02


空よりも広い場所なんて幾らでもある。
人間が行き着くことの出来ない場所があればあるほど、比例して増えていく筈だ。

「例えば宇宙とかさ。果てがあるかわかりゃしないじゃない?」

クスクスと楽しげに話す隣の人間は淡い紫色のストールを弄びながら、チラリと視線をこちらに向ける。
それに敢えて嫌そうな顔をすると、逃れるように持っていたカフェオレを見下ろすと、残り少ない量をぐいっと飲んだ。

蠱惑的な視線。見られた者に不規則な脈拍を取らせる力に何人の人間が犠牲になったことか。
本人がその仕草をわかってやっていることを知っている連中は、毒にしか思えない視線を大抵うんざりとした表情で流すが、通りすがりの人間には強力すぎる。

「(ってまた犠牲が…)」

ふと視線を上げれば頬を上気させている可愛らしい女性がこちらを見ていた。
いや正しくは自分の隣の人間を見ているのだろう。
可哀想に、視線に当てられてしまったのだろう彼女は彼氏の呼び声にも気付かずにどこか恍惚とした面持ちで此方を見ていた。
彼女の視線に気付いた奴と言えば、笑顔で手を振って愛想を振り撒いている。
本人はただのサービスだと言っていたが、勘違いされかねない行動は切実に止めて欲しい。
被害は本人だけでなく周りも被るのだから。
隣の人間への沸々と沸き上がる感情を抑えながら持っていたカップをソーサーに戻し、睨み付けるようにこちらを見てくる男性をちらりと見やる。

「どうすんだよ。彼女の彼氏らしき奴がめっちゃコッチ見てんぞ」

苦い気持ちを嚥下出来ないまま吐き出すと、吐き出された本人は何も気に止める様子は見せずに、変わらぬ表情のままアイスティーのストローを掻き回した。
しばらく瑞々しいレモンの実を潰していた隣の人間は、不意にその手を止めてストローを離すと頬杖をつく。

「馬鹿だねぇ…マ・サ・は。」
「はぁ?」

唐突に馬鹿呼ばわりされて怒りを顕にすると何故か更に鼻で笑われた。
それに益々機嫌を悪くさせると、ソレはさも可笑しいと言わんばかりにクツクツ喉を震わせる。
一体なんだと睨み付けてやれば、軽く手を振ってきた。

「そんなにいきり立たない。短気は損気よ?」
「いきなり喧嘩売られれば誰であろうと怒りたくなるだろっ」
「あら。喧嘩なんか売った覚えはなくてよ。からかいはしたけどね」

付け足された言葉に文句を言おうと口を開きかけたマサは、視界に入ったモノに言葉を無くし、引き攣った顔をする。
微かに血の気の引いたそれは顔面蒼白だ。

「お、おいカオル…」
「何よ。まるで化け物見たような顔して。私のことだったらその鼻にレモンぶちこむわよ?」

そう言ってアイスティーからレモンを取り出すカオルに、慌てて否定をするもその顔色は治らない。
当たり前だ。原因はカオルではないのだから。

「ちげぇよバカ!つか後ろ後ろ!!後ろ見ろよ!」
「人をバカ呼ばわりとはいい度胸ねー…マサ、後で折檻決定。で…後ろって?」

然り気無く仕返しの言葉を放つと、言われるがままに黒髪を揺らしながら振り向くカオル。
マサが示したものは、先程まで頬を染めていた彼女の彼氏と思われる男性の怒りに満ちた顔だった。
不良の基本のような格好をしている彼は、絡まれたら明らかに面倒な類いであることが明白だ。

「おい、人の彼女にちょっかいかけてんじゃねぇよ」
「わーお。まさかの常套句かぁ…人生初よ。あたしー」

ありきたりな言葉に思わず思ったことを口に滑らしたカオルに、男性の怒りは益々上がっていく。

「ッふざけるな!」
「ふざけてたつもりはないんだけど。ごめんなさいね」
「てめ、言わせて置けばこのオカマ野郎がッ!!」
「……」

謝罪の言葉にも関わらず、挑発的とも取れる発言に馬鹿されたと思った様子の男性は、顔を紅潮させて怒りのままに暴言を吐き散らした。

「気持ち悪い格好してると思ったら言葉まで女口調かよ!頭可笑しいんじゃねぇのか」
「ちょ、ちょっと!止めてよ」
「うるせぇな!離せっ!男か女かはっきりしねコイツきもいんだよ!」

彼女が控えめに止めるのも構わず、尚も暴言を吐き続ける男性を尻目に、カオルはひたすら無言を貫いていた。

「…頭が、ねぇ」

そして沈黙を破り、不気味に口端を吊り上げたカオルに、マサは不穏な空気を感じ取った。危機感を覚え、先程よりも顔色を悪くさせると、座っていた席から急いで離れる。

「(どうか哀れなる子羊よ安らかな気持ちでっ)」

冷や汗をだらだらと流しつつ胸の上で十字を切る真似事をしてちらりと振り替えると、そこには
自業自得とはいえ、あの男性はカオルの触れてはならない琴線に触れてしまったのだ。
どんな悲惨な結果が待っているかは想像に難くない。
マサが十分な距離を取るのと同じタイミングで、暴言を吐き尽くした様子の男性が乱暴な動作でカオルの胸ぐらを掴みあげる。
次いで空いている手を振りかざした。
どうやら無反応なカオルに無視されたと思い、腹いせに殴るつもりのようだ。
普通ならば知り合いが殴られそうな姿に心配する気持ちが沸くだろう。
だがマサを含めたカオルの知り合いには誰一人としてカオルを心配する人間はいない。寧ろ加害者に同情を抱き、逆に加害者の心配をする。

何故ならばカオルは怒りが頂点に達すると相手を潰すまで止まらなくなるからだ。

カオルに拳が当たる直前、唐突に男性が呻き声を上げて倒れ込む。
そして立っているカオルは何故か右足をある程度の高さに持ち上げ、静止していた。
よく見れば男性は急所を押さえ込み、あまりの痛みに悶絶している。
つまり、殴られる寸前にがら空きだった急所をカオルは何の躊躇いもなく文字通り蹴り潰したのだ。
先程まで意気がっていた男性が無様に転がる様子を見下ろしたカオルは、口端を吊り上げたまま淑やかともとれる口調で口を開く。

「ふふ、オカマを侮辱しやがったこと…千年先まで後悔させてやろうか……?」
「…ヒッ!」
「嗚呼……それとも、」

凄みのある笑顔に圧され、一瞬痛みすら忘れたように恐怖に満ちた男性の顔に隣にいる彼女も顔を青くさせていた。
男性の顎を足で持ち上げると、カオルはニタァと怖いほど魅力的な笑顔で告げる。

「戻れない新天地に…堕としてやろうか。」

加虐心に満ち溢れたカオルの笑顔に、遠くからその様子を見守っていたマサは、何処か窶れた面差しで笑っていた。

「……嗚呼どうか、安らかであれ…」


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