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「おい」
 刺すような迫力の声。
 すぐ横に立つ声の主に、乗客の視線が一斉に集まる。
 狼狽えている中年の男のこもった声がすぐ後ろで聞こえて、鳥肌が立った。
 生理的な拒否感、嫌悪感だ。
「言ってほしいのか、ここで」

 この強い声の持ち主が、どんな人か確かめたい。

 でも、至近距離で、混んでる車内じゃ見上げることもできない。
 俺は、恥ずかしくて居たたまれなくて、指定カバンを握り締めていた。
「君、次、降りられるか」
 さっきとは打って変わって、柔らかい低音が頭に降ってくる。
 同じ人とは思えない、包むようななだめるような声。
 少し気持ちが落ち着く。
 ホームに入って電車の速度が緩むと、俺は、震える息を静かに吐き出した。




おとなのひと




 俺、小野寺健太(おのでらけんた)は、たったさっき、痴漢に遭いました。
 そんなわけで、駅長室で座り心地の悪い丸椅子に座っている。
「じゃあ、別室で」
 痴漢が、隣の部屋に連れて行かれるのを見送って顔を上げた。
 窓の外に、さっき助けてくれた人がいて、駅員と立ち話している。
「……わー……」
 スーツ姿で、若いっぽいサラリーマン。
 スラアッと背が高くて、180ぐらいありそうだ。ストライプの紺のスーツがすごく似合ってる。
 その人が、ちらり、とこっちを向いたのを見て、どきっとした。
 それが、その。
 すごく、男前で。
 短めの黒髪をワックスで立ててる。
 精悍な顔立ち。
 痴漢から助けてくれた事もあって、俺にはきらきら光って見える。
「1週間前から、ですか」
 警察官の質問に、慌てて、はいと向き直った。
 1週間、高校までの3駅。尻とか足とかを撫でられた。
 最初は、何かの間違いだって思ったけど、尻の谷間をしつこく撫でられた時には、さすがに確信した。立ち位置変えても車両を変えてもダメで――。
 ガチャ、と音を立てて、駅員さんと、あの人が入ってくる。
「すみません、お忙しいところ」
「いえ」
 警官に答えながら、部屋の隅にあった丸椅子を片手で軽々と引き寄せて、跨いで座る。
 まあ、何やってもかっこいい人っているもんだ。
 この落ち着きぶりは、ちょっと年いってるのかな。20代後半か、それ以上――。
「初めて見かけたのは……3日前、かな」
 男前サラリーマンが言って、まっすぐ警官を見ている。俺は、なんとなく恥ずかしくなって、その精悍な横顔から目を逸らした。
「男の子だったんで、様子見てたんだけど。今日は近くに乗ったから」
「ご協力感謝します」 
 警察官と駅員が頭を下げる。
「確か、前にも女性を助けて頂いたような――」
「この沿線、多いですから」
 男前は、仕方ないって風に答えて、ちらと時計を見た。
 駅員さんが、すまなそうな顔をする。
「会社、大丈夫ですか」
 あ。そっか、この人だって会社あるんだ。すごく迷惑かけてるな……。
「あ、あの俺、訴えるとか、考えてませんから」
 早く切り上げたくて言ったら、警察官も、まあねえ、と頭を掻いた。
「立件しにくいんだよね、被害者が男性の場合は」
「嫌な思いしたんだろ。いいのか」
 男前サラリーマンが、俺に言った。
「もう、早く忘れたいし」
 そう言うと、納得したように、その人も、もう何も言わなかった。
「では、厳重注意、と。同じ車両を使わないという念書を書かせるということで、どうですか」
 俺は、よろしくお願いします、って、頭を下げた。



「あの、ありがとうございました」
 まだ、少し声が震えてる。
 次の電車を待つ間、俺はホームで男前に頭を下げた。
「大したことない。俺なら、ぶっとばしちまうんだけど」
 そう言って、遅延届けを振っている。
 俺、暗い顔してたのかもしれない。
 男前サラリーマンが、俺の顔を見て、小さくため息して続けたんだ。
「女友達に、怖くて声なんか出ないって聞いたの思い出したよ。もっと早く助ければ良かったな」
「いえ、そんな――」
「ごめんな」
 言われて、しばらく呆気にとられた。
 じわ、と視界が滲む。
 泣きそうだ。
 慌てて俯くと、ぐしゃぐしゃっと、髪を撫でられる。
「プライド傷つくし、気持ち悪かったよな」
「う……」
 うぅ〜っと喉の奥から声が出る。
 あんまり、優しいこと言わないでほしい。
 男に痴漢されてることを言い出せなかった気持ちや、混みあう車内で気持ち悪さに耐えてたことを思い出して、喉の奥が込み上げる涙で痛む。
 でも、涙が出てしまいそうなのは、その気持ちを分かってもらえた気がしたからで。
「う、うー……っ」
 ホームの行きがかりの人が、ちらちらこっちを見ていく気配がする。
 でも、涙は止まらなくて、男前に申し訳なくて。
 間もなく列車が入ります、というアナウンスがして、涙を拭った。でも、嗚咽は止まらない。
「す、みません、っ、電車、行ってください」
「気にしないで、ゆっくり落ち着いたらいい」
 そう、背中を撫でてくれる。
 そんなことされて、もっと涙が出てきてしまった。




 休み時間。
 俺は、自分の席で、綺麗にたたまれたブルーのハンカチを眺めていた。
 あの男前サラリーマンは、あの後、しばらく、俺を人目から遮るように背中を貸してくれていた。
 俺が落ち着いてきた頃、さすがにそろそろ行かないと、って、このハンカチを貸してくれたんだ。
 微かに爽やかな香りがする。
 香水なのか、シャンプーの香りなのか。あの人は、確かにこの香りだった。
「わ、どうしたの、そのハンカチ」
 長い黒髪の美咲が、話しかけてくる。
 美咲は、俺の幼なじみだ。可愛くて、清楚な印象で男子にモテる。
 俺から見ると、ボーイッシュで男友達みたいな感覚なんだけど。わからないものだ。
「どうしたの急に、できる男風?」
「いや、俺のじゃないし」
「じゃあ誰の?」
 実は、美咲には、4日前に痴漢の相談に乗ってもらっていた。
 今日のことを話したら、目をまん丸にして。
「助けてくれたんだ!かっこいいねー!」
「うん、かっこいいんだよ……」
 年は向こうの方が随分上だろうけど、それでも、自分の弱さと比べて、ちょっと凹む。
「趣味が良くて綺麗なハンカチ持ってるってことは、彼女持ちか結婚済みかー、残念」
「へ?」
「当たり前じゃない、そんなに落ち着いてて、イケメンで。綺麗にアイロンかけられた趣味のいいブランドもののハンカチ持ってるなんて、独り身じゃないよー」
「そ、そっか」
 女の子ってすごいな。ハンカチ一つで、そこまでわかっちゃうのか。
 なんだか、がっくり、した。
 がっくり?
 理由はよくわからないけど、なんとなく、気分が下向きになる。
「ね、返すの?それ」
「え?いや、まだ何も考えてないけど」
「朝の電車で助けてくれたんでしょ? しかも3日前に見つけてくれてたんじゃない。同じ電車使ってるんだよ。また会えるんじゃないの」
「あ、そっか」
 急に、気分がそわそわしてきた。
「ね、それ、私も行っていい?」
「へ?」
「だって見てみたいよ!かっこいい人にそんな風に助けられたら、一目惚れしちゃう!」
「わ、わかったよ……」
 美咲の勢いに押されて、俺は、渋々頷いた。

 

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