08

深く深く輪郭すら沈むほど暗い回廊に一つの靴音が響く。
電灯のない人、一人がやっと通れる道を懐中電灯片手に歩いていく玄姫。その表情は暗い陰で見えない。
ふと歩みを止めると鍵を取り出し、鉄製の扉をゆっくりと開いた。途端、地下独特のひんやりとした空気よりも尚冷たい空気が玄姫の肌を撫でる。
急激な温度差にも顔色を変えることなく、備え付けられたスイッチを見ずにつけると、一瞬後には部屋の一ヶ所だけが照らされた。
黒い箱。人間が入りそうな大きさのそれは誰もが一目見て分かる棺であった。
ただ普通の棺とは違い、蓋部分が木製ではなく硝子製であるそれは、中に入っているモノを明るみにしている。
それは少女だった。いや女性に近い少女と言った方がいいだろう。
日の光すら知らないような真っ白な肌。肩までの黒い髪。何処にでも居そうな平凡な顔立ちだが、密室であることと少女が纏う真っ白なワンピースが、彼女から不思議な雰囲気を醸し出させていた。
だが棺に入った少女は鼓動も呼吸もない人のカタチをした亡骸。
既に数年前にこの世を去った人物である。
だが少女は、その時そのままの形を保ったまま時を止めていた。
今にも動き出しそうな程、生気に満ちた肢体は温度すらなく、もう動くことはない。
普通ならば既に腐敗していても可笑しくはない時間が経過しているのに彼女の躯が崩れていないのは、玄姫が特殊な防腐処理を施している為だ。
少女のことを依頼した人物は玄姫に預けたまま未だに躯を取りにくることはない。
多分、依頼する前から彼の人は受け取るつもりはなかったのだろう。
それを証明するようにあの日から連絡が一切取れなくなった。
扉付近で止めていた足を少女の棺の横まで運ぶと玄姫は小さく微笑み持っていた真っ白なマーガレットの花を一本、硝子の蓋を置く。その花は一見本物だと思える程精巧だが、注意して見てみれば花弁や葉に植物らしい瑞々しさは感じられない。
「やぁお早う。今日からちょっと遠くへ出掛けるから挨拶をしにきたよ。だから生花は枯れちゃうから今回は造花にした。許してね」
申し訳なさそうに笑う玄姫だが、返ってくる声は当然ない。
玄姫自身、その事は分かっているが、どうしてか少女の姿を見ると声を掛けずには入られなくなる。
無駄だと知っているのに、必ず一言は言わないと部屋から出ていくのも憚れるのだ。
その理由は玄姫はきちんと知っている。彼女に対する罪悪感がそうさせるのだ。
玄姫は少女と会話したことはない。少女も生前玄姫と会話は愚か、会ったことすらない。
だが彼女と玄姫には間接的に繋がりがある。それは彼女が死に至る話にも繋がることだ。
だが少女は知らない。玄姫ともう一人以外は知らないことだった。
琥珀色の瞳を伏せ、黒い瞳を瞼の奥に閉じた少女を見つめる。何かを思い起こすように指先だけを硝子に寄せると、硬く冷たい感触が伝わった。それがまるで不可侵の結界のように思えて、意味もなく瞳を細める。
ついでたった今感傷的になったことが馬鹿らしく思えて掌を額にやった。
死者は何も言わない。ましてや触ることを赦さないなど思う筈がない。
これは紛れもなく玄姫が自身に戒めていること。
罪を忘却することを善しとしない自身が、意図して少女が赦さないなどと誤認させた愚かしい行為。自責することを放棄した故の責任転嫁。嗚呼なんて自分勝手なのだろう、と何度自嘲の形に口端を歪めたことか。幾ら謝罪の言葉を紡いだところで彼女にはもう届きはしないのに。
謝罪も懺悔も紡ぐことは赦されない。いや、誰かに言ったとしても誰もが怪訝な顔をして信用に足るかどうか疑問に思う筈だ。もしかしたら話した本人である玄姫が疑われる可能性とてある。
それ程にこの棺の少女と自分との間に起こったことは複雑で奇怪な出来事だった。
偶然によって引き起こされた彼女の死。けれど見る者が見ればそれは必然によって引き起こされた事件にも見える。
もし玄姫が彼女よりも先に出会っていれば彼女は死ぬこともなく、こんな暗く冷たい部屋に居ることもなかったかもしれない。
嗚呼けれど、と蒼白い顔をした少女の顔を見つめて玄姫は思う。
果たしてその描かれることのなかった未来は玄姫が望む結末に繋がっただろうか。少女が幸せであれば自分は笑っていられただろうか、と。
「はっ…馬鹿馬鹿しい。今更だってのに」
はっとしたように意識を覚醒させると玄姫は奥歯を強く噛み締めて額に当てていた手で前髪を無造作に掴んだ。冷や汗が背中を伝う。
仮に少女が生きたと想定してもそれはもう手に出来ない未来である。少女はもうその未来を選び取る術もない。ならば他人である自分がどうこう考えても無意味なことだ。
ならば自分は罪悪感だけを胸に生きて死に逝けばいい。本心を吐露せずに自責の念に駆られたまま終わることだけが唯一の贖罪だ。
そして、……。
罪悪感を振り切るように棺から離れると、外界へと繋がる扉へ真っ直ぐに向かう。ドアノブへ手を掛けて扉を開くと備え付けられた電灯のスイッチへと手を伸ばした。
指先が触れたところで不意にもう一度、棺に眠る少女の方へと顔を向ける。そこには変わらずに瞼を閉じたままの黒髪の少女が横たわっていた。
「絶対に…見つけるから」
重々しく言われたそれは果たして何を示すのか。
「それじゃあね、ー――。」
付け足す様に言ったその言葉は音にさえならずに空気の中へ落ちる。言った本人である玄姫にしか分からない言葉は本当に短い言葉だった。
静まり返った部屋の電気を消すとその場から玄姫は退室した。

