◇
黙々と各教室にポスターを配り終わって、教室に引き返す。
王子とは一言も口をきいてない。勿論、並んでなんて歩かない。
俺は、遠慮なく先に歩いていく王子の背中を睨んでいた。
教室に戻ってきたら、昼休みの終わりのチャイムが鳴った。
あー疲れた。めちゃくちゃ疲れた。
何食わぬ顔で自分の席に戻ってく王子を睨みまくってやる。
あの後、王子は、保健の先生の前でも他のクラスの委員の前でも、いつもの王子スマイルを絶やさなかった。
けど、俺と2人になると笑みを消して黙りこむ。
(くそっ、なんなんだよあいつ)
午後の授業は苦手な数学で、俺は上の空だった。
清田のことといい、王子のことといい、知りたくないことばっか知って胸がぐるぐるしている。
シャーペンを持ったまま頬杖ついたら、小指の先が無意識に唇に触った。
……キス、されたし。王子に。
一度ならず、2回も。
触れるようなキスと、ぶつけるようなキス。
ファーストもセカンドも、あっさり持っていかれてしまった。
嫌がらせかよ。
付き合ってる”フリ”なんだろ? じゃあ二回目のはなんだよ。
あいつ、不機嫌で意地悪そうだったし。
――俺、王子に嫌われるようなことしたかな。
クラスの他の奴らよりはしゃべってるし、打ち解けてると思ってた。なのに。
……はじめて王子と話したのは、入学してすぐだ。
なーんかキラキラしてる奴が隣のクラスにいるなーと思ってた。
帰りに下駄箱で傘を置き忘れそうになったら、『忘れてるよ』って引き止められた。
振り返ったら、王子だった。
華が咲いたみたいな笑顔に、呆然としたのを覚えてる。
こんな人間いるんだなーって。
ぼーっと見つめてたら、どうしたの、って苦笑いされて我に返って。ろくに礼も言わずに逃げるように帰った。
それからずっと、王子といえばキラキラ笑顔ってイメージで。
中2の時は同じ委員会に。中3では、とうとう同じクラスになった。
王子は、ずっとモテ続けてて、俺が中2の時に好きになった美貴ちゃんも王子のことが好きだった。
やっかみ半分に王子を悪く言う奴もいたけど、俺は、どうしても王子を悪く言うことができなかった。
傘の恩もあるし。嫌な奴には思えなかったんだ。
なのに。
――頭の中がぐしゃぐしゃだ。
きっと、ショックだったんだ。
王子があんなに口が悪くて、偉そうで、危なそうな奴だなんて思わなかったから。
最初からあんな奴だったら、こんなにショック受けなかったかもしれない。
――裏切られた。
こんなんで2次関数なんか解けるわけない。xだyだ、値がどうだって?
どうだっていいよ!
王子が何考えてんのか、そっちの方が大問題だ!
……王子は、『清田が俺に興味持ってる』って言ってた。
助けてやった、とか言ってたけど……いや、2回も無理矢理キスされて、助けてもらったなんて死んでも思えない。
でも――。
『飼い始めれば従順になって可愛く鳴くようになる――』
ぶるっと身震いした。
清田って、ほんと変態だ。
あの時、清田が言ってたことの意味も、王子に事情を聞いた今ならわかる。
廊下側の後ろから二番目のこの席から、窓際の一番前の王子の席を見た。
日差しを受けて俯いている王子の背中は、少し大人っぽく見えて――。
「篠田」
先生に名前を呼ばれて、ぎくっとする。
「もう解けたのか? 問4、前に出てやってみろ」
「えーっ」
抗議したら先生に睨まれて、渋々立ち上がる。
ふと、さっきの王子との約束を思い出した。
『当てられてわかんなかったら助け舟出してくれよ。それでチャラだ』
そんなんでいいの、って驚いた王子の顔――まだ、あの時は、笑顔がキラキラの王子のままだった。
諦め半分で、ちらっと奴を見る。
予想外に、王子がこっちを見ていたから、びくっとした。
先生は、教室の後ろの方の生徒に何か教えてる。他にも指された生徒が何人か前に出てきて、チョークの音をたてている。
王子は、頬杖ついて俺を見ていた。
――……これ、話しかけてもいい空気?
でも、行ったら、知らねーよって言われたりして。
そんなの嫌だ。二重にショックだ。
唇を噛み締めて、黒板に向き直って教科書を睨む。
『2次関数 y=x2+2(1+a)x+3+a が次の条件をみたすように、定数aの値の範囲を求めよ。
(1) x 軸の正の部分で異なる2点で交わる。
(2) x 軸の正の部分と負の部分で――』
……は?
チョークを持った手が、うろうろと黒板の前を彷徨った。
答えを書き終えた生徒が、どんどん席に戻っていく。
……くそ、なんだよ、解けてせいせいって顔してんじゃねーよ。
恐る恐る左を向くと、王子が頬杖ついたまま、俺を冷めた目で見ていた。
……バカにしてるのが目に出てるぞ。気をつけろよ!
王子が、しばらく俺を見た後、はあーとため息する。
くそっなんだよ、バカにしてんのがため息に出てるぞ、気をつけ――。
ふいにその唇が、来いよ、と動く。
「え」
あくまで、呆れたような顔。
迂闊にも俺は、そんな王子に、ぐっときてしまった。
……神様!天の助け!
目を輝かせていそいそと王子に近寄る。
「……ノート貸してくれ!」
「あほ。教えてやるから、自分で解け」
アホ、と王子に言われたのは、きっと後にも先にも俺だけだろう。
それから俺は、王子の机の前に膝まづいて不本意ながら教えを乞うことになった。
「座標書けよ。このグラフのカーブは」
「わかんねえー……」
「最初は、とりあえずでいいんだよ」
「……こう?」
「もっとこっちだろ、正の2点で交わるんだから」
「あー、やっぱこれ以上俺には無理!」
「落ち着け、暴れるな。どこに軸が入るか検討つくだろ」
「あ、そっか、正だから……これ、こっちに入れればいいのか」
「やりゃできるじゃん」
柔らかくなった口調につられて、思わず視線を上げる。
王子の伏せた長い睫が目に入って、そのまま見つめてしまった。
……前みたいに笑ってほしいなあ、なんて。ぼんやり思った。
◇◇◇
「……王子」
俺の顔を一瞥すると、鞄の中に教科書を詰め込みながら王子が返事する。
「なに」
「あの、さっきは……」
「礼は要らない。教えてやる約束だったからな」
そっけなく言われて、むっとする。
みんなが帰って行く中、慌てて王子を捕まえた俺は、少し緊張してた。
「き、訊きたいことあんだけど」
「どうぞ」
「……ここじゃなくて、帰りながら話したいんだけど」
昼のことか、と王子がため息した。
「あれ以上の話はねえよ」
「俺はある!」
「篠田ー」
教室の後ろから、東野と山下が呼んだ。
「わ、わりぃ、先帰ってて!」
「なんだ、王子とデートかよー」
教室に残ってた奴が、ばっとこっちを見る。
「ばっ……山下、ふざけたこと言ってんじゃねえ!」
思わず言い返したら、王子は、鞄を持って俺の前を横切って行ってしまう。「あ、ちょ」
「篠田、ほら早くしないと」
「うるせえ、おまえら明日ボコってやる!」
俺は、捨てゼリフして鞄を持ち直すと、王子の後を追いかけ教室を飛び出した。
「なあ、ちょっと待てって!」
俺に構わず通学路を歩いていく王子に必死でついていく。
「……おまえ方向違うだろ。どこまでついて来るつもり」
「だから待てっての!」
ぴたりと王子が止まる。追いついた俺を見下ろすように一瞥して言った。
「……なにが訊きたいんだよ」
そんなの……いろいろあんだよ!
あれもこれも、まだ整理ついてないし!
清田のこととか、おまえのこととか。
おまえのこととかおまえのこととか――ほんのちょっと、俺のこととか。
まあ、ほとんど王子のことだ。
「どっかファミレス――」
「教師に見つかると面倒」
「じゃあ公園――」
「じゃあな」
「王子!」
また引き止められた王子が、はあ、と顔を上げる。どこか冷めた顔で言った。
「……じゃあ、俺ん家来るか」
え、とも言えずに、王子の顔を凝視する。
いや、別に構わないけど……いや、構うよ。俺、さっきおまえにファースト……いや、セカンドキスも奪われたんだけど?
王子は、俺の返事を待っている。
心臓が、バクバク言い出す。
どうしよう、どうしよう。
でも、王子様の顔は、まるで平常心だ。
「来るの、来ないの」
「……行くよ!」
しまった。
ふ、と息を吐いて、王子がまた背を向ける。
その背中に、少し後悔しながら、ついて歩き出す。
……勢いばっかで突き進むのは良くないってことを、俺は、全然学習できてなかった。
続く
11/01/24 初出
11/12/23 大幅修正