02




心臓が痛くなるほど走っていた。息はとっくの昔に切れていたけどそれでも足を止めることはしたくなかった。じんわりと熱くなる目元を振り切るように必死に込み上げるものを押し下げて何度も喉を嚥下する。

「…っなんで、…どうしてっ…!!」

わかってしまった。どうしても気付きたくなかったことに気付いてしまったのだ。父はもう戻ってこない。これは紛れもない現実なのだと理解してしまった。
そう思った瞬間、いてもたってもいられなくなった自分は葬式会場を飛び出していたのだ。自制心などとうの昔に振り切ってしまっている。
泣き出したい感情が叫んでいた。日常を父を返せと。今まで過ごしていた記憶を振り返れば振り返るほど渇望する。声が出なくなるほど望んで喉が痛くなるほど叫びだしたくなった。だけどそんなことをしても何も得られはしないと、何も返ってこないと父親の死を理解したと同時に痛いほどわかってしまった。
何処にもぶつけられない感情が蓋をしている喉を焼くように痛めつける。心臓がこの痛みを出せと叫ぶように脈打った。

それに気付かないふりをするために走り出した。喉が痛いのは走り過ぎた所為だと心臓が痛いのはいきなり走り出した所為だと、目元が熱いのは息が出来なくて苦しい所為だと嘯くために。
そんなことをしても気付いてしまったからには無駄なことなのに、今はそんな無駄な抵抗をしたくてたまらかなかった。現実を理解している自分を否定したい。たったそれだけのために走る。だけど思い出されるのは思い出ばかりで、余計に吐いている嘘が苦しくなった。

『クロエ…ごめん。料理焦げちゃったよ』

これは嘘だと誰か言ってくれないだろうか。もしかしたらこのまま家に帰れば黒い服を着た人たちじゃなくて父親が自分の帰りを待っていてくれるのかもしれない。
信じたくない思いが溢れて溢れて視界を埋めていく。だが鮮やかに思い出せる記憶は今ある現実は否定してくれない。
走り続けて限界が来た足ががくりと力を失う。咄嗟に傍にあった壁に手をつくと転倒するのを防いだ。浅い呼吸をすると喉が詰まったような気がしてゴホゴホと何度か咳をする。治まらない心臓の動悸を抑えて咳をし続けていると、自分の手が見えないほど辺りが暗くなっていることに気付いた。
陽は完全に沈み辺りは暗闇に染まっている。飛び出してきてから大分時間が経ってしまったらしい。何もかもがいつも通りに過ぎていく。

「(変わらない…全然、普通だ。なんで普通なんだろう…)」

突然いつも通りに迎えた夜がどうしてか虚しくて仕方がなくなった。日常の一部を失ってしまった自分と何も欠けていない、変わらない日常を送った陽。たった数日で失った自分とこの数日も何も変わらない太陽。
太陽は普通に過ぎていくのに父だけが止まってしまった。太陽はここにあって日常を告げるのに父にはもうその日常がない。

そのことがどうしようもなく理不尽だと思えて悲しくなった。全てに平等であるが故に
不平等に感じられる日常が可笑しいと思える。そう思う自分こそが理不尽など思いはしても一度湧き上がった感情が父を奪った世界に理不尽を言って何が悪いのだと訴えてきた。
自分を孤独にさせた世界を恨んで何が悪いのだと、自分から日常を取り上げた世界を罵倒して当然なのだと言い聞かせてくるように声もなく泣き叫ぶ自分。込み上げた感情を抑え込むように強く瞼を閉じる。
けれど無理矢理に押し込めようとするほど逆に溢れかえる感情は心に冷たく突き刺さった。たった独りになった自分はこれからどうやって生きていけばいいのか。欠けた部分を埋める方法など自分は知らない。背けることの出来ない喪失感をどうすればいいというのだろう。
不安と孤独、憎悪と虚無。突然突き付けられた現実。拒絶したいほどに辛いものばかりのそれらは、けれど決して逃げることを許してはくれない。

堪え切れなくなった涙がボロッと目から零れ落ちた。
声は出ない。ただ静かに目から涙だけが地面に向かって落下していく。
返してくれ、と誰にでもなく声もなく呟くも聞き止める者などその場にはいない。

頬に幾筋も伝う涙がどれほど零れたかわからない。ただ零れるままに流れるままに落としていく涙をそのままにして茫然としていた。
何かをする気力もなくて空を見つめているとふと誰かがこちらに近づいてくる音がする。ジャリジャリと地面を一定の間隔で歩く音に瞼を震わせ目を動かす。巡回している警察官だろうかと上手く動かない頭で考えるとぼやけていた焦点を合わせた。

ついで思わぬことに内心驚く。その人物は自分のすぐ近くに来ていた。真っ黒な服装に深く被ったキャスケット。両手はポケットに入っている。如何にも怪しい風体をした人物だった。だが泣きすぎて疲れた体は動く気にはならずぼんやりとしたままその人物を見ている。
危険信号を発することすらしない頭にどうしたものかと思っていると不意にその人物が腕を動かした。ポケットから何か取り出す。だがそれは影になっていて輪郭が見えない。黒い人物が歩いてくるがまだ見えず、自分の体も動かなかった。一歩、また一歩と近づくが体は逃げる体勢すら取れなかった。
そして真っ黒な人物が自分の目の前に来た時、丁度道路に設置された電灯に照らされた。そしてそれが鋭いナイフのような形をしているのだと気付いた時、心臓辺りに今まで感じたことのない強い衝撃を感じる。

「……」
「…っ?」

目を見開いたつもりだったが何故か視界は暗く、目の前にいる人物の顔すらぼやけてよく見えなかった。


.






「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -