[]






 思い返せば、ここへ売られて来た日。
 俺は、絶望していた。
 実の親に、夢も希望もない場所へ売られたから。
 店のご主人の後をしょぼくれて歩いていると、向こうから廊下を歩いてくる男の人の姿があった。
 長身の美丈夫。夏の羽織と黒髪をなびかせて、気だるい空気をまとって。
 目が釘付けになる。
 すれ違いざま香った、大陸を思わせる清涼な香。
「いい匂い……」
 都には、こんなに美しい人がいるのかと頭が殴られたようだった。
 俺に目もくれず去っていく後ろ姿に、ぼーっと見惚れる。
 その華やかな空気に、鬱々とした気分はどこかへ吹っ飛んでしまっていた。
 場末なんて嘘だ……。
 ここには、あんなに美しい男がいる――。
 その時俺は、あの人を目標に、あの人の存在を支えにこの世界を生き抜こうって決めたんだ。






こひとうつしよ   2










 来てすぐに案内された部屋に居た同じ年頃の見習いたちは口を揃えて、「その人は柏木兄さんだよ」と教えてくれた。
 教養は人一倍。男っぷりも品もいい。座敷に上がって1年も経たないのに店一番の稼ぎ頭になったとか、いろんな武勇伝を聞いた。
 俺も、間もなく店の手伝いをするようになって、その凄さを知った。
 柏木兄さんは、大勢いる兄さんたちの中でも群を抜いていた。毎日毎日ひっきりなしに客があって、その殆どが驚くような身分の客だった。いつも飄々としていて、それがまた粋で。
 見習いの皆は、柏木兄さんの傍付(そばづ)きになりたがっていた。傍付きというのは、店に出る兄さんの座敷を手伝う見習いのことだ。
 みんな、尊敬できる兄さんの下で働きたいと思ってる。人気の男娼につけば成功する道も拓かれやすいし。
 でも、柏木兄さんには、すでに5人の傍付きが居たから無理だろうって言われていた。
 俺は諦めきれなくて、毎日、誰よりも早く起きて雑用をこなした。
 そんな生活を続けていたら、幸いにも普通より早く、下位の兄さん方の世話係になることができた。
 でも、努力すればするほど、柏木兄さんの存在は遠く感じる。
 兄さん方のお世話で一日中走り回っていたって、夜の店で運良くお見かけする以外は、柏木兄さんに会う機会がない。
 それもそのはず、兄さんはほぼ毎日、店で上客のお相手、朝まで床の相手、昼過ぎに起き出して店に出る準備、の繰り返し。それ以外は、店の外でお客と会うという生活だった。
 会えるわけがなかったんだ。
 それでも一歩でも近づきたくて、たくさん仕事をこなす内に店でお会いする機会が増えてきた。
 廊下で見かけて。座敷の片付けの最中に見かけて。
 店を回す役割の男衆たちとやりとりが増えるに従って、すぐ隣で柏木兄さんが男衆と仕事の話をしている、なんて場面に遭うようになった。
 見習いから上位の兄御に声をかけることは厳しく禁じられていたから、本当に見るだけだったんだけど。
 それでも、嬉しかった。



 ――ガッシャーン!
 或る日のこと。廊下で派手な音が立ってなんだなんだと座敷から人が覗いた。
 その中を走って駆けつけると、見習いが廊下で膳をひっくり返したところだった。
「大丈夫?」
「あ、ああ……ごめん」
 焦って食器を掻き集めてる見習いは、垢抜けていて綺麗な子だった。もう座敷に出ていたっておかしくなさそうな感じ。
 俺は、その子が腰から手拭いを引き出そうとするのを止めた。
「汚れは俺が拭くよ。割れた食器、先に片づけよう」
 そう言うと、その子は少しほっと息を吐き出しながら、すまないな、と言って手を動かした。
 吸い物を拭きとっていると、ふと、人の気配がして顔を上げる。
「か……っ」
 柏木兄さんだった。
 懐手にして、俺たちを見下ろしている。
 目が合ったんだ。はじめて。
 俺は、想像していた以上に艶っぽい目に耐えられなくて、すぐに顔を俯けた。
 心臓がばくばく暴れてる。廊下を拭く手が、震える。
 柏木兄さんは、俺たちが御膳を片付けるのを見届けてから、おもむろに言った。
「面倒かけたね、夕凪」
「あ……」
 あんまり驚いて、息が止まった。
 名前……知ってくださってたんだ。
 何も反応できないまま、身を翻して歩いて行く広い背中を見つめる。
 ……声、かけられた。はじめて。
「なんで……俺にお声を――?」
 目を白黒させながら柏木兄さんの後ろ姿を見送っていると、目の前の見習いの子が言った。
「僕が、柏木兄さんの傍付きだから、かな」
「えっ」
 膳をひっくり返した彼は、どこか申し訳無さそうに頬を掻いている。
「そっかどおりで……柏木兄さんのお傍付きってやっぱり美丈夫なんだな……」
 思わず口にすると、そいつは照れくさそうに笑った。
「ありがとう。君が夕凪なんだろ」
「う、うん、なんで知ってるの?」
「噂で聞いてるよ。想像してたとおり気持ちのいい奴だ、ありがとう」
 彼は、御膳を抱えて立ち上がると、俺にひとつ微笑んで廊下を足早に歩いて行った。
 俺はその日、気が浮ついて三度は柱にぶつかった。
 柏木兄さんと、話せた……しかも、俺の名前を知っていてくれた――。
 嬉しくて嬉しくて。
 それまでの1年半の努力が、報われた気がしたんだ。
 



 俺が逢絢楼へ来て、2年目のこと。
「夕凪。これ」
 商い中に、男衆から盆に乗せた酒を受け取った。「椿の間な」
「は、はい!」
 その日、椿の間には柏木兄さんが入ってた。
 傍付きでもない上位の兄御の座敷へ入れるなんて滅多にない。
 ――後で知ったことだけど、男衆は、働きのいい見習いを上位の兄御の座敷に遣わせる慣例があるんだ。そこで兄御の目に止まれば、傍付きになれることもある。
 そんなこと知りもしなかった俺は、柏木兄さんを間近に見られる、なんて呑気に心を踊らせていた。

「失礼します」
 椿の間の前で声をかけて、襖を開ける。
 目に飛び込んだ光景に、言葉を失った。




[]







- ナノ -