雨上がりに終幕を。




知らなかったなど今さら言い訳にもならない。だってわたしは本当は知っていたのだから。

それこそ全てのことを。知らなかったのではなくただ忘れていただけで、消してしまっていた訳ではない。
自責から逃れるために、呵責に耐えかねて全てを投げ出していただけ。
自分が撒いた火種を撒くだけ撒いて置いて捨てて置くなんて何と罪深いのだろう。

後から後から伝う涙は終わることを知らないかのように頬を滑り落ちた。するりと頬を撫でて伝う涙の筋を指先で逆に撫でる。撫でられたお陰で一度途絶えた筋は、また流された涙で同じ筋を頬につくった。

この涙は流していいものではない。自分が苦痛だと感じたモノから逃げた証拠でしかないのだから。頭ではわかっている。だというのに、何故止まってくれない。

苛立ちから目元にグッと爪を立てるとブツっと鈍い音が立てられた。次いで流れたのは透明な滴ではなく赤い色をした血。
浅い傷口から流れ出たソレは、まるで涙の跡を隠すかのように音もなく頬を流れ落ちていく。
ぽたりぽたりと乾いた地面に落ちては赤黒い色が染みていき、綺麗ではない斑模様が出来た。

呆然とその様子を見ていると突然力強い何かに手首を掴まれた。

「なにを…っ、何をしてるんだよ…」

抵抗する気力もなくされるがままにされていると、突然大きな声が私を正気づかせる。ゆるゆると項垂れていた首を持ち上げ視線を上げれば目に入ってきたのは透明度の高い金色だった。
金属のように鈍い色ではなく、稲穂のような柔らかみの無い金の色。まるで真っ白に照らす月を融かした蜂蜜で色付けしたような不思議な色。

苦痛に歪められた表情だというのに端整な顔立ちは損なわれない。
まるでその人自身を現すかのような容姿は今となってはとても眩しかった。胸が痛いほどに。見れば見るほど苦しくなり、切なさと罪悪感を与えてくる。

見ることに耐えかねて再び顔を俯かせると、ぐっと唇を噛み締めた。そして泣くなと胸の内で呟く。
泣くことなど赦されない。泣いたとしても赦されないのだ。自分はそれほどのことを彼にした。けれど涙は止まることを知らないかのようにぽつぽつと落ちていく。赤い血と混じり合って濁った色になって。

「まだ…泣くんだね。君はいつもそうだ。」

完全に顔を俯かせた自分に容赦なく降りかかる声は淡々としていた。何の感情も孕ませず有りのままの事実を目の当たりにしてきた彼は、きっと心底呆れているに違いない。
無意味になされる行為を彼はずっとずっと繰り返し見させられてきたのだから。

声も上げることもせずにひたすら泣いていると彼は諦めたかのように小さく嘆息し、こちらに向けていた視線を外した。

「で?君はどうなの?この真実を知った可哀想な被害者のー--君」
「…何が言いたい?」

外された視線が次に矛先を向けたのは金色の瞳を持つ一人の青年。皮肉を持って投げ掛けられた言葉に反応した彼は冷たい視線を彼に向けた。
敵意さえ抱いているような瞳は感情の高ぶりに反応して僅かにその彩度を上げ、鮮やかなものにしている。

「何が言いたいって?それこそ可笑しな話だ。今の今までの話しを聞いていただろう。それを含めた全てに対して君はどうしたいのか聞いているんだよ」

嘲りさえ滲ませるような声音は聞く者の神経を昂ぶらせるようだった。
沈黙を貫くー--に彼は更に声を重ねる。今度は声音さえ変えた。

「あぁ…もしかして具体的に言わないとわからない?仕方ないなぁ。じゃあもっと詳しく言ってあげようか」
「悪いけど…黙ってくれないか。今とても気が立っているんだ」

這うような声音でー--が止める。しかし彼はそれが聞こえなかったかのように口を開い続けた。言い聞かせるように柔らかくなった声は聞き分けのない子供に易しく説明する親のようだ。

