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墜落のガブリエル







 その恋は信仰であり、彼の人は偽りの神である。





サクラメント






 秋は、嫌いだ。胸の奥が灼けそうになるから。
 木枯らしが吹いて、高校最後の冬がくる。
 人気のない通りで、曇り空に向かって息を吐いた。
「こほっ」
 小さく咳をする。そろそろ、ブレザーだけじゃ寒さを凌げなくなってきた。マフラーに頬まで埋める。
 ……冷たい風に吹かれると、好きな人の顔ばかりが浮かぶのはどうしてだろう。
 『あの人』のことは、諦めるつもりなんだ。
 そう毎日決心してるんだけど、その分、気持ちが続いてるわけでもあって。ずるずる尾を引いて、治りきらない風邪みたいに気だるい。
 小さな公園の前にさしかかって、足が迷った。
「あー……会いたいかも……」
 その場で何度も足踏みをする。
 ダメだよ。会ったらまた、気持ちが続くじゃないか。
 ――でも、ちょっとだけだ。遠くから見るだけにするから。
 誰にでもなく言い訳しながら、公園に入る。
 子どもの気配はなくて、乾いた枯れ葉の音と寒い気配が立ち込めてる。
 遊具の間を抜け裏手の階段の上に出て、公園と道向かいにある白い建物を見下ろした。
 教会だ。
 若いユーカリの木と並び立って、屋根に戴く十字架に灰色の空が映り込んでる。
 その壁肌を目で撫でた。
 ……胸が、苦しい。
 今日は開かないはずの正面扉を眺める。
 『あの人』が、出てこないかな、って――。
 ――ギイッ。
 扉が軋んで、ビクっとした。
 重そうな木の扉が、ほんの少し開いたんだ。
 心臓が、速く鳴る。 
 まさか。困るよ。
 確かに会いたいって思ったけど……ここで会ってしまったら、会わないように我慢したここ2ヶ月がパーになるのに。
 けど、余計な心配だった。出てきたのは見たことのない女の人だったからだ。
 つやつやの長い髪と短いスカートからにょっきり伸びてる足が、長くて色っぽい。高級そうな毛皮のコートは、教会にミスマッチだ。
「……すげー美人……」
 美貌に見入ってたら、もう一人出てきて息が止まった。
 禁欲的な詰め襟。黒の宗教服。長い裾が、歩くのに合わせて空気を切るような音をたてるのが聞こえる。清らかに胸を張り、曇りのない双眸を前に向け。その姿には俗っぽさも隙もない。今にも大きく羽を広げて、空へ舞い上がっていきそうな――。
「……徹(とおる)……」
 名前を口にしただけで、舌先が震えた。
 『あの人』の名前は、イエルナ徹(とおる)――教会の神父だ。
 正確な年齢は知らないけど、20代半ば……かな。
 柔らかく波打つ黒髪は乱れがなく、形の良い唇に常駐する微笑みのせいで考えてることが全然読めない。
 ……この世で、一番美しい人だと思う。
 そこに立っているだけで救われるような、そんな人だ。
 美女と美形の神父が並んでる光景は、まるでドラマだった。
 1台の高級車が滑りこんできて、女の人の前で止まる。後部座席に乗りこむ姿が、またいかにもドラマに出てくるお金持ちっぽい。
「お気をつけて」
 徹の落ち着いた声が、枯葉の擦れる合間に聞こえる。走り出す車を見送る横顔に、思わずため息した。
(……会っちゃったな……)
 期待してなかったと言えば嘘になるけど、本当に会うつもりはなかったんだ。今日――月曜日は、徹は施設の慰問で居ないはずだし。
「……なんでいるんだよ」
 俺が呟くのと、徹が見上げてくるのはほぼ同時だった。
 迷いなく飛んできた視線は、俺がここにいるのを知っていたみたいだ。深い目に全部見透かされそう。
「空良(そら)」
 低く通る声が、じんと耳を打つ。
 徹は聖然とした雰囲気を消して、目を細めてからかうような表情をした。
 ……大天使様は、時々ああやって人に成る。
「そこから、何かいいものでも見えますか」
「……意地悪そうに笑ってる徹が、よく見えるよっ」
 コンクリートの階段に、俺のふてくされた返事が跳ねた。
「風邪をひきますよ」
 徹はそう言ってまた読めない微笑みを浮かべると、ゆっくりと背を向けて扉の向こうに姿を消した。
 扉は、人が1人通れるくらいに開いたまま。それは、徹の無言の一言――『入って来なさい』だ。
 ……あの大天使様――徹が、俺の好きな人だ。
 諦めようとして何度も失敗している相手で、出会って4年間、ずっと片想いしている。
 俺と恋愛をしてくれるような人じゃないのはわかってる。大人だし、それに――徹は、カトリック教会の神父だから。男同士だということも、きっとハードルが高い。
 妻帯を禁じられ、神の愛に殉じる身。宗教服に身を慎(つつ)んだ姿は、男性宗教者に枷(かせ)された特殊な純潔の象徴だ。
 ……誰がどう見ても、いくら好きだって、無理。
 いつも終わりのない浜辺を歩くような気分になる。そして時々、無性に海に消えたくなる。
 誰が見てるわけでもないけど、わざとどうでも良さそうな歩調で階段を降りる。足取りが浮ついてしまうのが哀しい。
 教会の前に立つと、甘い花の香りが喉に絡んだ。
「香水かな――」
 さっきの女の人のかもしれない。完璧なスタイルと柔らかそうな体を思い出して、なんとも言えない気分になった。
 曇った気分で、僅かに開いた扉の闇を見つめる。
 ……どうする?
 ダメだよ。会わないって、諦めるって決めたんだろ。
 帰った方がいいよ――天使がたしなめてくる。
 我慢しないで会えばいい――悪魔が囁く。
 本当は、いつだって徹に会いに来たい。どうせどうにもなりっこないんだから、せめて会うぐらい――……でもそれって、ひたすら苦しくなるだけだ。
 正直、もうどうしたらいいのかわからない。
 扉の向こうから、微かな足音が聞こえた瞬間。悪魔が勝った。
 徹の気配に勝てるわけないんだ。あの声が聞けるなら、豪雨だって吹雪だって這ってでも来る自信がある。
 ……それでこうやってまた、ズルズル会うのか?
 ダメな奴――思いながら、扉を押した。




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