際に高校に見に行ったことあるから、かっこいいのは知ってたんだけど……びっくりしたのは、むしろ弟の――」
 まゆが、一度言葉を切ってから続ける。「今、高2だっけ? 確かに素直でいい子そうだけど特別美形ってわけでもないし。ほんとに溺愛されてる?」
 矢継ぎ早に疑問を口にするまゆには答えずに、正司がのらりと言う。
「すげー独占欲」
「え?」
「まあ……あれはたしかに間違うかもしんねーけど……どっちだ。判断つかねーな」
 まゆが眉をハの字にする。
「どーいう意味?」
「噂もごもっとも、ってことだ。俺が兄貴でも道を間違いそうだわ。あいつ、かわいいし」
「まあ、確かにかわいい系だとは思うけど」
「系、とかじゃねえんだよ……女にはわかんねーか」
「何よその言い方。差別的ー」
 まゆが、むっとして言った。
「なら聞くけど、男がムラムラする感覚おまえにわかんの?」
「わかるわけないじゃん、何言ってんのサイテー」
「まーそういうことだよ」
 二人が出て行ったドアを胡乱な目で眺めている正司に、まゆが少し黙る。
「……もうちょっと解説してくれない?」
「なにを」
「あの弟くん、何がそんなに特別なわけ?」
 正司が少し考えてから口を開く。
「おまえさ、女のアイドルの写真とか見てどー思うよ」
「え? ふつーに可愛いとか思うけど」
「ふつーに?」
「え。ふつーに……何がおかしいの」
「そっからして、女にとってのかわいいと、男にとってのかわいいは永遠に平行線なんだよ」
「はあ……」
 よくわからない、といった様子でまゆが呆けた顔をしている。
 そこに進一がジュースを片手に割り込んでくる。
「やべえ。相談乗ってよ。俺、男に目覚めそう」
「は? いきなり何言ってんの?」
 まゆが激しく眉間を寄せた。
「あいつかわいすぎなんだよ……ちんこいてー……」
「あんた酔っ払ってんの?」
 本気でまゆにどつかれながら、進一が言った。
「でも、あの兄貴が睨んでるから手が出せねえなー……」
 まゆが一瞬固まった。
「……なに、もしかして西村弟のこと?」
 小さく舌打ちして、ジュースをごくりと飲んだ進一が頭を抱えながら苦悩している。
 まゆが、口を開けてたっぷりと進一を見た後、正司に視線を向けた。
「な? そーいうことだ」
「……わけわかんない」
 まゆが絶句している。
「心配すんな。俺が一番かわいいと思ってんのはおまえだから」
 悪気もなくさらりと言った正司に、まゆは一瞬呆けてからみるみる赤くなった。
「しん……っじらんない! こんなとこでそんなこと言うなんて……!」
 ジュースで盛り上がる高校生たちには、男女間の深い溝が生まれつつあった。





 チカチカ、とハザードランプがアスファルトに断続的に光を落としている。
「後ろ、荷物全部入ったか」
「うん」
 晴哉が、返事と一緒に後部座席のドアをバタンと閉める。
 助手席に乗り込んでシートベルトをすると、丁度、章宏も運転席に乗り込んだところだった。
 章宏が運転する車に乗るのは、これで5度目だ。
 元々、章宏は大人びて見えたが、運転をするようになってから更に大人っぽく見える。兄、というより、男、という印象が強くなった。
「この為にお酒飲んでなかったの?」
 晴哉がたずねると、章宏はちらりと義弟に視線を向けて、まあ、と簡潔に返事をした。
 夜道を静かに走り出した車内に、一瞬沈黙が落ちる。
 二人きりの車内は、いつも少し緊張する。でも、晴哉の大好きな時間だ。
 運転している義兄の横顔を遠慮なく見ていられる。ハンドルに乗せられた手も好きだ。信号待ちで力が抜けたように乗っている指も、ハンドルを回す時に筋が浮かぶ腕もとても綺麗だから。
「……仲良くなったみたいだな」
 油断していたところに涼しい声がして、晴哉は、章宏の手からぱっと視線を外した。
「う、うん! ……なんかすごくクリスマスっぽいことしてる」
「親父には言うなよ」
 章宏が、唇に苦笑を浮かべる。
「はじめてだよ、うちにあんなに大勢いるなんて」
「床が抜けなくてよかったな」
 章宏の言い方に、思わず笑った。
「……ねえ」
「ん」
「ありがと、俺も混ぜてくれて」
 思わずお礼を言っていた。
 クリスマスの習慣がない西村家は、例年ではこんなことはまずなかった。
 ――父の鉄郎は、海外出張のど真ん中で、正月明けまで帰って来ない。
 それを確認した章宏が、手伝いのサチによく口止めして、晴哉も輪に入れるよう高校生たちを含めた会に調整してくれた。
 参加者全員に声をかけ、弟妹たちまで呼ぶなんて。きっと大変だっただろう。毎日忙しい章宏がその時間の合間を縫って、あそこまでの会にしてくれた。
 それは、23日に、晴哉を一人にしない為だったのかもしれない。
 鼻の奥がつんとした。晴哉は最近、章宏のことになるとどうにも涙腺が緩い。
 幸せな義弟だ。大切にしてもらっている。
 それがたまらなく嬉しくて、哀しかった。
「……あと2時間もしたら散会にする」
 ぽつりと言った章宏に、晴哉は顔を上げた。
「え?」
「幸い、泥酔してる奴もいないし」
「別に、泊まってもらっても――」
「ダメだ」
 珍しく、章宏が口早に言った。
 晴哉が少し驚いて、その横顔を見る。
 小さく咳払いして、章宏が続ける。
「……少なくとも高校生は終電前に帰らないと」
「それは、そっか――そうだね」
 晴哉は、そう納得して、道の前を走る車を見た。
 もうすぐこの時間が終わってしまうのが、寂しい。
 今日一番うれしかったのは、章宏と二人になれたこの車内の時間だったかもしれない。
「おまえ、明日の予定は」
 急に、明日、と言われて一瞬頭が混乱した。
 そうか明日はイブだ、と思ってから、隣の章宏をまじまじと見る。
「ない、けど。何にも」
「おい。またすねるなよ」
 章宏が、苦い笑いを含ませて言った。
 彼の向こうの景色の流れが止まる。信号待ちだ。
 交差点のマンションのエントランスに、大きなツリーが輝いている。その光が、章宏の濡れた黒い目を静かに輝かせて見せている。
 晴哉は、その光景に見とれた。贅沢な時間だと思った。
 章宏が自然な動作で前髪を掻き上げるのにお茶の所作と似た美しさを感じながら、義兄の言葉を待っていた。
「……どっかで飯食うか」
「へ」
「ここまで来たら今年くらい世間のイベントに乗っかってみてもいいよな」
「で、でもイブって……兄さん忙しいんじゃ」
「なんでだよ」
 章宏が、心からおかしそうに含み笑いをする。
「……友達とか……その……彼女とか――」
 口に出すだけで、胸が痛かった。
 晴哉は時たま、こうしてYESと聞きたくないことをあえて尋ねてしまう。
 それは、心の何処かで、義兄への想いを断ち切る術を探しているようだった。
「いないよ」
「え」
「友達のは今日で終わりだし、彼女はいない」
 なんの躊躇もなくそう言った義兄を凝視する。
「……なんだよその目は」
「え。だって。ありえない、章宏兄さんが」
「おまえもいないだろ?」
「うっ。いない……」
「だったら問題ない」
 そう言って、章宏が発車させる。
「……元々、クリスマスは家族で過ごすものだからな」
 そうぽつりと言った章宏の言葉に、一瞬息が止まった。
 家族。
 晴哉が、心の底から切望したものだ。その繋がり。今その願いを叶えてくれている人が、隣にいる。
 けれど。
 なんだろう、この気持ちは。
 細い路地に入る。景色はもう家の近所だ。
 二人きりの空間を名残惜しく思い、でも……これ以上この時間が続かないことがかえって良かったようにも思った。
 前の車が右折して、ヘッドライトが道の先を照らすのをぼんやりと見つめる。
 その横顔をどこか憂い顔で見た義兄の表情を、義弟は知らない。



 2016/12/23
 久賀リョウ
 







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