くすんだ灰色少女




世界は綺麗か汚いか。
世界は広いか狭いか。
世界は壊れているのか、それとも壊れていないのか。
今見ているのは夢なのか、それとも現実なのか。

もう、いまではそんなことすらわからない。

◆◆◆

色も物もほとんど存在しない場所だった。
コンクリートで囲まれたその部屋は狭く、そして冷たい。
その部屋にあるものと言えば、申し訳程度に設置された簡易のベッドと、この部屋の主である一人の少女くらいだった。
歳は十七か十八くらいだろうか。彼女と同年代の少女ならばもっと活発だろうに少女にはその言葉すら遠いものに違いない。
少女の姿は健康とはかけ離れたもので、丈夫とは言えない姿をしていた。
日に焼けていないらしく真っ白なままの肌。だが血色は良くないようで青白かった。
ワンピースのような服から覗く手足も折れてしまいそうなほど細く頼りない。髪は驚くほど白く、瞳は赤と黒が混じったような色をしている。
身動ぎもしない彼女は微かに動く胸の動きが無ければよく出来た人形か、もしくは死んでいるのではないかと疑ってしまうくらい生気が感じられなかった。
静かに息を吸って、同じくらい静かに息を吐き出す。その繰り返しをするだけで少女は他に何をするでもなくただ冷たい床に座り込んでいた。
いや違う。それ以上何も出来ないのだ。
ベッドと少女以外何も無いこの部屋では何をしようにも何も出来ない。だから当然と言えば当然なのだろう。
だがそれ以前に、少女は疲労感のあまりその場から動くことさえ出来ずにいたのだ。
少女がその部屋に居るのは研究者という存在に毎日のように人体実験を強いられている。拒否権など存在しない。そもそも存在していたら少女は此処にはいないだろう。
彼らが何をしているのかは知らない。詳細など実験道具である少女には伝えられないのだ。
けれど毎日のように実験をされていれば、嫌でも彼らが何の目的で動いているのかわかってくる。
それは少女にとっては下らなく詰まらない理由で、一般的に見れば酷く道徳からかけ離れているものだ。
少女は億劫そうに薄い瞼を少しだけ伏せる。そして体を床に横たわらせると少しだけ息を深く吐き出した。
明日も実験。明後日もその次の日もずっとずっと。
時計など置いていないから一体今がいつなのか、随分前にわからなくなってしまったけど、それでも実験は終わることなく繰り返される。
苦痛が身を蝕むことがあれば吐き気に襲われ続けることもあった。精神が参らなかった日などありはしない。いっそ殺してくれと何度も目の前にいる研究者に縋ったが、彼らは嘲るばかりで相手にはしてもくれなかった。
いっそ、自分で死ねたらと思う。淡々と此処で飼い殺されるくらいならと。
けれどまだ少女は死ぬことが出来ずにいた。
何故ならこの場所には自分を必要としてくれる存在がいるからだ。あの子の存在が唯一自分という曖昧な意識を現実に繋ぎ留めてくれる。
近づいてきた足音を感じてだるさの残る体をゆっくりとした動作で起き上がると、鍵を開ける音がした。次いで扉を開ける音がすると、どさっと何か乱暴に何かが床に落とされたして慌てて首を扉の方へ向ける。
『っ…』
苦痛に声を殺す声に反射的に駆け寄ろうと足を立たせようとしたが、疲労困憊の体は咄嗟のことについていけず、少女は足を縺れさせてその場に転倒した。
鈍い彼女の動きに扉を開けた研究者は「無様だな」と一言だけ言うとそのまま自分が落としたモノに視線さえくれずに扉を閉めて鍵を施錠する。
研究者の感情も込めない言葉にほんの一瞬だけ固まった少女だが、すぐに扉の前で倒れているだろう存在を思い出し、床を重たい体を引き摺って進んだ。
だがよくよく見るとその動きは何処かぎこちなく感じられる。暗いとは言え照明はあるのに、少女はまるで暗闇の中で歩く人のようにふらふらとしているのだ。
少女が探しているモノは彼女の目の前にあるというのに、その視線はその場所に結ばれずに頻りに前方の何処かを彷徨っている。
「杏、どこ…?」
杏、と少女が口に出したのは今まさに少女が探しているナックラーという種族の名前だ。明るい橙色に青い色の瞳をしたその生き物は、酷く弱っているとはいえ少女の前に確かに存在している。
だが少女はその存在が見えていないかのようにぺたぺたと床を触りながら杏を探し続けていた。不安そうに気遣うように小さな声で相手の名前を声に出しながら、相手の息遣いを頼りに。
やがて少女の不安そうな声に苦痛の波が治まった杏と呼ばれた彼は痛みを堪えて少女の名前を口に出す。
『、…ここだよ、サナ…俺は、こっち…』
やっと聞こえた杏の声にサナと呼ばれた少女は少しだけずれていた方向を変えて、ゆっくりとした動作で床に蹲る彼の元へ近づいていった。手探りで平たい床を触り、声を頼りに探していくとふと指先に何か温かいモノが触れる。
「杏…?」
『…お。やっと来た…?』
「…うん、ごめんね」
茶化すように笑いを滲ませて笑った杏にサナは謝罪の言葉を口にしたが、「何だそれ」と再び杏に笑われた。
サナは杏の様子にそれまで感情の感じられなかった表情に仄かに笑みを浮かべさせると、そっと指先で杏の胴体にそっと触れる。
「おかえり、杏」
優しく聞こえるように。穏やかに聞こえるように。傷に響かないように。そう努めたサナの声に杏は酷く安心した。
『…ただいま』
その心地のまま小さな声でそう返すとサナは「うん」と返答し、指先で杏の背中を撫で続ける。暫くすると杏は実験後の疲労感からか寝息を立て始めた。サナはそれが聞こえてきても撫でることを止めず、痛みが引くことを祈りながら撫でるその手はどこまでも優しくあり続けた。

束の間の安らぎであろうとも、せめて今だけは安らげるように。
言葉は交わさない。一緒に居るだけでも安心することが出来るから。だからサナは杏を撫で続ける。

サナと杏以外の皆が死んでしまった今では、もう互いが互いの存在を支えるしか出来なかった。

自分以外にもう彼を慰める存在はいない。自分にも彼以外の存在はいない。
来たばかりの頃はまだ他にも別の子がいた。彼らはポケモンだったけれど、それでも他の生きている存在があるだけでも十分、なのに彼らは次々に居なくなり今では杏だけだ。
自分以外の人間はずっと前に居なくなってしまってそれ以来は自分以外は人間は来ていないらしい。
けれどサナはもう自分と杏以外がこの場所に来なければいいと思っている。新しい子が来なければいいとさえ思った。
この部屋は寂しい。苦痛も嫌だ。誰かがくれば自分と杏の負担は格段に減るだろう。
けれどそれ以前に、もうこれ以上誰かが傍に居なくなるのは耐えられなかった。

居なくなった存在に掻き毟られるような胸の痛みを感じるのも、涙を流すのも辛くて。
抱き締めた腕の中の温度が消えていく絶望に、涙さえ凍りつくような虚脱感に、もう心を落としたくなかった。

杏の寝息が聞こえる中、涙の流し方さえ忘れた少女はいつ死ぬともしれない自分の終わりの時を思う。
そのとき、自分はどんな思いで死んでいくのだろうと、そう思いながら。

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