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銀の月



−第1話−




 ――絶滅した、人間という種族。
 長年の間に、その人間の血と獣の血を半分ずつ引き継いでいる『獣種』が、主流になった。

 俺たち兎族は、その獣種の一種。
 姿形は人間に似ているらしい。
 違うのは、兎と同じに先が折れてる長い耳と、つんとした小さな尻尾が生えていること。
 耳と尻尾は柔らかな毛に包まれているけれど、体毛は薄いので、寒さをしのぐために麻で作った服を着る。
 広大な森の中の川辺周辺に藁のテントを構えて、暮らしているんだ。

 そして、もう一種、森に棲んでいる獣種がいる。
 狼族だ。
 頭には、遠くの音でもよく聞こえる、狼と同じように毛に覆われた三角の耳と、膝まである力強い長毛の尻尾。
 小柄な兎族と比べてしなやかな筋肉質で、体格がいい。
 というのも、兎族は完全草食の農耕民族で、狼族は完全肉食の狩猟民族だからだ。

 狼族と兎族とは、昔から対立してきた。
 その理由は……


「おい、ミナト!」
 突然大きな声で呼び止められる。
 思わず逃げ足になったところを、がっしり肩を掴まれたんだ。
「おまえ、こんな時間にどこ行くんだよ……!」
「ど、どこに行くって――」
 空には、白い月。それが視界に入って一瞬気をとられた俺は、慌てて肩を掴んだユーイの手を振り払った。
「……どこでもいいだろっ」
「まだあきらめてなかったのか?」
 言われて、ぐっと唇を噛んで、地面を見つめる。
 今度は、両肩を掴まれて振り返させられた。
「おまえ、殺されたいのか!?」
 ユーイは、俺の親友だ。
 小さい時から隣のテントで育って、いつでも一緒にいた。
 こうして怒るのは、俺を本気で心配してくれているから。
 それは、わかってるんだけど――。
「半年前、おまえが狼族の男に会いに行きたいって言った時は冗談だと思ったよ。まさか本気だったなんて……頭おかしくなったんじゃないのか!?」
「一目見るだけでいいんだ」
「ばかやろ!」
 パンっ、と頬で音が弾ける。後から、ジン、と痛みがやってきた。
「な、なにすん――」
「狼族は、長年俺たちの中から生贄を差し出させてた……俺たちの血肉は、奴らに万病の薬として高値でやりとりされてたんだぞ! 知ってるだろ!?」
 肩に食い込むユーイの指が、震える。
「知ってるよ! でも……今は違うじゃないか」
「15年前、集落に狼族が嫌う結界を張る方法がわかって、俺たちは奴らの手から逃れることができたんだろ……あいつらは、俺たちを同じ獣種だなんて思っちゃいない!食料としてしか見てないんだ!」
 兎族の、狼族への恨みと憎しみは深い。
 俺だって、ユーイと同じだ。
 俺のおじさんも、俺がまだ小さい時、奴らの生贄になったんだから。
「それをおまえ、この結界を出て会いに行くって……? ふざけんなよ! 生きて帰って来られると思ってんのか!」
「狼族でも、あの人だけは違うんだ!!」
 思わず大声が出た。
 ユーイが、目を見張ってる。
「だって、あの人は……」

 あれは、3年前。

「あの人は、俺を、俺を助けてくれたんだから――」


 3年前。14歳の時だった。
 俺は、些細なことで両親にひどく怒られて、自暴自棄になってテントを飛び出した。
 兎族の結界を出てしばらく歩けば、狼族の縄張りに入る。
 興味があった。
 狼族への恨みつらみは、小さい時から大人に聞かされていたけれど、実際に狼族を見たことはなかったからピンと来ていなかった。
 ……怖いもの見たさも、あったと思う。
 怒りの勢いに任せて俺は、狼族のテリトリーに踏み込んだ。