大切だと思っていた存在が実は誰よりも加害者だった。それは変えようのない裏切り。感情のままに怒りをぶつけようと拳を振るおうと君は赦される立場だ。
今の今まで道徳すら無視され、ひたすら立場を否定されてきた君にはその感情を持つ資格がある。

「背徳なんて持つ必要はない。これは『正当』な権利なんだから」

憎悪を晴らすも良い。罵倒するもいい。

「君が掴んでいるソレはそんな存在だよ。」

まるで歌うように言われる言葉は麻薬のようだ。
けれど彼の言うことは正しい。否定のしようもなかった。
いや違う。否定など出来る筈がないのだ。

手首を掴まれている力が一層強くなった。
嗚呼もしかしたら黒斗も彼の言う通りだと思ったのかもしれない。誰であってもー--の立場にいたならそう思うだろう。

貶められたら憎い。裏切られたら恨めしく思う。
負は負の感情しか生まない。
負は正の感情など与えることなど出来ない。真逆の存在は平行線のまま。決して交わることはない。

殴られても疎まれても仕方のないことだ。これは罰なのだから。
固く瞼を瞑る。だがそこでふと疑問が湧いた。
嗚呼でも、彼にそんなことをさせてもいいのだろうか、という純粋な疑問だ。
これはあくまで自分が引き起こした問題で彼はただの被害者。故に自分が彼に憎悪されることは構わない。それは当然のことだから。
けれど憎悪という感情を凶器に自分を彼に傷つけさせることは、彼をこちら側に連れてきてしまう切っ掛けになってしまうのではないだろうか。
そう思ってしまった瞬間、恐ろしいほどの絶望が心を震わせた。これまでも不必要に彼を傷つけたというのに、今まで以上に深い傷をつけることになるのか。
覚悟をした自分でさえ誰かを害した時は立ち上がれないほど強い衝撃を受けたのに、覚悟もないままの彼に…既に傷だらけの彼に、させていいのだろうか。

視線を動かす。視界に入ったのはエムリットとエムリットの言葉によって揺らぐ彼の後姿。その瞳はとても苦しそうで、見ていられなかった。

これ以上彼を、彼と彼女を傷つけることだけはしたくない。そう思った。
ならばどうすればいいのか。簡単だ。誰の手も汚さずにするには自分の手で自分の幕を下ろせばいい。
自分勝手な考えだ。自己満足の塊の私は、結局自分さえ良ければ他人などどうでもいいのだろう。

「…俺が、それを望むと思っているとでも?」
「へぇ…じゃあ君は恨んでいないってこと?自分を陥れたこの子をさ」
「全く恨んでいないと言えば嘘になる。けど…俺が今何をしようと今までの時間が取り戻される訳でもないんだろう?」

だから彼らの会話を聞いても決意は変わらなかった。遠回しに加害者である人間を受け入れてくれる彼の言葉はとても嬉しかったけれど、彼に許されるどうしても自分が許せなくて、彼の言葉を聞かなかったことにした。
自分本位な考えで誰かが傷つくこともあるのだということを私は知っていた筈なのに、敢えてこの選択を選んだ。そのことに後悔は幾度もしたけれどもう止まることは出来ない。
それこそ私が死ぬまで。

助けたい人たちを沢山傷つけた。守ろうと決めた筈のモノもとっくの昔に壊れてしまった。ではもう何が残っているのだろう。

「そう。なら『彼女』のためにやってあげれば?彼女だって被害者だ。君も見ただろう。彼女が壊れてゆく様を…壊れた瞬間を。彼女をそんな目に遭わせた誰だろうねぇ?彼女が知ったらきっと復讐するんじゃないかなぁ?」

『彼女』と『彼』、後は…ぽつぽつと浮かぶ顔と姿。そして、最期の彼女の表情だけ。他のことを思い出そうにも結局そのことしか浮かばなかった。
親切にしてくれた人たちは沢山いた筈なのに、本当に大事なモノだと思っていること以外は思い出せもしないなんて、自分はなんと酷い人間なのだろう。

