◇ ◇ ◇
「してほしいって言ったら、俺、笠井さんの恋人になれる?」
そう、潤んだ目で言われた時のことと言ったら。
人生で一度あるかないかというくらいの破壊力だった。
キスマークの謎を突き止めるために、強引に彼のプライベートに立ち入ったのは反省してる。
ただ、すんでのところで暴漢から救出、という派手な一幕を繰り広げるはめになって、改めて寒気がした。
この距離を飛び越えていなかったら、この子がどんな目に遭っていたか――ただの一点、それだけは自分を許してもいい気がしてる。
拒絶されたらエスをやめようという覚悟までして、紘くんに言った。
恋人にしたい、と。
男の子相手にどう言ったらいいものか、それなりに悩んだ。
普段の会話から、紘くんの好意のほどは窺ってきたつもりだけど、さすがに緊張感がすごかった。
うまくいかないかもと思っていたところに、その返事。
しかも、「俺の方が先に笠井さんのこと好きになったと思う」なんて――。
なんて可愛らしくいやらしい事を言う子だろう。
どれほど可愛がってやろうか。
体が熱くなって、帰したくなくなった。
――俺、もしかして、全然淡白じゃないよな、これ。
思ってから、急速に自分のモードが男に切り替わっていくのを感じる。
その強い欲求に勝ったのは、心の底から湧き上がる愛しさだった。
……ゆっくり行こう。乱暴に踏み荒らしたくない。
燃え滾る体を持て余しても尚そう思えるから、この愛しい感情というのは不思議な力だ。今まで経験してこなかったことを勿体無くも思う。
「覚悟してね。とろとろになるくらい可愛がってやるから」
熱を指先に乗せて、紘くんの唇に触れる。
その頬から首まで、ぱっと染まった朱の色が目を楽しませた。
早く「俺に触って」と言わせたい――だから、トロトロになるまで可愛がろう。
熱いパンケーキの上でハチミツと一緒に溶ける、バターみたいに。
□ □ □
――話は現在に戻る。
晴れてあの子と両思いになってまだ1週間も経っていないところで、次の課題が出てきた。
想い合ってるとはいえ、同性だということ。
昔ほどではないにしろ、まだまだ世間の偏見は根強い。
そして、純情な青年を悪い大人の懐に引きずりこんでもいいのか、というこの2点。
彼のペースに合わせるつもりではいるけど、淡白だった自分が信じられないような衝動に駆られることもある。
逢って、抱きたい。
……そもそも、自分が抱く側でいいのか。
男同士で、抱くとか抱かれるとかいう行為をどう成立させたものか。
でも、このまま触れないでいる我慢もそう長くは続きそうにないので、早い内に話し合っておかないと。
けれど――。
「……親御さんは、許さないわよねえ」
「そうなの。笠井さんわかってくれるなあ〜」
半年に1度くらい通ってくれている女の子――米(よね)ちゃんと鏡の前でお互い眉を寄せ合う。
「米ちゃんは、いつからその子とつき合ってるの?」
肩までのキャラメル色のツヤツヤ髪の根本をコテで伸ばしながら尋ねると、米ちゃんが、うーんと、と唸った。
「1年くらいかなあ。先輩先輩って慕ってくれてるなーって感じだったんけどぉ」
米ちゃんは、広告会社でバリバリを通り越してバキバキに働いている。
「飲み会で酔った後輩を家に連れて帰ってー……で、勢い、っての?」
「女子にも勢いってあるのね」
「あるよ〜。先輩好きってしがみついてきて可愛いなあ、って思って。そのままつき合っちゃった」
別の髪束を作りながら、鏡の中の米ちゃんを見る。
「もう一度確認しとくけど、相手、女の子よね?」
「うん。あたしバイだったみたい」
鏡に映った私を真っ直ぐに見て平然と言い放つ米ちゃんは、男らしいというかなんというか……毅然としたものが溢れていた。
「あたしの周り、適当に働いとけばいいやみたいな人が集まるんだけど」
ぽんぽん話が飛ぶ米ちゃんとの会話は、スリリングで楽しい。
「米ちゃんしっかりしてそうだもんね」
「でも、亜衣(あい)……あ、彼女の名前なんだけど。亜衣は一生懸命で、おろおろしながら必死でついてきてさ。頼りベタなところもいじらしく見えちゃったりして」
「面倒みたくなっちゃったわけ」
「そう〜。飲みに誘うと目をキラキラってさせてて、超可愛いとか思って」
「あ、わかるかも」
言ってしまってから、慌ててフォローを入れる。「嬉しそうな顔されると構いたくなっちゃうよね、“一般的に“」
「そうそう。そんな調子でいたら、先輩後輩飛び越えて恋人になっちゃった」
ははっと軽快な笑い声を上げて、米ちゃんが手を叩く。
「米ちゃんは、その子にベタ惚れなのね」
「まあね。可愛いもん」
少し赤くなった耳に、米ちゃんの本気が出ていた。「問題はこの後。亜衣と結婚できるかっていうとお」
「日本じゃ難しいわねー」
「でしょ? 親に紹介するにもさー」
「そっか、女の子は慎重だもんね」
「亜衣だって、25よ? 人生奪っちゃうわけじゃん。とりあえず彼女ほしい、とかいう男みたいにはなりたくない」
米ちゃんのオーラが、めらっと迸ったように見えた。嫌な思い出でもあるのかと思ったけど、それ以上は踏み込んじゃいけないことは長年の勘でわかる。
「……あたし、男に生まれれば良かった。そうすれば責任とれたのに」
「米ちゃんは、女の子で良かったんじゃない?」
「えー」
抗議の声を上げる彼女に、鏡越しに笑いかける。
「女の子だから彼女の気持ちがよくわかるわけでしょ。悪いことばっかじゃなさそうだけど」
鏡越しに盗み見たその目には、少し安堵したような色が見える。
接客業――特に美容師は、ただ単にサービスを提供するだけじゃない、お客様の決心を手伝う瞬間がある。
髪を切ったり、シャンプーをしたり。
はたから見ればなんでもないことだけど、お客様は大きな決意を持って来店することがある。
その瞬間に立ち会えることが、美容師という仕事を好きな理由のひとつでもある。
「好きな子を幸せにするには、どうしたらいいんだろうなー」
答えの出ない問いを口にして、米ちゃんは黙った。
あの子に、会いたいと思った。
□ □ □
『あ、笠井さん』
「勉強中だった?」
閉店後のスタッフルームでマドレーヌをつまみながらかけた電話。
スタッフは皆帰って、物音ひとつしない。
『ネット見てたー』
照れたような紘くんの声が聞こえて、じわと胸に広がった感覚は、とてつもなく甘い。かなりのぼせてる、と我ながら苦笑いする。
恥ずかしがり屋な恋人は、あまり連絡をくれることがない。
つき合う前もつき合った後のこの1週間もそれは変わらず。遠慮してるのはわかるけど、もっと気楽に連絡してくれたらいいのにとも思う。
そう思うのも、以前は考えられない。意外と自分は束縛体質だったらしい。
『もう仕事終わった?』
「今帰るとこ」
『笠井さん、明日お休みだよね』
「うん」
『……一緒にごはんとか、ダメですか、ね』
驚いて携帯を落としそうになった。
『あ、だ、ダメだよね、予定とかあるよね』
「ないわよ。……紘くん誘おうと思って空けといたから」
電話の向こうで、息を呑む気配が伝わってくる。「行きたいところある?迎えに行くけど」
『あ、えっと、一応、店調べてあって――』
カチカチとマウスの音がする。
ああなるほど。それでネットをやってたのか、と思った瞬間、胸が甘苦しくなった。
パソコンの前でここはあそこはと悩んでる紘が簡単に想像できて、思わず笑みが溢れる。
『あ、あの』
「……ん?」
肩で携帯を挟んで、上着に袖を通しながら返事する。……なるべく、甘い声で。
紘は、私をハチミツみたいだと思ったらしいから、その通り、甘く包んでとろとろに溶かしてあげたい。
『受験受かったら、俺、車の免許とるから――』
――俺も、早く運転できるようになる。だから、そしたら、俺も笠井さんのこと迎えに行くから。
その言葉に、思いがけずジンときた。
――恋人のこと幸せにするには、どうしたらいいんだろう。
先刻の、米ちゃんの言葉が頭を過ぎる。
……そっか。わかった。
「紘」
『え』
急に呼び捨られて動揺したのが声で伝わってくる。
幸せにするなんて、大それてる。
だってこうして、“俺”は、この子に幸せな気持ちにしてもらってる。
「愛してるよ」
『か、笠井さん――』
「早く会いたい。会って、いっぱい可愛がりたい」
『う』
「……2人で、幸せになろうね」
少しの、愛しい間があって。
うん、と。
消え入りそうな、でも切羽詰まったような声で、心からの答えが返ってきた。
『大好き、笠井さん』
END
2012/04/28
2016/03/10 修正
あとがき
NO.363636ゲッター、モト様で「『melt with honey』続編」でした。書き終わってから、続編どころかほぼ笠井の回想録じゃないか、と気づいて土下座したい気持ちになってます。リクエストありがとうございました……。
久賀