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「おなかいっぱい?」
 笠井さんに訊かれて、頷く。おなかを撫でて、満足な気持ちを吐息に変えた。
「おいしかった!」
「よかった」
 笠井さんは、お皿を下げに来た店員さんに「アメリカンレモネード」と言って、紘くんは、と訊いてくれる。
「あ、じゃあ……はちみつレモネード」
 メニューを見て、笠井さんが言った言葉と似た字面が目に飛び込んできたから、とっさに口にした。
 店員さんが行ってしまった後で、笠井さんに、つられた?と微笑まれて、うん、と顎を引く。
 食事の間、笠井さんとたくさん話した。『エス』の話や、スタッフさんの話。興味があったかはわからないけど、受験の話や友達の話。
 笠井さんは、俺の下手な話を上手に聞き出してくれて、楽しくて、ずっと笑ってた気がする。
「デザートはいいの?」
 言われてメニューを目で辿るけど頭に入ってこない。
 いざ一通り食べ終わったら、また、笠井さんが言いかけてたことが気になってきたんだ。
 俺が、笠井さんを嫌いになるような話――。
「気になってる?」
 ズバリ言われて、一瞬息が止まった。
「上の空なんだもん」
 からかうような言い方に、ふてくされて答えた。
「……そんな顔してないよ」
「そう?」
 にやり、と笑われる。
 少しの間、沈黙が下りた。
 飲み物を持ってきてもらって、お互いに一口ずつ口をつけたのを合図に笠井さんが切り出した。
「ちょっとずつにしてって言ってたけど」
「う、うん――」
 緊張する。心臓が、口から飛び出しそうだ。
「先に、私のこと嫌いにならないって約束して?」
「できない」
 俺が即答すると、笠井さんが、意外そうに目を大きくした。
「……笠井さんが、ひどいこと言ったら嫌いになりたくなる」
「ひどいことって?」
 笠井さんのゆっくりした低音が耳を撫でて、ぞくんっとした。
「……俺のこと、うざい、とか」
「もしそうなら、カットモデルなんか頼まないでしょ」
「じゃあ、『エス』に来過ぎだとか」
「もっと来てほしいくらいだけど……?」
「じゃあ、えっと――」
 冷たい汗が出る。こくりと唾を飲んでから、思い切って言った。「……超美人なモデルの彼女が、いるとか」
 へ、という顔で、笠井さんが俺を見る。
「その人と、結婚する、とか」
 その目を見ていられなくて俯いた。「新居建てて引っ越すから、『エス』やめるとか……!」
「待っ、ストップ」
 ぎゅっとグラスを握っていた俺の両手に、笠井さんの指先がかぶさってきて心臓が跳ねた。
 ぐるぐる考えてた最悪のケースが口から漏れまくっちゃってたみたいだ。
「なんでそんな話になるの」
「いや、その、もしかしたらそうかな……って」
「はあ……わかった。うちの店に来た時でしょ。噂話かなんか聞いたんだ」
 胃が、ひやりとする。
 やっぱりいるんだ。覚悟はしてた。しょうがないよ、笠井さんモテるんだし。でも……やっぱりショックだ。
「彼女がいたら、私、紘くんに嫌われちゃうの?」
「……嫌いになれない、けど……嫌いになりたい」
 嫌いになれっこないんだけど、ぼきぼきに心が折れて、もう『エス』に行けなくなるかもしれない。
 触れてた手が離れて行って、寂しい。その指先を目で追ってしまう。
「あー……かわいい。黙ってられない」
 笠井さんが焦れたように言ったので、顔を上げた。
「ちょっとずつってお願いされたけど我慢できない。全部、いい?」
「……っ!」
 笠井さんと目が合って、全身がビリビリっと震える。
 う、わ。
 こんな男っぽい表情(かお)するんだ。言い方も声も見つめてくる目も艶っぽくて、体が、ぎゅうっと絞られたように軋む。
「嫌いにならないでね」
 俺は、圧倒されてから、かろうじて、うん、と小さく頷いた。
「好き」
「え」
「好きだよ。紘くんのこと」
 頭が、真っ白だ。
 真っ直ぐに見つめてくる目が真剣で、頭がくらくらする。
「そ、それって――」
「絋を、恋人にしたい」
「っ」
 呼び、捨て、だし。
 頭が真っ白になった後って、火花が散るんだってことを初めて知った。
 声にならなくて、あくあくしてたら、笠井さんが続けた。
「こんなこと言って高校生を混乱させるのは大人失格だよね」
 笠井さんが、吐息してグラスに視線を落とした。「大分前から、まずいなあって思ってたの。紘くんのことかわいいなって。でも、大事なお客様だから、いいお兄さんでいたわけ。でも――」
 もう一度、その目が俺を見る。
「キスマーク、見ちゃったから」
 慌てて、とっくに消えてるキスマークを手で押さえた。
「でも、これは――」
「わかってる。でも、その時は男か女かはわからないけど、恋人がいるのかと思った」
 そんな風に思わせてたんだ。冷や汗が出る。
「嫉妬で変になりそうだった。この子とられたくないって……誰にも渡したくない、って思った」
「っ」
 かーっ、と頬が熱くなる。
 笠井さんの目が熱っぽい。
「それでいきなり、『エス』に来なくなっちゃうし。正直焦った」
 これ、夢かも。思いっきり自分の頬をつねりたい。
「嫌いになった?」
 そんなわけない。そんなわけ――頭をぐるぐるさせてたら、ふ、と笠井さんが笑う。
「……今日はいろいろあって疲れてるよね。飲み終わったら家まで送るから」
「笠井さん、俺――」
「返事はいいよ」
 笠井さんが静かにそう言って、思わず、えっ、て返した。
「したくなかったら、しなくていい」
「しなくて、いい?」
「受験生に負担かけたくないの」
「そんな」
「返事もらえなくても引き際決められるくらいには分別つくつもりだから。紘くんは、いつも通りにしてて?」
 笠井さんのレモネードが少なくなって焦る。驚いてばっかじゃなくて、言葉にしなきゃいけないのに。
「……俺は、紘くんに嫌われて、会えなくなるのが一番怖い」
 すごく真剣な顔だった。
 男の人の顔。俺、って言った笠井さんの目は、真っ直ぐだった。
 ぎゅんっ、って胸がしめつけられる。