「……やばい……」
 興味に駆られるまま、道なき道を来てしまったせいで帰り道がわからない。
 目的の狼族の気配もないし、なんだか全然違う場所に来てしまったみたいだ。
 陽も沈んで、辺りは真っ暗。
 さすがに俺は、背中に冷や汗をかいていた。
「どうしよう……。あ!」
 遠くが微かに明るい。
 ほっとしたのも束の間、木の間をちらちらと火が揺れているのが見えた。
 ……血の気が引くようだった。
 兎族は、結界から出ない。
 この森で、火が使える生き物。兎族でなかったらそれは……狼族しかないんだ。
 その、火の方向から無数の話し声がした。
 それは、どこか興奮したような響きで、ガサガサと乱暴に茂みを掻き分ける音がする。
 今度は、指の先まで冷たくなった。
 気配を悟られたんだ。
「……どうしよう……殺される……」
 足元は真っ暗。何も見えない。どこをどう行けば、奴らから離れられるかな。
 俺は、無我夢中で駆け出した。茂みを掻き分けて、走る。
 ……と、突然、地面の感触がなくなった。
「……!」
 次の瞬間に背中を強く打った。呼吸が止まる。「っ、つ、あ……」
 茂みの中を走ってくる音は続いている。
 斜め上方の木葉の隙間から、空が覗いて月の光が注いでる。
 俺は、すっかり照らし出されていた。
 見つかる。
 打った体を這いずらせて崖の陰に身を潜めた。体を竦めて、足音が遠ざかるのをひたすら待つ。
 ……ダメだ。
 音が近づいてくる。
 恐怖で体が震える。
「おい、どこ行った」
「見失ったか?匂いは残ってる。まだ近くにいるんだろ」
 上の方から声が聞こえる。
 そうだ、狼族は鼻がきくって聞いた。
 これじゃあ、見つかるのも時間の問題だ。
(ごめんなさい。お父さん、お母さん。ユーイ、飛び出す前に相談すればよかった。俺がもう少し素直だったら……!)
 ガタガタ体が震えて、涙がにじんでくる。
(みんな、ごめ――)
「何やってんだ」
 頭の上で、通った低い声がした。今まで聞こえていた声と違う。
 涼しげな、凛とした声だった。
「シン! いや、さっき兎族がいるのを見つけて――」
「兎族ったら貴重だろ。一人いりゃ、しばらく生活に苦労しないからな」
「ああ、それなら――」
 通る声も、そうか……この人も狼族なんだ……。
 なぜか、助けの声だと思ってしまっていた。
 絶望的。全身に冷水を浴びたみたいに、震えが止まらない。
「向こうに走って行く気配があった」
(……え?)
 ぐちぐち文句を言いながら、足音が走り去って行く。
 ――助かった……。
 ほっと、体から力が抜ける。
 痛む体を引き摺って、立ち上がろうとした。
 と、視線の先に突然何かが降って来る。
 月の光の中で、よく見えない。
 舞い上がった髪が銀に光って輝いてる。
 思わず、見とれてしまった。
 大きな影。
 それが、人だってわかったのは、その影が、一歩こっちに踏み出した時だった。
「……っひ」
 喉の奥で、悲鳴が凍りつく。
 尖った三角の耳。足の間から覗く尻尾が、ふさふさと揺れてるのが見える。腰の辺りまである、長い髪。
 ……その全てが、銀色に輝いていた。
「お、狼族……っ」
 細身だけど、筋肉でみっしりと量感のある、締まった体。
 狩猟民族だ。
 一目見ただけで、逃げられない、ってわかった。
 怖い。でもそれ以上に。

 きれい――。

 ぼおっ、としてしまった。
 あまりの恐怖に、感覚が麻痺してしまったのかもしれない。
 もう、逃げようという気も起きなかった。
「……子どもか」
 さっき頭上で聞いた、あの低い声だった。
 ため息を吐き出すように言葉が続く。
「いけよ」
「え……」
「いけ。腹は減ってないんでな」
 ぼおっとしていた頭が、一気に冴える。
 慌てて立ち上がろうとして、痛んだ体に小さく悲鳴が漏れた。
「落ちたのか」
 つかつかと歩み寄ってくるその人影から逃れるように、崖に背を密着させた。
 大きな手に肩を掴まれる。
 ――食われる……!
「……骨は、いってない」
 小さく低い声が呟いた。
 次の瞬間、横抱きに抱え上げられて体が浮いた。
「う、あ……!?」
 その人は、俺を抱えて崖の上まで軽々と飛び上がった。
 ゆっくりと地面に下ろされて、俺は、信じられない顔でその銀髪の狼族を見た。
 ――やっぱり、きれいだ。
 こんな時なのに、そう思った。
 すごく男っぽい、鼻筋の通った綺麗な顔をしていた。
 髪も目も月光で輝いていて、この世のものとは思えない神聖な雰囲気で。
 見上げていたら、大きな手で柔らかく肩を押された。
「あいつらは俺が引き止める。兎族の集落は、この先の竹林を抜けたら獣道沿いに行けば着く」
 細められた目と、目が合う。「歩けるだろ。行け」
 俺は、夢に浮かされたような感覚のまま、痛む背中に呻きながら集落へ走った。


 あれからずっと、あの人のことを考えていた。
 確か、シン、って呼ばれてた。
 短い間に交わした言葉と、あの姿。
 そして、シン、という名前だけを何度も思い返しながら月を見ていた。
 もう、3年。
 会いたい。ずっと、ずっと思ってた。
 会いたくてたまらなくて、半年前にユーイに相談した。
 そして……今、怒られてる。
「帰ろう。おまえのことだ、明日になったら気が変わってる」
 3年も想っていたのに、明日気が変わるなんて、ありっこないのに。
 俺の手を引いて歩き出そうとするユーイの手から逃れる。
「おい……どうした」
「……好きなんだ」
「え?」
「俺、あの人のことが、好きなんだ……!」
 言って、駆け出す。
 ユーイが、何か叫びながら追いかけてくる。
 俺は、ムチャクチャに走った。
 会いたいんだ。
 あの人に。
 シンに。
 いつの間にか、ユーイの足音から逃れていた。
 そして、結界をとうに越えていることに気づく。
 俺は、小さく喉を鳴らして、狼族のテリトリーに入って行った。


 続く
 08/11/12




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