そして選ぶ はっとしたように目を見開いた。息を詰めて体を硬直させると、此処が何処であるか確かめようと辺りを見回す。 視界に映るのは海の底などではなく目を閉じる前に見た光景だった。そのことに安堵して体の硬直を解くと深呼吸をするために大きく息を吸う。 自棄に現実味を帯びた夢だった。肌に感じた水の感触も、彼らと一緒に居た緊張感も、やたら生々しかったように思う。 ぐっと鼻を押さえると顔を顰めた。まだ血の臭いが残っている気がする。 実際は血などない。だから気のせいでしかないのだ。けれどどうしても鉄錆びた臭気が残っている気がして手の甲で鼻を押さえた。 「…最悪…」 後味の悪すぎる夢は好きではない。特に起きた後も胸の奥に蟠りを持たせるような夢は特に。 こんな夢を見た後は決まって良くないことの前兆だったりするのだから笑えない。一体何が起こるのと言うのか。不安だ。 溜息を吐きだすと横たわっていた草むらから立ち上がる。どうやらかなりの間寝ていたらしく青空は星空に変わっていた。 傍らを見ればそこにはあの変な生き物が置いて行った水色と黄色の奇抜な色の金属がある。何の意味もなく取り敢えず指先で突いてみるとコロリと軽く動いた。 …何の変哲もないただの鉄の塊。何の温かみもないそれは直径三、四センチほどの大きさしかなく容易く掌で包み込める。 「小さいなぁ」 確かクイックボールと言っただろうか。 一見それは鉄の塊にしか見えない。だがこんなもので生き物一匹捕らえることが出来るのだと言う。 実に信じがたい話だが、ポケモンの生態系を調べに調べた結果考案されたものなのだから、おいそれと馬鹿にすることも出来ない。 勿論これだけでポケモンを完全に捕らえることは難しく、バトルをして弱らせなければいけない場合もある。 高く見積もっても八割。それが限界値だろう。 しかもそれはポケモンに多く触れ合っていて尚且つある程度トレーナーとしての実力を兼ね備えた人間を差すのであって、完全なずぶの素人である自分など当てはまるはずもない。 ボールはたった一つ。予備すらない。更に言えば自分はパートナーのポケモンすらいないのだから、捕獲に失敗した場合、身一つでどうにかしなければならない。 状況は極めて深刻だった。 唯一の幸運は、うっかり寝ていいた間に野生ポケモンに襲われなかったくらいだろう。 「こんなんじゃ、どうしようもないよ」 何も解らないのにいきなり放り出されたのだ。本当にどうしろというのか。 あのエムリットとか言う生き物にはバッチを集めろと言われたが、仮にバッチを集められたとしても家に帰れるかどうかわからない。曖昧で不確かな言葉だけでは背中を押し出す理由にはならなかった。 だが何もかもがわからない現状では、その不確かな言葉にすがるしか術はない。 本当のところまだ夢なのではないかと疑っている部分もある。それほどまでに起こった事態は突拍子もなかったのだ。 無駄に足を止めているのもまだ現状を受け止めきれていないからだったりするのだが、さてどうしようか。 このまま飢え死ぬまで待つか。 それとも足掻いてエムリットの言う通りにするか。 選べる答えは二つに一つ。どちらを選んでも苦痛だろう。 生きることを選んだとして、身分の証明が出来るものがない自分はまともな扱いを受けられない。 ならば死ぬか。二日、三日飲まず食わずでいれば人間は死ぬらしい。だが死は怖い。進んで死ぬことを選びたくはなかった。 苦しみながら生きるか苦しみながら死ぬか。 悩んだ末、やはり死ぬことは恐ろしいと思えたので生きることを選ぶ。 つまりはあのエムリットとか言う生き物の条件を飲むことだ。 正直言ってあの生き物は信用ならない。時間をあげよう、とは言ったものの殺すことを止める、とは一言も言っていなかった。つまりあちらの気が変われば自分がすぐにでも殺されるという立場は変わらない。 生きることを選択しても死ぬことを選択しても、結局はあの生き物の掌の上で踊らされているのだ。滑稽は話である。 そもそもあの生き物には不審なところしか見当たらず、最初から信用する要素は無かった。だがそれでも今生きることを放棄するのは、手間が掛からないと言ったエムリットの気に沿う気がして何となく癪な気がする。 ならば苦しくても生きた方がいい。少しでも長く。 住所が無いのならば警察か交番にでも行ってどうにか申請して貰えばいい。無理ならばそれはそれでまた考える。 取り敢えずは身分証明書無しでトレーナーになれるかどうかをポケモンセンターに行って確かめなければ。 