03




一体何が起こったのか理解出来ず衝撃を受けた部分を確かめるように手で抑えると生々しい感触が掌に伝わる。布を水で濡らしたような手触りに近い。いや寧ろ水よりも粘着力のある液体で濡れたような感触だ。嗚呼刺されたのか、と気付いたのは何度か指先に付着したそれを何度か撫でてからだった。

何をされたか気付いた途端膝の力が抜ける。地面に膝をつかないように意識しようにも体は既に言うことを利かなかった。ふらりとよろけると背中に冷たく硬い壁の感触が伝わる。それに背中を預けるとずるずると地面に座り込んだ。
気だるさを感じて深く息を吐き出すと刺された場所から激痛が襲う。痛みに呻こうとすると何かが喉奥からこみ上げてきた。片手を口元に宛がうも衝動は治まらず、強い咳と共に吐き出すとゴポリと出てくるそれは刺された胸元から出てきたものと全く同じモノだった。

「ぐ…か…っげほ!ゴホ…ッ!」

何度か咳をするも咳き込む度に口の中には鉄錆びた嫌な味が広がる。
吐き出したモノで血塗れになる衣服を見て酷い状態だと内心己を嘲笑った。自分だけがどうしてこんな目に合うのかなどとは思わない。

寧ろ自分は幸福だ。父は死に母は自分が幼く遠い日に亡くなった。頼りになる人間はいない。どうしようもない現実に泣き出して逃げ出したが、逃げ出したところで何処にも逃げ場などなかった。ただ自分が孤独であることを知らしめてしまっただけだ。
逃げた先に幸福などありはしないのに逃げ出して、結果見知らぬ誰かに刺されてしまった。夥しい血が流れているがどれだけ血が流れてしまえばいいのか全くわからない。だが自分の体だなのだからこの傷では助かることはないことだけは感覚で理解出来た。

「(踏んだり蹴ったり…なんか災厄が一気に来た気分だな…)」

朦朧とした意識の中、口元を抑えていた手が腕から力が抜けると共に地面に落ちる。

今日は自分の命日であると同時に人生で最も最悪な日だった。だが父の葬式の日に死を迎えることが出来るなどその最悪を零に戻すくらいには幸福だ。幸福、なのだろうと思う。幸福でなければならない。そう思わなければ、自分を保っていられなかった。

「…っ……ぁ、」

刺された衝撃で止まっていた涙が再び溢れ出す。

違う。怖かった。本当はまだ死にたくなんてない。本当はまだ生きていたい。確かに父を失った。確かに大切なモノを失った。だけどこの痛みをいつか過去の感傷として振り返られるほど長く長く生きていたい。
今ほど神様に祈ったことはない。まだ生きていたい。死ぬわけにはいかない。

けれどそう思った時には何もかもが全て遅かった。
誰かと声にならない叫びが口の中で弾けて消える。助けを求める為に伸ばす筈だった腕はぴくりとも動かない。息は浅く、息継ぎをする間隔も狭まっている。視界はとうに光を映さず死という暗闇だけを脳に伝える。
もう何もかもが遅かった。

伝う涙が地面に幾つも落ちる。もう駄目なのかと思った瞬間何かが近づく気配がした。
そういえばまだ先ほど自分を刺した人間が居たな、と擦れる意識で思っていると耳元で声が囁かれる。

「…生きたいか?」
「…、?」

それはまるで何もかもを沈めるような深い声だった。たとえるならばそう、まるで底の見えない海のような。視覚も失っているのに聴覚だけは生きていることを不思議に思っていると再び声がする。

「終わりたくないのか?そこまで絶望していたのに」
「……」
「お前を理解してくれる人間などもう何処を探してもそこにはいないのだぞ…それでも生きたいのか?」

刺した本人だというのに刺した相手のことを気遣うのか、と思いながらも確かにこの声の言っていることはある意味的を射ていると思う。
無償の愛をくれる相手はいない。無償の愛情を向けられる存在はいない。
けれど死を間近にした時、自分の本心を見てしまった。もう目を背けることは出来ない。

「…、ーーーー……」

空気が擦れる音がした。必死に口を動かすとふっと空気が震え相手が笑ったことが伝わる。

「…わかった…ならばお前には永劫の苦痛と共に生きる権利をやろう。…お前を生かそう」
「……、」

嘲笑うような声はそう言うとすっと離れて行く。蔑むような声音だったが、それには何処か悲しみを帯びているような気がした。

それを感じ取りながらも安堵した気持ちが強い自分はつい笑ってしまう。
この傷では助からないことは自分でもわかっていた。けれどそれでも尚この人物は嘘を吐いてくれたのだ。自分を刺した憎い相手だが、それでも誰もいないこの場所では唯一の人間だった。

けれど素直に礼を言うのは癪に思い、捻くれた言葉を与えてやりたいと思うのは可笑しいことだろうか。考えようにも血が足りなくて考えられる脳がない。

せめてもの反抗心で精一杯の皮肉を込めて「ありがとう」と口を動かした。唇の動きを見たのか、相手から驚く気配がする。驚いた相手の様子を感じ取るとしてやったりな心地に浸ったところでふつりと意識は途絶えた。

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