欠陥品の残響


ぼやける視界に滲み出る赤い液体。
昨日の夜に降った雨で濡れた土は既に乾いていたのに、己から出た赤い体液で再びじわりじわりと色を変えていく。
その色が嫌で堪らなくて今すぐにでも拭い去りたい衝動に駆られるも、腕は愚か指先一本でさえ動かすことは敵わなかった。
自分の思う通りに動かぬことのもどかしさにあえぎながら体中に走る鈍痛が気力までを奪って行く。
けれど死ねないと思った。ここで死ぬことは赦されない。自分は約束がある。裏切ることは出来ない約束をしてしまった。
だからこそ生きたい。ただひたすら生への慕情が途切れそうになる意識を痛みに向けている。
約束したのだ。自分は何としても生きる。生きて、生きて生き抜くのだと。
脳裏に浮かぶのは本当の兄のように優しく接してくれた存在。
里から出る最後の最後まで不器用な自分に温かな感情を向けてくれた、そして自分の所為で里から出ることになってしまった彼の方。
『絶対にまたここに戻ってくる。』
温かな言葉に
言い残して人間と共に去ってしまった彼の存在を惜しみ、そして原因をつくった存在を疎ましく思った。
どうしてお前が。なんで消えたのがお前じゃない。消えればいい。平然とした顔をするな。恥を知れ。お前など要らない。
多くの罵詈罵倒がこの身に降り注いだ。
けれどそれは当然のことだと思ったからこそ何も言わなかった。自分の所為で誰よりも大切な人が消えてしまったのは変えようのない真実だったから、当然の報いなのだと思い込んだ。
これは、贖罪。これは、罰。
親しかった友に牙を向けられても、彼を好いていた存在に殴られても逃げてはならない。
そう思っていたけど、向けられる侮蔑と嫌悪の視線が恐ろしかった訳ではない。寧ろ震えあがるほど恐ろしかった。
朝日が昇ると同時に始まる終わりのない暴力と罵倒に不安と恐怖心で押し潰されそうにもなった。
一日、二日、三日…日が過ぎれば過ぎる程、悲鳴を押し殺すのも痛みを堪えるのも慣れてくる。
一週間、二週間、三週間…週が終われば終わるほど枯渇していく心が温かさに飢えていくようになった。だからそんなモノ求めぬように自分の心を貪り喰らう日が続く。
一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月…月が増せば増すほど罵倒の痛みに疼いた心が麻痺していった。もう涙の流し方さえ忘れていた。
春が過ぎて夏が来た。だけど暴力は当然の如く降り注ぐ。
夏が過ぎて秋が来た。だけど詰る声は変わらず浴びせられた。
秋が過ぎて冬が来た。だけど侮蔑と嫌悪は相変わらず向けられた。
冬が過ぎてまた春が来た。だけど芽吹いたのは愛でる花ではなく、雪よりも冷たい負の感情。
春の訪れに喜ぶ里の皆が妬ましくもあったけれど、もう無駄なのだと諦めるようになったのはこの時だった。
そんな日が幾度も来て、そんな年が幾度も過ぎて、今日という日が来た。
忌々しい存在に耐えかねた者たちの数人が遂に#クロト#を殺そうと武力で襲って来たのだ。
襲ってきた者たちの形相を見た瞬間に危機感を感じた#クロト#は反射的に外へと身を躍らせた。
足を牙で貫かれようと鋭い爪で四肢を抉られようとただ逃げ続ける。
体中から血が流れ出ようと、汗で張り付いた髪が鬱陶しくなろうとも逃げようと必死に縺れる足を動かし続けた。
そして崖に追い詰められ、息を乱しながら周囲に逃げ道が無いかと探っていた時にぐらりと視界が揺れたのだ。
あ。と思った時には既に遅くて、深い深い緑茂る奈落の底に体は落ちていき、ぐしゃりと嫌な音を立てて地面に着いた。
走って走って逃げ続けた結果がこれとは、我ながらなんて最低な終わり方なのだろう。
ふっと黒がちらつく視界に淡い薄紅色が見えた。眼球だけを何とか動かして見ると、そこには春にだけその身を晒す花があった。
『これはね。桜っていうのよ』
愛らしい微笑みで告げた女性の顔は死んだ筈の母。瞠目して見るとこちらを見ていた女性はふっとその姿を消した。
だからこそ今見たものが幻覚なのだと理解してしまう。

だってその母はもう…自分の所為で里人から嫌われて、そして周囲の侮蔑に耐えきれず自ら命を絶ってしまったのだから。
「(…最期の最後に、後悔ばっかり、)」
死ぬ寸前まで自分を追い詰めることをするなんて何て悲しい性なのだろう。
流れる血さえもう滑稽にしか映らない。
せめて最期くらいは幸せな記憶で終わりたかった。不意に視界が暗くなるとぷつりと意識が切れる。

青年が息絶えると同時に咲いたばかりの桜の花が一枚、地面に落ちた。

まるで自分の最期でさえ涙を零さなかった存在の代わりに、涙を零すかのように。

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