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 何も、なかったかのよう。

 俺の体は、本当に何事もなかったようにここに在った。
 多少寝乱れてたけど、浴衣も着てる。行儀よく布団もかぶってる。
 きちんと整えられた隣の布団に、兄さんの姿はない。寝た形跡さえない。
 わずかに開いた襖からは、白々しい朝の光が差し込んでいた。
「……全部、夢?」




罪人は、それでも幸せを願う
−第3話−




 着替えて襖を開けると、部屋は無人だった。
 デジャヴ。
 ……そっか、朝のリビングと同じだ。
 冷えて素っ気ない空気や、期待した人の姿がそこにないところが。
 朝7時の部屋は整然として、まるで俺がここにいることを否定しているみたいだ。
 昨夜は、世に言う、不適切なことをした気がする。
 義理の弟が、義理の兄と。
 夢にしてはリアルすぎるから、たぶん現実だ。
 どんな顔で会ったらいいだろう。なんて言えば――。
 スッと入り口の方の襖が開く音がして、びくっと顔を上げた。
 心の準備ができない内に、兄さんが部屋に入ってくる。ここに来た時の恰好で、手に小さな紙袋を持って。
 ……その姿を見た途端、ぎゅうっと胸が鳴った。『切ない』って表現は、誰が考えたんだろう。本当に、胸が引き千切れるってくらいに甘く痛む。
 目を上げた兄さんと目が合って、声も出せずに唇だけが哀れに震えた。
「起きたのか」
 兄さんが、いつものポーカーフェイスで俺の前を通り過ぎて、カバンの前にしゃがみ込む。
 呆然とその背中を見つめた。
 兄さんには動揺も気まずさも見てとれない。
 昨夜の、乱暴な腕。ネクタイを結んでくれたあのきれいな指が強引に俺に触ったのは……夢だったのかな。
 ……そんなはずない。
 いくらボケッとしてる俺だって、夢と現実の区別くらいつく。
 抱き込まれた時の怖いような緊張と、ほんの少しの期待が混じった複雑な気持ちとか。生々しい体温や息、あの時の心臓の鼓動の速さと一緒に全部が体に刻みこまれてる。
「あ、の――」
 広い背中に、恐る恐る話しかける。「……ごめん、昨日、その……偉そうなこと、言って」
 そう、まずはそのことだ。
 兄さんに、『西村』の犠牲になるなとか、好きな人と結婚しろとか言ってしまった。
 兄さんに幸せの形を押し付けてしまった。それをまず、謝りたかった。
「……なにか偉そうなこと言ってたか」
「俺、勝手なことばっかり言ったよ。……俺が口出すような話じゃないのに」
 ふと、兄さんの手が止まる。
 何か言うのかと思って待っていたら、兄さんは、相変わらずのペースでバッグの中の整理を再開した。
「いや、おまえに話してなかった俺が悪い」
 もっと早くに、ちゃんと話す時間をとればよかったんだ――そう続けた。
 部屋に戻ってきた沈黙は、俺に、核心に迫れと要求してくる。
 昨夜のこと。兄さんはどう思ってるの。どういうつもりだったの。
 ……もしかして、覚えてないのかな。
 あの後、俺の体を拭いて、汚れたはずの浴衣を着替えさせてくれたのに?
 酔っ払って、覚えてない?
 ねえ、どう思ってんの――。
 頭の中で問いかけながら、その背中を見つめた。
「……俺、8時に出るけど」
 ふいに告げられて、え、と声が漏れる。
「午後から仕入先との打ち合わせが入ってる。おまえ、ゆっくりして行くか」
「い、いいよ。一緒に出る」
 そう言ったら、兄さんがやっとこっちを向いた。
 一瞬目が合って、ドキリとする。いつもの静かな表情だった。
「好きな方食えよ」
 差し出された袋には旅館の名前が入っていた。今、買って来たみたいで、中には、BLTサンドと大きめのクロワッサンに魚フライが挟まっているパンがある。
 クロワッサンをとって返すと、入れ替わりに兄さんが紙パックのオレンジジュースを差し出してくる。
「先に食べてな」
 受け取る時に、わずかに指が触れた。とっさに息を詰める。
「……少し出てくる」
 そう言い残して、兄さんはまた出て行った。
 ……こんな時でも、忙しい人だ。
 窓際の竹椅子に座って、サンドを頬張る。
 兄さんは、昨夜の話に触れなかった。
 触れないのか、触れたくないのか。忘れているのか忘れたいのか。
 考えながら庭を眺めて、ふと頭に過ぎったのは菜摘さんの顔だった。
 ……そっか。今、菜摘さんに会いに行ったのか。
『もう帰ります』
『あら。お早いんですね』
『また改めて』
『今度、どこかに行きません? 2人で』
 ――そんなやりとりが簡単に想像できてしまう。
 結局2人は、つき合ってるのかな。見合い話があるというだけで、まだ恋人じゃないのかな。
 でも、いずれそうなるよな――。
 恋人になって、婚約者になって、夫婦になる。
 ……そして俺は、ずっと弟のまま。
 庭の葉や石が、じわと滲んだ。




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