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 微かに笑む口元。
 ハチミツ色の髪。
 透明感があって瑞々しい、長身の立ち姿。
 1輪の花が咲いてるみたいな、そんな存在感。
 ふと、整髪料や霧吹きがかかった、腰の高さの黒いワゴンを振り向いたその人と目が合う。
 どきっとした。
「……きゃっ。男子高校生の熱視線」
 ……低い声で聞こえた女言葉に、ずるっと、ソファから落ちそうになった。





melt with honey







 ヘアサロン『エス』。
 雑誌によく出てくる街に、2年前にできたサロンだ。
 白くて明るいスタジオみたいな内装。窓際ごとに置かれる緑が、アクセントになってる。今日は日曜日のせいか、お客さんも多い。

 俺、中野紘(なかの・ひろ)がこの店に初めて来たのは、2年前。
『最近できた店らしいんだけどぉ』
 姉貴の間延びするような言い方は、何か無茶なことを頼む(命令とも言う)前触れだ。
『紘、行ってきて』
 その命が下ったのは、俺が高1の時。
 姉貴が通う女子校が、「新しいサロンに超イケメン美容師がいる〜」……って、噂で持ちきりになったらしい。
 そして、俺は、偵察に遣わされた。
 おしゃれな街のおしゃれな店で髪を切ってもらうのは初めてで、予約だけでめちゃくちゃ緊張したのを覚えてる。

 俺は、それから2年間、ずっと『エス』に通っている。理由は――。

「はい、おつかれさま〜」
 柔らかい落ち着いた声が聞こえてきて、現実に引き戻される。
 声の主は、『エス』の店長――笠井勇次(かさい・ゆうじ)さんだ。
 ビンテージっぽいジーンズに白のVネックシャツ。胸元には、嫌らしくないシルバーのネックレスが鈍く光っている。薄桃のシャツをさらっと羽織っているところが、さすが垢抜けてるように見えた。
 腰には、黒のシザーバッグ。美容師の商売道具だ。
 でも、何よりも笠井さんらしくさせているのは、溶けそうなハチミツ色の髪と、甘いけど涼しげな長身の佇まい。
 ……天使が男の姿になったら、たぶんこんな風かもしれない。純日本人って感じの俺とは、全然雰囲気が違う。
 そう。
 姉貴の女子高で噂になっていたのは、この、笠井さんなんだ。

 『エス』は、笠井さんのビジュアル……というわけじゃなく、純粋にその腕で、あっという間に人気店になった。
 今では、笠井さんは、雑誌や撮影でのヘアスタイリストとしても活躍してるらしい。

 笠井さんが、髪を切り終わったお客さんをレジ前までエスコートしてくる。そして、少し離れた所に立って、お会計する後ろ姿を見る。
 笠井さんは、いつもこうして自分のカットを確認している。
 その横顔を盗み見した。
 睫まで色素が薄い。でも、きりと上がった眉と下がり気味の目尻のバランスで、まなざしは力強い。
 さっきまで接客スマイルだったのに、今は、綺麗な長い指を口元に当てながら首を傾けて真剣な目をしてる。その姿が妙に男っぽくて、どきっとした。
「また来ま〜す」
「は〜い、お待ちしてます」
 マジな視線を消して、店を出てくお客さんに微笑みながら軽く頭を下げている。
 そのまま、くるっとこっちを向いた拍子に長めのハチミツ色の髪が柔らかく揺れた。
 ふわっと胸がくすぐったくなる。
「あら、久しぶり」
「皮肉? それ」
「一昨日ぶりねー。そんなに私に会いたかった?」
 ……びっくりしたと思うけど、聞いての通り、笠井さんはばりっばりの女言葉だ。
 女性のお客さん大勢相手にしてる内に、こういうしゃべり方になっちゃったー……なんて笑いながら初めて髪を切ってくれたのを思い出す。
 ――笠井さん、もしかして男の人が好きなのかな。
 勝手なイメージを未だに確認する勇気はない。
 笠井さんが、颯爽と歩み寄ってきて隣に座った。
「紘(ひろ)くんー。そのシラけた顔やめてくれる?」
「なら、変なこと言わなきゃいいのに……」
「私から、ユーモアとったら何が残るっていうの」
「そのユーモアが全部台無しにしてるんじゃねえの」
「もしかして褒めてくれてる?」
 甘い笑みを向けられて、どきっとする。
 2年も通ってるのに、笠井さんのこの雰囲気にまだ慣れない。
「……ほ、褒めてないけど、もったいないなあとは、思ってる」
「へーえ? 素直で正直な子は、好きよ」
 笠井さんは、とても自然に、軽く曲げた指の背で俺の顎先を撫でた。
 ……いちいち、人をドキドキさせる人だ。
『うちの店、できたての新一年生なの。紘くんと一緒』
 初めて会った時、そう言って微笑んだ笠井さんのよく動く器用な手に見とれた。
 とろけそうな笑顔と甘い雰囲気で、この人が噂の『超イケメン』なんだなってことはすぐわかった。
 ……見た目とおねえ言葉のギャップにはずっこけたけど。
 気取っても飾ってもない仕事ぶりを見るのが好きで、俺は、通うペースが、3ヶ月に1度、2ヶ月に1度、最近じゃ1ヶ月に1度になった。その度にバイトのシフトが増えていって、高校生なのに働きすぎって言われる。
 ふと、長い指が俺の明るい色の髪を触った。くるくると弄ばれてくすぐったい。
「ほんとにやめちゃう? 残念、似合ってるのに」
「だって、反省文書かされたんだぞ」
「このセンスをわからないのかしらねえ、先生は」
「そういう問題じゃないと思うけど……」
 髪に触れる手。
 思わず、顎を引く。
 顔が緩んじゃうのを隠したかったんだ。
 俺は、半年前にカットモデルを頼まれるようになってから、時々『エス』の閉店後に笠井さんに協力している。
 今回は、そのカットモデルでのカラーリングが、先生のチェックに引っかかってしまった。
「色戻すって言っても完全には戻らないかも。しばらくしたら色落ちてくるけど――」
「別にいいよ……っていうか俺、いい黒スプレーがないか訊いたんだけど」
「綺麗な髪なのに、あんなもんで済ませるのは許さないわ」
 言って、笠井さんが立ち上がる。
「おいで。洗ってあげる」
 エスコートされるように腰に軽く手を添えられた瞬間、妙な気持ちになる。
「……笠井さん、いつもこんな感じ?」
「なにが?」
「いや……お客さん、とかに」
 言葉を濁して俯いてたら、笠井さんが、ふっと笑う気配がした。
「こんなベタベタ触らないわよ。嫌がられるでしょ」
「俺だって嫌だよっ」
 噛みついたら、遥か上からちろっと見下ろされて、ぐっと声が詰まる。
「ふーん、そっかあ……私、嫌われてるのね」
「そ、そんなこと……っ」
 とっさに否定しようとすると、スタッフさんたちの目が一斉にこっちを向いた。
 変に力が入って、声が大きかったらしい。
「……あ、すみません……」
 真っ赤になって頭を下げる。
「ぷっ、くくくく……」
 笠井さんが、体を折って笑っている。
「笑いすぎだろっ」
 俺が情けない声を出すと、笠井さんが、面白がるみたいに髪に触ってくる。
「かわいいね、ほんと」
 頬が熱くなった。複雑で、変な気持ちだ。
 シャンプー台の椅子に座って、笠井さんを見上げる。




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