07

「そんな荷物を持って何処へ行くのかしら?」
出掛ける支度をしていた玄姫は突如現れた人物に内心悲鳴を上げた。微かに肩を震わせると玄姫は背後を振り返る。
「不法侵入背後よくないんじゃないかなぁ?」
困ったような笑みを浮かべて指摘すると、その人は深海のような青色の瞳を玄姫に向けた。
「あら。いけなかったかしら?勝手知ったる我が家の一つなのよ?ここ」
金髪の髪を靡かせて、赤い蝶が舞う着物を纏った彼女は可笑しいと笑う。
いつもながら何の物音もなしに人の背後に現れるのは彼女の十八番だ。
「いや、確かに君の計らいには助かったし感謝してるけどもね、茶菓子もまともに用意出来てない状態だと困るわけだよ」
「それならお構い無く。私今日は寛ぎに来たのではなくて別件で伺ったのよ」
設置されているソファに腰掛け、袂から優雅に一枚の紙を取り出すと艶やかに微笑む彼女に玄姫は嫌な予感が過る。
「別件?」
「これよ」
差し出されたのは遺産相続人契約書。甲の署名欄には彼女の名が、乙は未だ空白だ。
ひくりと頬を引き攣らそた玄姫は人差し指で紙を指すと、暫くの間を持ってから硬い笑顔で尋ねる。
「…オレにどうしろと?」
「普段察しがいい貴方が気付かないなんて、安穏とした日常で勘が鈍ったんじゃない?…まぁいいわ。この空白欄に貴方の名前を書きなさい」
人を食ったような笑みを端正な顔立ちに浮かべると頼む形ではなく、あくまで上から告げるような言葉で強要してくる。数年振りの再会にも相変わらず唯我独尊を貫く視線に苦笑する玄姫。だがその紙を受け取る気配はない。
「一体どういった風の吹き回しかなぁ。君は他人に金をやるくらいなら消すだろうに」
荷造りを終えると、そう言って明らかに疑った視線を送る。何を考えている、と目線だけで問い掛けてくる玄姫に疑われている女性は見る者全てを虜にするような甘やかな笑みを浮かべた。
鈴を転がすような澄みきった声音で笑うと、組んだ足に腕を置いて小首を傾げる。
「内緒。」
愛らしい仕種で拒絶の姿勢を貫く女性に話にならないとばかりに肩を竦めると荷物を置いた机に腰掛ける。
「じゃあ署名はしない」
言い捨てると玄姫は女性にも負けない蠱惑的な笑みを浮かべた。それは滅多に他人に見せない類いの表情であり、玄姫が勝負事に勝利を確信した時に浮かべる絶対的な自信の現れ。
こういった表情をする玄姫に勝てたことがない彼女は表情には出さないが内心苛立った。
上手く運ばない話は好まない。主導権は握っていなければ、いつ相手が裏切るか分からない。特にこの目の前の男に関しては。
歯噛みしたい気持ちを抑え、仕方ないと半ば諦めた思いで、出来れば持ち出したくなかった切り札の一枚を口にする。
あくまで、笑顔を浮かべたまま。
「あら。それじゃあ仕方ないわね。それなら貴方に預けたままの『あの子』、返して戴ける?相続人がいないなら燃やさなくてはならないから」
その言葉を口にした瞬間、それまで笑っていた玄姫の表情が崩れた。
「ねぇ…」
絶対零度の声音。冴えざえと光る怒りの感情は、触れてはならないことに対し犯した者へと剥き出しの感情を叩き付ける。
「自分が何を言ったかわかってる?」
荒げない平淡な声に、彼女は肌が粟立つのを覚えた。
彼女の仕事柄、肌を裂くような殺意や敵意、不快感を煽る悪意といった強い感情を向けられるのは多々ある。寧ろ無い時の方が極端に少ないと言えるだろう。
それ故に彼女はこういった感情を向けられるのには慣れていた。だが、玄姫にこれ程の怒りをぶつけられたのは生まれて初めてのことだった。
承知の上で言ったこととは言えこれは中々に堪える。
無表情を変えることなく怒りを表す玄姫。その顔が徐々に解けていき、ゆったりとした笑みを浮かべた。
瞬間、彼女は反射的に座っていたソファから退く。次いで懐から黒光りする拳銃を玄姫に突き付けていた。
だが向けられた本人と言えば銃口を向けられても、顔色一つ変えずに笑みを湛えている。
喉の奥で笑うように声を立てると、おもむろに腕を組んで柔らかく微笑んだ。
「あは。人に武器を向けるなんて危ないよ」
「…」
無言を通し銃口を突き付けたままにすると、浅く息を吐き出す玄姫。
危機感のない態度に眉間へと強く銃を押し付けるとやんわりとそれを触った。
「オレは馬鹿は許容範囲だけど愚か者は嫌いだよ」
指先だけで眉間に突き付けられたそれを退かすと落ちた紙を拾う玄姫。
しげしげとそれを眺めるとやがて興味を失ったように机の上に置いた。
人の過去には触れたがらない玄姫は、自分の過去に関わることを言うと感情の枷が外れる。
玄姫自身、そのことをよく理解していた為、他人に自分のことを尋ねられてもやんわりとはぐらかしていたのだ。
だからこそ玄姫はキレた。幾ら挑発するためとは言え、触れられたくはない部分に口を出すのは好ましくない。
「ルリ、忘れてるかもしれないから言うけれど…オレは三回までしか許さないからね?」
玄姫から言われた言葉にルリと呼ばれた彼女は記憶を反芻させる。
過去、彼女は玄姫によって二度警告をされた。一度目は自身が自棄を起こしてこの世界に入った時。二度目は、とある少女を手に掛けた時だ。
そして今回は三度目。
つまり次は無いということになる。
ふと二度目の警告の際の玄姫の表情がぼんやりと脳裏を掠めたが、確かな輪郭を思い浮かべる前に泡が弾ける間で霧散した。
「そうだったかしら?随分前のことだし忘れてしまったわ」
「じゃあ今思い出したよね。しっかり覚えておいてよ」
「気が向いたらそうするわ」
上げていた腕を引くと懐へと銃を仕舞う。帰るつもりなのか背を向けたルリに玄姫は口を開く。
「で?何でこんなものを持ってきたの?」
それは一度は拒否された問だった。
「…さぁ?貴方こそその荷物は何?」
けれどそれは答えられることはなくもう一度拒否された。ルリも一度はぐらかされたことを問い掛けると玄姫は視線を彷徨わせてから言う。
「旅に、もう一度出ようと思ってね」
優しく荷物を撫でながら言われた答えに彼女は笑った。
「そう。じゃあさようならね」
そうして口にしたのは再会の言葉ではなく、別れの言葉。
「あぁ。さようならだ」
対する玄姫も別れの言葉を口にする。決して再会を口約束しないそれは彼らの間に敷かれた暗黙の了承だった。
互いが互いを知っているからこそ短く交わされた言葉。呆気なく素っ気ない。だが清々しいほど割り切られた別れの言葉に、二人は欠片ほど気にした様子はない。
どこからともなくルリはボールを放ると、狐のような顔をしたポケモン、フーディンが現れる。
「ふふ。それじゃあね玄姫。あと颯にもさようならと言っておいて頂戴」
「はいはい」
玄姫が了承の言葉を口にしたのを皮切りに、彼女の姿はフーディンと共に消えた。
するとタイミングを見計らったように扉がノックされる音が響く。入るように玄姫が言うと、颯が顔を出した。噂をすれば影とはこのことかと内心感心する玄姫は、彼に気付かれないようにそっとルリから渡された紙を机に仕舞う。
「何か今女の人と話してなかった?」
「さぁ?オレには何も聞こえなかったけどね」
存外地獄耳な颯に舌を巻くも、玄姫はしれっとした様子で嘘を吐く。
次いで入ってきた人物に目を向けると悪戯気に微笑んだ。
「偲は何か聞こえた?」
「いいや。何も」
「あっれー?可笑しいなぁ」
首を傾げて疑問を抱く颯を尻目に、口許に人差し指を翳す玄姫。その指し示す意味を正確に受け止めた偲は、苦い顔をして頷く。
絶対に話さないと。
「でもなぁ…」
「はいはい。空耳はどうでもいいから颯。皆支度は出来たって?」
ぞんざいに退けられたことに不満そうな顔をするも、颯はすぐに玄姫に報告する。
「皆とっくに出来てる。あとは偲と玄姫だけだよ」
「自分はもう出来てる」
「オレもだよー…ってことは出発していいってことだね。あは、予想より早かったかな?」
一度大きく伸びをすると、玄姫は机から立ち上がった。
「じゃあ明日にでもー、ギンガ団の今の拠点に行こっか」
まるで遠足にでも行くかのような軽い物言いで告げられた突拍子もない内容に、颯は思い切り顔を引き攣らせた。
「じょ…冗談、」
「んなわけないデショ」
「…だよね。えー何。正義の味方気取りたくなったとか言わないでよね」
背中を丸めて重い空気を纏う颯に、肯定しようとしていた玄姫は余りにも嫌そうな顔をする颯の方を見ると、目線だけで止めてくる偲に仕方ないと、からかうことを止めた。
「違うよ。んー強いて言うなら個人的なストレスを発散しに行くのと、貸しをつくりに行くんだ」
「貸しぃー?何で?」
「……」
突飛過ぎる理由について行けない颯と、その理由を知っている偲。
対照的な二人の様子に可笑しくなった玄姫は笑う。
「ふふっ。これ程大きな機会は滅多にないからだよ」
そう言って楽しげに彼は笑っていた。


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