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 酷いにおいだった。
 不自然な花の香りと、汗と欲の匂い。
 これこそ、悪魔の口の中だ。
 偽りの神徒の服に身を包み、申し訳なさ程度に設けられた小さな窓を開け放つと、冷えた空気が忍び入ってくる。
 壁越しに聞こえるシャワーの水音から逃れるように黒い扉を押す。
 簡素な部屋。勉強机と、宗教書が並んだ本棚――先代の司祭の頃から使われていた書斎だ。
 白い壁に、無垢な家具。行為に及んでいた暗い部屋とは別世界に見える。
 背中で、軋む音を立てて閉じた扉は、闇と日常の間に横たわる黒い門のように思えた。
 書物の前を目を伏せて通り過ぎ、部屋の中に日差しを注いでいる窓を開ける。
 何も知らずに吹き込む風に頬を撫でられた途端、ひどい胃のむかつきを覚えた。
 トイレに駆け込む。便器に吐き出したものは胃液ばかりだった。セックスドラッグのせいだろう。
 水で口を拭って書斎に戻ると、静まり返った部屋の様子に笑いがこみ上げる。
「くっくっくっ……」
 ――これはなんだ?
 この世界は。この現実は。
 壁に背中を凭れさせて、暫く笑い続けた。
 笑うことにも飽きた頃。風に揺れる葉音の中に、ドアの軋む音が響く。
「シャワーありがとう」
「準備はよろしいのですか」
「うん」
 長い髪を掻き上げた彼女の目が、ねっとりと私を見る。「もう、神父様に戻ったのね――」
 甘えたような声が、耳に絡みつく。
 赤く塗られた爪先がこちらに伸ばされたが、それが届かない内に書斎のドアを押す。
「どうぞ」
 廊下へ促すと、女性は名残惜しそうな上目遣いで私を見て、ヒールで木の床を打ちながら部屋を出る。
 細く続く廊下。
 背中が大きく開いたワンピースドレスに身を包み、大きく腰をくねらせるように歩く後ろ姿を妙に冷静に見ていた。
 ああ、これは――。
 この光景は、ついさっきまで見ていた光景だ。
 悪魔の口に続く、暗い道だ。


 聖堂に踏み出した彼女は、ヒールで高い音をたてながら、祭壇に見向きもせずに正面扉へ向かっていく。
 私は少し歩調を上げて、一足早く扉に辿り着いた。
 追い越しざま、絡みつく視線を感じる。その目が首筋を撫でているのがわかった。
「外は寒いですよ」
 コートを着るように促すと、女性はファーのコートを翻して肩にかけた。
 女性の肩越しに磔にされたイエスの像が見えて、視線を逸らす。
(――どうか、御目をお閉じください)
 心に浮かんだ祈りの言葉が、我ながら白々しかった。
 私が正面扉をわずかに押し開けると、女性が赤い唇の端を左右に引き上げながら言う。
「……すごく悦かった。何度かわからないくらいイっちゃった……」
 白く細い手が、私の肩をねっとりと撫でる。
 扉を更に少し押し開くと、女性は目を細めて外に滑り出た。
「迎えが来るわ」
 剥き出しになった腿や胸元が、冬の風に吹かれている。彼女はそれを気にもとめていないようだった。
 ……ふと、気配を感じた。
 私の感覚は、いつもすぐに”彼”を捕まえてしまう。
 学校が終わるにはまだ少し早い時間だ。
 私は、車を待つ女性の背中を何もない顔で見ていた。
 どうか、彼女が彼に気がつかないように――心の中は、ひどい焦りに満ちていた。
 彼女が、こちらを振り返って内心ひやりとする。
「あなたの××、今日はいつにも増してすごく大きかった……」
 ふいを打たれて一瞬緊張が走る。潜められた声だったが、彼に聞こえるのではないかと気が気じゃない。
「握るとドクドクしていて……あんなに固くなるなんて――」
 彼女は赤い唇を舐めて、満足気に吐息してから続けた。「すごく激しく腰が動いてた……あ、また濡れてきちゃった……」
 その口からは、いつも卑猥な言葉しか出てこない。少し息が上がっているようで、恍惚とした光が目に滲んでいた。
「ねえ。私が、ここでシて欲しいって言ったら……?」
 ひやりとしたところで、道の向こうから黒塗りの車が走ってくるのが目に入った。
「車が来ました」
「あー……もうっ」
 ドアが開かれた車に、彼女が歩み寄る
「お気をつけて」
 私が声をかけると、彼女は思い出したようにこちらを見た。
「ねーえ?」
「はい」
「そら、って誰のこと?」
 全身の血が冷えた。
 女性は、怪しく嘲笑って高級車の後部座席に滑りこむ。
 私は、走りだした車を慄然として見送っていた。上がりかけた鼓動を押さえ、今は木影に隠れた小動物のような彼の気配に集中する。
 ……こんな状態で会えるだろうか。薬は完全に抜けているけれど。
 そんな自問自答は、一瞬だった。
 彼が、気配を隠すのをやめたからだ。
 小さく息を整え、いつもの微笑の仮面を被る。もう一瞬後には、私は彼と目を合わせているだろう。
 そして、口を開く。
 彼の。救いの声が聞きたいから。


 修正 15/09/18
 修正 18/12/20




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