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 ガラ、とドアが開いて、教室が静まり返った。
 いつまで経ってもかからない号令に不審げに眉を寄せた白衣の教師は、黒縁の眼鏡を指先で押し上げながら言った。
「……日直休み?」



さようならの方程式






 生徒たちが号令に合わせて着席すると、その白衣の教師は、物も言わず教科書を広げ黒板にチョークを走らせ始めた。
 教室中の誰もが、口を開けてその背中を見ている。
 明るい茶に染められた少し長めの髪を時々邪魔くさそうに掻き上げる。
 無精髭があった口元は、綺麗に剃られて、いつものマスクに隠れていない。
「……あれ、誰?」
 ぽつりと落ちた女子の声が、波紋のように教室中のざわめきに変わる頃。よどみなく走っていた手が止まった。
 目に眩しい、汚れひとつない白衣。
 その裾を揺らしながら遠慮がちに振り返ったその教師は、形の良い唇を開いて言った。
「……静かにしてね」

 ――これが今朝、隣のクラスで起こった騒ぎの一部始終らしい。



 ……空気が、桃色だ。
 居心地は、よくない。
「先生〜、朝はしてなかったんでしょ? マスクとってみてよ〜」
「花粉症だから」
「えーっ、いい薬知ってるよ」
 教室に、うきうきした声が溢れる。
 今、このクラスでも授業を終えたその人は、教壇で女子に囲まれている。
 ワックスで掻き上げられ、毛先が肩にかかるかどうかという長めの茶髪が、午後の授業ということもあってか、やや乱れていた。
 汚れてないまっさらの白衣。
 その下に見え隠れするブルーのシャツと紺のスラックス。
 朝はなかったらしいマスクは、かえって女子生徒の興味を集めていた。
 "変身前"と変わらない黒縁のメガネは、本来はこうあるべきなのですと言わんばかりに、こじんまりした輪郭をさらに引き締めている。
 長い指先が、フレームの中央を押し上げる度、女子はその手の動きを目で追っていた。
 眼鏡の奥の双眸は、ほんの少し気だるげで、甘い。
「……詐欺だ」
 呟いた隣の席の友達に、目配せして返す。
 ……まあ、気持ちはわかる。
 確かにあれは、詐欺だ。


 数学教師――皆上数生(みなかみかずき)先生の変貌ぶりは、週明けの今日、1限目に隣のクラスに姿を現した途端、校内中の噂になっていた。「変人」が「イケメン」だった――このキャッチフレーズが、突風のように学校中を駆け巡ったんだ。
 ぼさっと、もさっとしてた皆上先生が、小奇麗にして登校してきたことで、1週間前は、あんなに興味なさそうにしてた女子たちが、数学の授業があるクラスに休み時間毎に詰めかけるという怪現象が起きてる。
「こら。質問ある奴を優先しなさい」
 先生が、出席簿で、コテンと女子の頭を小突いている。
「……ちゃんと、先生っぽい……」
 思わず、呟いた。
 ぼさぼさ頭でチョークの粉だらけだった先生が、まるで別人だ。
 朝、先生の噂を聞いた時、ドキッとしてしまった。見てみたい気持ちに駆られながら、意地をはって午後一番の授業まで我慢した。
 ……実際目の当たりにしたら、意外にも、驚かなかった。思ってた通りだなって。
 思ってた通りに、イケメンだ。
 たった1日のことなのに、急に遠い。
 「変人」教師に、女子が集まる光景を見ているのがなんだか居心悪くて、足早に教室を出る。
 窓の外の景色が、妙に眩しかった。


「はあ〜……」
 トイレでズボンのジッパーを上げる。
 この重苦しい感じ。気に入ってたインディーズのバンドがメジャーデビューしたような感じってこんな感じだろうか。
 自分だけが知ってる、自分だけのもの――そういう幻の幸せに満たされているような儚い時間だった。
 モヤモヤしながら手を洗い、廊下に出て教室へ向かう。
「新倉」
 後ろから呼び止められて、心臓が飛び出そうになった。
 廊下の先に立っていたのは、噂の張本人だったから。
「み……皆上、せんせ」
「とってつけたような"先生"だなー」
 出席簿で、肩をトントン叩いてる不謹慎な仕草も、白衣にスラックス姿とのギャップで、女子にとってはたまらなく魅力的に見えるんだろう。
 ふと、小さくて可愛い日本史の小川先生の顔を思い出す。
(今ここにいるのは、小川先生が、昔から知っていた"本当の"皆上先生なんだろうな……)
 なんだか、初めて会う人みたいでなんとなく照れくさい。
 思わず顔が緩んだら、つられたように先生も笑った。
「やっと笑った」
「え」
「授業中、ずっと眉間にしわ寄ってたよ」
 言われて、とっさに額を隠す。
 ……白状するなら、変身を遂げてしまった先生をどう受け止めたらいいかわからなくて困ってるんだ。
 先生が、ゆったりとした足取りで歩み寄って来て、俺を見下ろす。
「また、手伝ってほしいんだけど」
「1人で2巻きは無理です」
 ピシャッと言うと、先生が笑いながら言った。
「今度は、別のお仕事」
 おいで、と目配せして廊下を歩き出した背中について行く。
 白衣の裾がさばさば揺れて、インテリ教師っぽい。
(大学の研究の手伝いが終わったのかな。だから、美容院に行ってさっぱりしたんだろうな)
 すっきりしましたー、って背中に書いてあるみたいだ。
「……徹夜終わったの、せんせ」
「数ヶ月ぶりにたっぷり寝てきたよー。元気そうでしょ」
「元気っていうか、別人」
 微かに笑って、先生が歩調を緩めて俺に並んだ。
 わずかに首を傾けて覗きこんでくるような仕草に、ふいにドキリとする。
「新倉は、やっぱり話しやすいなあ。よく言われるでしょ」
「……そんな、特には」
「新倉みたいな素直な子がいて助かったよ」
 ふと、黒縁メガネの奥の目が笑う。「人懐っこい犬みたい」
「はーっ?」
 不満げに見上げると、先生が、目を細めた。
 一瞬、ドキリとして慌てて目を逸らす。
 ……困るよ、そういう目。
 あたまぐしゃぐしゃのよれよれの方が良かった。なんか、まともに見れないんだ。
 声にも張りがあって、本当に今日は体調がいいみたいだ。
 でも、気だるい雰囲気がそのままだったことが、なんとなく嬉しかった。




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