そして再びさよなら




暗転した視界が段々と滲むように色をつけていく。

「…う、っ?」

頭に突き刺さるような痛みを感じ呻きながら患部を抑えた。もう片方の手で地面である場所を探ればガサリとコンクロートではない感触が掌に伝わる。そのことに驚きはっきりしない意識を慌てて切り替えると辺りにはコンクリートではない草地が広がっていた。いや草だけではない。周囲を見れば木々と岩肌が剥き出しになっている。明らかに先ほどまで自分がいた住宅街ではない。

「…ここ、は?」

そうだとすると随分と現世と大差ないものだ。ずきずきと痛む頭を抑えながら周囲を見回せども見えてくるのは都会には相応しくない緑溢れる自然ばかり。では人間もいるのではないかと遠くを見るが町灯りの一つも見えなかった。

「なんか意味、わかんないや」

肌寒さを感じて腕を抱え込むとザリッと不快な感触が肌を擦る。目を見開いてから見下ろすが夜に差し掛かる時間のため上手く見えない。正体を見極めるために恐る恐るその個所に指先を這わせると布が固くぱりぱりとしている。そして微かに臭う鉄錆びた、それでいて生臭さを感じるそれに気付いた瞬間、クロエはザッと血の気を引かせた。
そう、それはクロエが刺された場所から流れ出た血だ。瞬時に思い出されるのは刺された瞬間の衝撃とその後に襲ってきた激痛と熱さ。流れていく血の量を見て確実に迫る死への恐怖だった。

「、ぁっ、う、あぁあ…っ」

悲鳴にも呻きにもならない声が口から漏れ出る。何故、どうして。確実に助かるものではなかったはずだ。それなのに何故自分は今生きているのか。あの出血で生きているなど化け物以外の何物でもない。
そう思った途端全身から血の気から引くような感覚がした。指先がとても冷たい。まるで体の奥底から干乾びていくような感覚だ。

ただ今わかるのは自分は一度死んだであろうこと。だがその刺されたであろう場所は傷口が跡形もなく消えていた。これは尋常ならざる事態が自分の身に起こったということなのだろう。

漏れ出そうになる悲鳴を必死に片手で抑え込んでその場に蹲るとクロエは必死に死ぬ前のことを思い出した。霞みそうになる記憶を手繰り寄せるように思い出せ思い出せと念じると思い浮かぶのは自分を見下ろしていた男のことだった。
そういえばあの男は霞みゆく意識の中で何かを言っていた筈。確か、そう…生かしてやろうと。

まさかあの言葉は現実に言われた言葉なのだったのか。

「は、はは…ないない。ありえない…っ」

震えそうになる体を抑えつけてたった今考えたことを否定する。自分は死んだのだ。死ぬ寸前にやっと自分の本心に気付き、生きたいと望んでいた本音を知った。けれどそれは何もかもが手遅れだったのだ。だからきっとここは彼岸の世。現実味に溢れているのはそういう場所だから。死んだあとの記憶なんて誰しも持っている筈がない。
クロエ支離滅裂な思考は自分の精神を保たせるように同じことを繰り返す。その本心は自分は化け物ではないという確証が欲しかった故に行われていた。
そうでなければならない、という強い思いは彼が自分の身に起こったことを理解している所為なのだろう。

体の震えが止まらない。恐怖か不安か。そのどちらの感情も理由なのか。気温は寒くもないのに体の全てが異様に冷たく感じられる。
怖くてたまらない。背筋をなぞるような気味の悪い寒さが落ちていく感覚が嫌に生々しく感じられた。

訳が、分からない。いや本当はわかっていた。けれどどうしても目の前に行ったことを理解したくなくて考えることを拒絶してしまう。
自分は死んだ。確かに死んだ筈だ。死ぬ直前になって生きたいと足掻きながら死んだ。生きている筈がない。

だが、それならば何故今自分は此処にいるのだろうか。

「…、……」

ふと視線を自分の胸元にやる。何かの液体が掛かってパリパリに乾いた服は無理矢理鋭いものを捩じ込まれたかのように穴が空いていた。それならば服の下にある肌も傷がある筈だ。
だが触れたそこは生々しい感触などない。それどころか痛みすら感じないのだ。