耳元で風が唸る。まるで追い立てるようにごうごうと鼓膜を揺らした。
意識の何処かで早くしなければと声がする。

「いや。アイツはそんなことしないよ。望んでもないさ」
「何故?そんなこと言い切れない癖に」

ゆらゆらと景色が揺れていた。霞む視界には先のない崖が見えている。

「しないさ。だって、アイツは最期までコイツが幸せになることを望んでたんだから」
「…あっははは!何それ。綺麗事?そんなの君の予想…いや妄想に過ぎないじゃない」
「違うさ」
「違う?何が違うって?」

悪いのは自分だけなのに。優しい彼に私を傷つけさせていい訳がない。彼は自分よりも他人が傷つくことを厭うような性格なのだから。だから早く早くと自分の中で何かが急き立てる。

早くあの崖へ走れ、あの崖へと幾つもの声が頭の中で輪唱して、もうそれ以外の何の声も聞こえない。近くで響く声は雑音に、さざめく木の葉は騒音でしかなかった。

「お前だってわかるだろう?いや違うな。お前だからこそわかる筈だよ。心の読めるお前ならね」
「……」
「人間、一度顔を見ればわかるさ。伊達に無駄に生きてきたわけじゃない」

浅く息を吸ってもう一度唇を噛み締めた。鉄錆びた血の味が口の中に広がる。
さぁもう覚悟は出来た。あとは自分を再度振るい立たせるだけ。
息を殺そう。気配を殺そう。声を殺して、心も殺そう。大丈夫。もう全部受け止められるから。

「それに、何があっても…俺が止める。今度こそね」
「ははっ馬鹿みたーい」
「そうかも、…っ!?」
「…なっ!?」

隙だらけだったことを良いことに掴まれていた腕を力強く振り払うと、私はその場から駆けだした。目指すのはたった一つ。

私が何をしようとしているのかわかったのか、二人が急いで追いかけてくる気配がした。けれどわたしは止まらない。

「…っ!ー--、止まれ!!」
「またっ、」

エムリットの声が聞こえた。

「まだ君はまた逃げる気なの!?」

嗚呼とても胸に突き刺さる言葉だ。
けど、そうだよ。わたしは全てから逃げる為に逃げるんだ。
彼の為と言いながら本当は自分が傷つきたくなくて逃げているだけ。彼女の為と嘯いて自分の都合で全てを滅茶苦茶にしたように。

「止まれ!!…っ頼むから、止まれよ!」

泣き出しそうな彼の声音が聞こえた。困った。泣かせるつもりなどなかったのに。
だけど心の何処かではこんな自分に対しても彼は泣いてしまうだろうな、と思っていたからそれすらも計算の内だったのかもしれない。

嗚呼なんて汚い。

罪悪感を抱え、苦い気持ちでダンッと一際強く大地を蹴る。走り抜けた先に、もう大地などなかった。
次いで体に襲うのは浮遊感。ほんの一瞬だけ向けることの出来た視線の先には焦燥と絶望の色を宿した二人の姿。

「(…そんなかお、することないのに)」

あくまで彼らは優しかった。こんなわたしにさえも、優しかった。口端に笑みが宿る。

どうか、彼らが幸せであれますように。

過ぎた願いを胸の内で呟き終わると同時に全身に苦しいほどの風圧が襲ってきた。

「ッー-----------……-ッ!!」

青い空に懐かしい名前が響き渡る。
確かに聞き取れたその名前はかつてわたしが捨てたものだというのに、君は覚えていてくれていたんだね。
閉じた瞼の裏に浮かぶのは、何よりも幸せであった頃の三人の姿で。

死に逝く時まで幸せな記憶に抱かれて逝けるのだ。
これ以上嬉しいことは無い。咎を負っているけれど。どうしようもない罪人だけれど。
最低な罪人だというのに、赦されることなどないというのにわたしは身に余るほどの幸福を貰えた。

「…―――…」

もう、これ以上は望まないよ。


(ほら、やっと雨が止んだ。)


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