一先ずやるべきことを定めるとよしっと一息吐いてから立ち上がる。ふと視界に入ってきたのはエムリットが置いていったクイックボールだ。 無い無い尽くしの現状で一つでも自分のモノがあるのはとても心強い。たとえそれがあのエムリットという気に食わない性格の奴が置いていったものだとしても貰えるものは貰っておきたかった。 本心と見栄と虚栄心とでぐらぐらする天秤を測ること数分。やはり誘惑には勝てずにそっとクイックボールを手に取った。 掌に収まるほど小さな冷たい金属の塊は、不思議と触るだけでささくれ立っていた自分の心を鎮めてくれる。そんな効果などないだろうが、突拍子もない事態の連続に不安定だった心には安定剤となってくれたのかもしれない。 縋るように両手で包むように軽く握りこむ。 どうか生かして欲しい、どうか帰して欲しい。誰にも言えない本心を込めるように。 暫くそのままの姿でいると、しんと静まり返る周囲の様子に気付き自分のしていた行動に恥ずかしさを感じた。感傷的になると人間はいつもとは違う行動に出たくなるようだ。 恥ずかしさを押し込めるように二度三度頬を軽く叩く。 次いで意識を切り替えるように前を向いた。取り敢えずこの森の中を出なければどうにもならない。周囲を見渡せばあるのは草むらだけ。それも背の高い草むらと、それよりも低いが自分の腰辺りまではある草むらで囲われていて見通しも悪かった。 こんな状況では行くべき方向もわからなかったが、闇雲に進むしか方法はない。 前途多難な状況に溜息を吐きたいのを堪えて、目の前にある腰丈の草むらに手を掛けた。 すると突然のことだ。凄まじい突風が自分を取り巻くように起こった。視界を塞ぐ勢いの風に何事かと腕で目を庇いながら状況を確認する。 視界が利かない中、耳だけを頼りに探していると背後で何か羽ばたくような音がした。 ドサリッとそれなりの重量があるモノが地面に降りた音がして、風圧の中、何とか後ろを振り返り背後にいる何かに視線を向ける。 風が弱まったところではっきりと見えたその姿。そこにはエムリットの仲間であろう生き物が佇んでいた。 黄緑色の肌に兎の耳かピエロの被る帽子ような耳。赤いゴーグルのようなもので目を覆い隠し、赤い縁取りがされた見たことも無い不思議な形状の翼。 ドラゴンのような爬虫類のような姿をしたそれは、だが紛れもなくポケモンと呼ばれる生き物なのだと本能で悟った。もしかしてこの生き物は自分を捕食しに来たのではないかと嫌な予想を立ててしまい一歩後ずさる。 自分よりも遥かに大きい体に思わず怖気づくも、その生き物はこちらを害してくる様子は無さそうで寧ろ不思議そうに首を傾げて見てくるだけだ。 一体何がしたいのか分からないが、見られている以上下手に逃げることは出来ない。 冷や汗を流しながら見つめ合っていると突然その生き物は声を上げた。 「…あれー?見間違えたのかな」 聞き取りやすい、よく通る男性の声。 鳴き声ではなく紛れもなく人間の言葉で、エムリット以外のポケモンも話すことが出来たのかと内心驚く。 だがそんなこちらの心情などその生き物が知るよしもなく、その生き物は首を傾げたままこちらに顔を近づけてきた。 「んー…顔も違う。でもなんか匂いが似てる気が…」 何事かを言いながら顔を近づけてくる彼は「やっぱりアイツの匂いっぽい」や「でも顔は違う」などと言っている。正直言ってこちらとしては訳が分からない。 だが逃げてしまうのも憚られて結局は固まることしか出来ずにいる。 「颯!何してるの?」 そんな微妙な空気を裂くように再び第三者の声がその場に響いた。 はっとして上を見上げるとそこには真っ黒な肌をしたドラゴンのような生き物と、その上に乗っている人影が見える。 先程の黄緑色の生き物と同じようにして降りてきたドラゴンは女性を地面に下ろすと、まるで呆れるような視線を黄緑色のドラゴンに向けた。 「ったく、突然急降下しやがって。この子供がどうしたんだ?」 「んー。なんか懐かしい匂いがしたもんだから」 「懐かしいってなんだよ」 「それがさ…オレの方もちょっと曖昧なんだけど」 黒いドラゴンも話すことが出来るのか。驚きを通り越して感心していれば先程黒いドラゴンと降りてきた女性がこちらにやってくる。 「大丈夫だった?ごめんなさい。いつもはあの子こんなことしないんだけど」 「あ、いえ…大丈夫です」 どのような表情をしたらいいか分からず取り敢えず何の害もないことを告げると彼女は安心したようにそっと微笑んだ。 それにしても、と女性に視線を向ける。目の前のいる人は綺麗な女性だ。海のような青い瞳に腰まである金髪は緩く三つ編みにしている。加えて言えば何処か危うい雰囲気を纏っていて、ドレスか何かを着せれば童話に出てくる姫にでもなれるのではないかと思えた。 今までの人生の中で間近で美しい人を見たことが無かったが、実際目にしてみると称賛の言葉も掛けられ無くなる。 ほんの少しばかり女性の容姿に気を取られていると、突然目の前に黒いドラゴンが視界の全てを覆い尽くした。 突然のことに叫ぶ暇もなく、咄嗟に目だけを見開くとドラゴンは顔を近づけてスンスンと鼻を鳴らしている。どうやら匂いを嗅いでいるらしい。 黄緑色の生き物も同様のことをしてきたことを思い出し、何か自分は異臭でも纏っているのかと思わず自分の腕の臭いを嗅ぐが、特に自分が可笑しいと思える点はなかった。 「どう?なんか似てない?それっぽくない?」 「あー…確かに。これは近いってかアイツのだな。お前よくわかったな」 「オレもそう思う。なんかね、なんとなーくそんな気がしたんだよ」 「ンだそれ…」 何事かを話し合う彼らは、彼らの中で会話を完結させているらしい。主語がはぐらかされている為わかりにくいが何処か懐かしそうにしていることだけはわかった。 主語が無くとも会話が成り立っている彼らはそれほどまでに親しい関係なのだろう。そんな彼らの関係が少々羨ましく感じると、突然ひんやりとした雰囲気が隣から感じた。 「そこの二匹?さっきから一体何のことを話しているのかしら。それよりも颯、何故いきなり降りたのかわかるように説明してくれない?」 「うっ…いやその…」 「…なんか久々に見たな…アイツが怒ってるとこ」 彼らに何事か尋ねる女性は柔らかい笑みを浮かべて小首を傾げているが、纏っている雰囲気は何故か寒々しさを感じさせる。 先程までの童話にでも出てきそうな危うい雰囲気は何処へ行ったのか。 二匹も女性の雰囲気に当てられたのかビクッと肩を跳ねさせている。互いに目を合わせて頻りにアイコンタクトを取って説明する役目を押し付け合っているようだ。 やがて気まりが悪そうな黒いドラゴンが前に出てくる。説明役は彼に決まったらしい。 「あー…その、理由は言えねぇ。颯もな」 「…どういうことかしら?」 「…悪い、とは思う。でも少しだけでいいから、コイツ家に連れてっていいか?」 「……は?」 コイツ、と黒いドラゴンが鋭い爪で指差したのは紛れもなく自分だった。 何故突然そんなことに。次から次ぎへと起こる事態にそろそろ許容量に限界を感じる。 女性もそんなことを言うドラゴンに疑問を抱いたのか眉を顰めた。 「理由は…?」 「……」 「…それも言えないのね。困ったことだわ」 「ご、ごめん。でも悪いことを企んでいる訳じゃないんだ。ただこの子と話がしたいだけなんだよ」 「そうは言ってもこの子だって困るでしょう?年頃の娘さんみたいだし知らない人間に連れてかれたら親御さんだって心配する筈よ。ここで話すのは駄目なの?」 「それは…ちょっとなぁ」 困ったような声音でこちらを見てくる黄緑色の生き物にこちらも困惑の表情を向ける。 確かにこちらとしても知り合いでも無い人物についていくのはご免被りたい。 だが連れて行きたいと言っているのが人間ではない所為か、不思議と警戒心が薄らいでいた。それは多分女性が常識的なことを言っていて、この場にはきちんとした人間がいると思っている所為もあるのだろう。 もし彼らの会話は全て演技だったとしたらとんだ食わせ者だが、こんな何も無さそうな人間一人誘拐したところで何にもならないのは分かっているので、彼らはそういった犯罪めいた存在ではない筈だ。 何となくだが彼らのことを信用していい気がした。 だから反射的にするりと自分の口から出てきた言葉は、彼らに肯定を示すものだったのだろう。 「構いませんよ」 「構わないって…そうはいかないでしょう?」 「いいえ。本当に話すだけなら時間はありますから」 困惑の表情を浮かべる女性に笑顔でそう答えるも本当は少しだけ不安だった。 エムリットに言われた期限はわからない。どれだけ自分に時間が残されているかも把握出来ない。もしかしたら一分一秒でも無駄に出来ないくらいに時間は残されていないのかもしれない。 けれど具体的な時間が示されていない所為か、不安に思うことはあれど焦る気持ちは不思議と湧いてこなかった。 それこそ、彼らの話を聞いてもいいと思えるくらいには。 「それに…私には行くところはありませんから。予定もまだ真っ白ですしね」 そう、焦る気持ちは無かったのだ。 逆に不安だけが心に渦を巻いていたけれど。 . |