「し、…んで…ない…?」

傷が癒えていた。致命傷の傷が跡形もなっている。つまりそれは生きているということだ。

じわじわとその事実が頭に染み渡るに連れて胸の奥から言い表し難いモノが込み上げてくる。比例するように熱を持っていく眼球。眼球が零れないように下に視線をやり、口元に手を当てて俯くも、堪えきれなかったそれはぽとりポトリと落ちてしまった。
生きている。生きてる。…生きてるんだ。それは喜びか悲しみか、はてまた生きてしまっている現実に対しての口惜しさかクロエには解らない。しかし言い表し難い感情は空っぽになりかけた胸の内を駆け巡っていた。止まらない涙と嗚咽が静まり返る森に密やかに響くも誰として咎める者はいない。

数分後、不意に何かの足音が聞こえた気がして泣き腫らした顔を強張らせた。こんな森だ。もしかすると野犬や猪、いや熊がいる可能性があった。その考えを今の今まで失念していた自分に悔いを感じつつ振り返る。
するとそこには異様な形をした何かがいた。熊ではない。猪という大きさも優に越えている。犬か狼のような肢体だが頭には童話に出てくる鬼のような長い角が二本伸びていた。間違いなく、自分の知っている生き物ではない。
爛々と赤く光る目が不気味な色を湛えてこちらに向けられている。口元は犬歯を剥き出しにして唸り声を上げていた。それは紛れもない敵意、もしくは殺意が込められている。

「……、…っ」

危険を感知した本能が嫌というほど逃げろと訴えてくるが、両手足は動くことをしない。視線を反らしたくとも赤い色に見入られたように外すことが出来なかった。
どくどくと頭の中を巡る心臓の音が煩わしくて堪らない。心臓が有り得ないほどの緊張で動いていて段々と呼吸が浅くなる。そして何度目か、はっと息を吸った瞬間、突然息がしずらくなった。次いでに言えば視界も代わり木の葉の間から煌々と輝く星が見えていた。
何で星が、と口を開こうとした時、喉元が焼けるような傷みを発する。驚いて目を見開くと、自分の首に鋭い牙を突き立てるあの生き物が目に入った。どうやら息をする束の間の一瞬で襲ってきたらしい。

「ぁ、がっ」

その事に益々驚くと同時にメキッと嫌な音を立てて首骨が軋む。あの生き物が噛みつく力を強くしたようだ。
ゴポリッと嫌な音を立てて首と口から血が噴き出す。ポタポタと落ちていた血が時間が経つに連れて量が多くなっていった。
どうやら自分は今度こそ死ぬらしい。口一杯に広がる鉄錆びた味が死という現実を嫌に現実を知らしめていた。
ぶつりブツリと徐々に途切れていく視界が、終わりをカウントしている。
獣が唸った。ほぼ使い物にならない目玉を動かし、自分を殺すのはどんな獣なのかもう一度見ようと最後に視線を動かすと、思わず目を見開く。
獣は泣いていた。同時に何処か遠くを睨み付けている。
憎悪。悲哀。切望。絶望。渇望。そして後悔と諦観。負という感情に込められた数多の思いはとてつもない悲痛さを孕んでいるように思えた。加害者であるののはそっちなのに何故そんなにも苦しそうな表情をしているのかクロエには解らない。

そして終に真っ黒になった視界を最期に、泣きながら自分の首を噛み砕く生き物の声を聞いた。

『人間なんか、お前なんか…いなくなればいい…っ』

聞こえた声はやはり遣る瀬無さそうだった。
苦しいのは自分とて同じで、今助けて欲しいのは自分の方であるのに、クロエはどうしてかこの獣が哀れに思えてくる。
ぼろぼろと零れていく涙は激痛だったのに、最後の最期に流した涙だけは別の意味を孕んで地面に落ちた。

嗚呼、きっとこれは…。思い当たる感情の名を口に出来ないまま、ぐらりと傾いた体は背後にあった草むらに力無く倒れこむ。

けれど倒れた先に地面の硬い感触はなく、感じたのは内臓が浮くような浮遊感で。

視覚を失った意識は再び闇に沈んだ。



.






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -