突き落とされた感覚がして、足元を見れば踏み場がなくなっていた。驚いたまま目を見開き、臓腑が持ち上がった感覚が全身を包む。
自分の後ろに立っていた人物を見ようにも階段から落ちている最中では振り返るというそんな簡単なことも出来ない。
何も出来ずに自然と近付いてくるコンクリートで出来た段差と地面を見つめ続けるだけ。音が消え、視界から色が消えた。感覚だけが鋭敏に研ぎ澄まされ、風を切る音が耳障りなほど大きく聞こえる。段々とコンクリートの地面が近付いていくに連れて高速再生される記憶に苦い気持ちが沸き上がった。セピアにはならない鮮烈な記憶は忘れたくて仕方無いものばかりで決して思い出したくはなかったというのに何故今さらこんなものを。何故何故と行き場の感情がぐるぐると胸中を掻き毟る。
また一段と近くなるコンクリートの地面は鼻先三十センチ程で、受け身を取るには短すぎる距離だった。
嗚呼もう避けられないなと頭の何処かで冷静に判断する。次の瞬間視界は暗闇に包まれグシャリと生々しい音が静寂を破るように耳の奥から木霊した。
音が戻ってくると、わんわんとけたたましい雑音染みた振動が響き渡る。
まるで何かが叫ぶような声で、幾重にも重なるような不思議な音が色の消えた感覚の中で唯一不快感を煽った。
そういえばこの時間帯は人が通らない時だった。自分の間が悪いのか突き落とした人物が狙ったのかはわからないが取り敢えず、奇跡のような確率が起こらない限り助かることはないだろう。
そこまで考えるとぶつりと視界を埋め尽くしていた真っ黒な色が消えた。


◆◆◆◆◆


頭の中ががんがんとけたたましく鳴っている。反響するよう波のある痛みはまるで鐘の中に入れられて丸太で打ち付けられているようだ。頭が割れそうなほど騒がしい波は引くことはせずに頭の中を行ったり来たりを繰り返す。
いい加減にしろと言いたくとも口は愚か指先一本ですら動かないのだから手に負えない。どうしようもない状態に鬱憤だけが溜まっていく。何故こんな目に合うのかさっぱり記憶にない。
いや原因は喉元まで出かかってはいるはいるのだが、閊えたまま出てこない。正直に言えば思い出せないだけだ。
何故こんなことに、などと愚痴を溢すのも程々にどうしてこんなことになっているか唯一動かせる脳を使って考える。
そうして暫くしてから何処からか落ちたのだと記憶を引き寄せたが、何故落ちたかまでは思い出せなかった。
不意に頬にぱたぱたと何かが落ちる。水だった。何故こんなところに水がと疑問に思うが理由はわからない。仕方なく動かすのも億劫な瞼を上に押し上げた。
ぼんやりと霞む視界にはやはりぼんやりとしか景色しか映らなかったが、自分の真横に誰かがいることだけは判別出来る。
性別はわからない。けれど絶え間なく落ちてくる水はその人物からのものだと判った。
嗚咽など聞こえないが、丁度相手の目があるだろう位置から涙が零れては自分の頬に落ちるからだ。ぱたぱたと溶かすように優しい涙は、止まることなど知らないようにその人から自分に向かってくる。
相手が何故泣いているかなどわからない。ただ自分の為に泣いているのだろうことだけはわかった。涙など拭えばいいのに、それすらもしない人は可笑しなくらい動かない自分を見ている。見ず知らずの自分を見て、泣いているのだ。
それは現実的に考えて酷く可笑しなこと。他人の為に涙を流すなど普通有り得ない。況してや助けすら呼ばないとはどういうことだと思ってから、自分の状態を思い出して嗚呼と思い直す。
成る程。助けを呼ばないのは自分がもう助から一番初めは偶然で、二番目以降は全てつくられた出会い。

けれど彼らは知らない。
ソレは願っていた。二つが再び会えることを。
でも二番目は彼らとは違っていた。
ソレは戸惑い、悩んだ末に答えを出す。求めたモノが違うのならまたやり直せばいのだと。探し直せばいいのだと。

純粋な思いから生まれた残酷で無情な思いつき。

ソレを見ていた存在はソレを哀れんだ。お前が気付かない限りお前は永遠に孤独だと。やり直すことなど、もう出来ないのだと。
するとソレは自分を見ている存在を見て口元をそっと緩ませてこう言った。
全部知っててこうしているんだよ、と。


◆◆◆

寝起きでぼんやりとした視界におもむろに腕を翳す。
訳のわからない夢を見た。とても嫌な夢で、とても悲しい夢だった。

「…何なの…」

けれどそれ以上にどうしてかとても懐かしく思えたのも事実で、どうしようもなく悲しかった。

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