 どうしよう、俺、すごく。
 すごく、この人のことが――。

「……んですか」
 焦って、声が詰まる。
「……え?」
「こ、恋人に、してもらえるんですか? 俺――」
 笠井さんのグラスを持つ手が止まる。
「だって! 俺の方が先に笠井さんのこと好きになったと思う」
 ……違う違う。
 競い合ってどうするんだよ。
「信じられないっていうか、笠井さんは、すごくかっこいいし、俺みたいな平凡で子どものことなんか……」
 これも違う。言いたいのは、これじゃなくて。
「……俺……」
 ぎゅっと膝の上でこぶしを握る。
「笠井さんこと、好きだっ」
 ……今の、ちょっと男らしく言えたんじゃないだろうか。
「してほしいって言ったら、俺、笠井さんの恋人になれる?」
 笠井さんが呆気にとられてる。
 思わず肩を竦めて小さくなった。なんか、変だったかな……。
「だ、だめ……?」
 笠井さんが片手で額を押さえてうなだれる。うーん、と唸ったまま顔を上げようとしない。
 やっぱ俺、何か失敗したんだ。
「あ、あの、ごめん、俺、変なこと言っ――」
 笠井さんが、手で自分の口元を覆うようにして顔を上げ、俺を見る。
 今日一番の、ぞくん、が来た。
 目って、すごい威力だ。今まで見たことない、笠井さんの激しくて強い意志を感じる。
 腰や指先が痺れてきて、思わず膝を擦り寄せた。
「――帰したくなくなってきた」
 ずくん、と腰が甘く疼く。
「え、え?」
「いや……明日、学校よね。大丈夫。ちゃんと送り届けるから」
「あの、笠井さん?」
「……本当にいいの」
「え」
「やっぱり嫌だって言うなら今のうちに言ってくれないと、逃がしてあげられなくなる」
「あ、その、恋人に、してくれるって話……?」
「確認しなくてもわかると思うけど、私、男よ」
 あ、と思った。
 そうだよ、そうだった。いや、勿論わかってるけど、好きだって気持ちが先に行ってたせいで、性別とかどうでもよくなってた。
「わ、わかってる……」
「いいの? 柔らかくないわよ。胸もないし」
「それ、どっちかって言うと俺にあった方がいいんじゃないの」
「どうして?」
「だって、体格とか考えるとさ」
 笠井さんに胸があっても困る。
 っていうか、そんなことよりも。
「……笠井さんだから、いいんだと思う」
 笠井さんが一瞬止まって、今度は、横を向いて小さく息を吐いた。
「困った子を好きになっちゃったわね」
「俺のこと?」
「他に誰がいるの。理性試されるわよ」
 頬杖ついて呆れたように細めてる笠井さんの目元は、お酒のせいかほんのり赤い。
「……超美人なモデルの彼女、いたんじゃなかったんだ」
「毎月2回も通ってくれる好きな子がいるのに、彼女作れるわけないでしょ」
 それ俺のことだよね、って言ったら、さっきから全部紘くんのこと、ってでこぴんされた。
「覚悟してね。とろとろになるくらい可愛がってやるから」
 ふ、と伸ばされた笠井さんの親指が唇に柔らかく触れてくる。返した指の背中で、頬を撫でて離れていった。
 ……心臓が、爆発しそうだ。
「可愛がる、って――」
「……口じゃ全部は伝わらないから、あとは実践」
 俺は、首まで赤くなった。いや、たぶん全身真っ赤だ。
「もしかして笠井さんって、お酒弱い?」
「ん?」
 だって、なんとなくいつもより雰囲気がとろけてて、色っぽいから。
 呟いたら、笠井さんが小さく笑った。
「絋くんと居るからじゃない……?」
 だって、ノンアルコールだもん。
 笠井さんはそう言って、空のワイングラスを振ってみせた。

 ……やっぱりこの人は、ハチミツみたいな人だって。
 そう、思った。


 end.
 11/09/15
あとがき
 修正してたら、長くなって意外と大変でした……長いこと読んで下さってありがとうございます。
 久賀




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