◆◇◇

「あ。玄姫お帰りー」
「ただーいま。颯は風呂でも入ってたの?随分早いね」
時計を見ても時間は午後の四時。どんなに早くても五時半である彼がこの時間に入るのは珍しい。首に掛けてあるタオルと髪が濡れている姿を見て指摘すると、途端に不機嫌そうになる颯。
「…僕だってまだ入る予定なかったよ」
「そうなんだ」
「なのに…なのにっ」
「土で汚れたくらい別に構わないだろう」
握り拳を震わせて怒りを顕わにする颯の後ろから現れた水色の髪をした長身の男性。その後ろには鮮烈な印象を受ける赤々とした髪の男性が颯と同じくタオルで髪を乾かしていた。
二人の姿を見た玄姫が挨拶の言葉を言うよりも早く颯が口を開く。
「僕は綺麗好きなんだよ!てか普通泥だらけの姿で乗る!?せめてシャワー浴びて泥を落としてから乗って欲しいんだけどな!」
颯の言葉を聞いた玄姫は成る程と理解したように颯を見た。
確か玄姫が彼らに連絡した時刻はまだ彼らが農作業をしている最中だった。しかも颯が彼らの元へ着く頃に電話をした覚えがある。
多分、彼らは颯の到着が余りのタイミングの良さにこれ幸いとシャワーも大してシャワーも浴びずに乗り込んだのだろう。
「すまない。玄姫が自らポケギアを使って電話をしてきた上、颯が来たから緊急の招集なのかと思ってな」
「…殴っていいか?なぁ俺殴ってもいいよな?玄姫」
「ダメダメ。抑えて颯。あと口調戻ってるよー」
怒りの余り口調が変化していることにも気付かない颯に苦笑すると、慌てたように口元を片手で抑えた。どうやら余程嫌だったらしい。
「ごめんごめん。今回はオレの説明不足もあるからさ、泡遠と夏人のことは許してやってよ。許してくれたらプリン・ア・ラ・モードでも作ってあげるか…」
「仕方ないなー。じゃあ水に流すよ」
「ありがとねー」
全てを言う前に言葉を遮った颯にしたり顔で笑う玄姫に、嫌そうな顔をした夏人がチョコレート色の柔らかなソファへと身を沈める。
「買収されてっぞお前。」
「だって玄姫のお菓子美味しいんだよ?」
「敢えて乗ってやったのかよ!安いぞお前の怒りは!てかお前はコイツの料理に釣られれば大抵のこと許すだろうが!ちょっとは自分の感情を優先させろよ!」
何故か見当違いな説教を始めた夏人は颯を自分の前に座らせて、如何に自分の感情が重要なのか、怒りの使いどころなどを伝授し始めた。
泡遠がそれを眺めて和んでいるのを見て、玄姫は変わらない日常に苦笑を洩らす。
「じゃあ今日は簡単にパスタでいい?ツナスパかペペロンチーノ」
「ハンバーグがいい。半熟の目玉焼きが乗ったの」
「え?ツナスパがいい?わーい簡単ー」
「聞けよ!人が言った意見聞けよ!てかお前が聞いて来たんだろうがっ」
涙交じりになっている夏人を振り返らずに玄姫はキッチンへと入ると悪戯げに口元にへ身を浮かべる。
「ぷっくくっ…あー可笑しい。さて昨日のデミグラス残ってたっけかなぁ?」
夏人の注文を出す為に冷蔵庫を漁り始めると、てきぱきとした動作で料理をし始めた玄姫に不機嫌そうな拗ねた表情で手伝いにきた夏人が来た。
曰く。手伝うから作って欲しいとのこと。
夏人の表情と可愛らしい頼みに、再び爆笑してしまう玄姫が恥ずかしさで夏人に殴られる姿は泡遠と颯には見えていた。

これが彼らの穏やかな日常であった。


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