涙で滲みるように解けたのは彼女のブースター


小さな部屋にある大きな窓辺。白ばかりが目立つそこは一軒家にある内のただの部屋の一つにしか過ぎない。
置いてある調度品は部屋の色と同化するように白ばかり。風を通す為なのか枠のついた窓は開け放たれていて、時折吹く風にレースカーテンがゆらゆらと靡く。
五月の爽やかな風が吹いてくるのを頬に受けた少女は首だけ回らし窓の外を見た。遠くの方には緑の山々が見える。近くの池には菖蒲の花が咲き乱れ、濃い紫を中心とした色が葉の緑を覆い隠すかのように凛と咲き誇っていた。

もうすぐ梅雨の時期になるだろう。梅雨が来たらこの風も吹くことはない。

「…今日は風が気持いいね」

目を細めてそう言った少女は視線を自分の膝に下ろす。いや正しくは彼女の膝にいる存在に視線を向けた。彼女が優しく撫でるのはふわふわの毛並みを持つブースターだ。

しかし彼女の膝に頭だけを乗せたそれは普通のブースターと違う様子に見える。四肢を投げ出すかのように横たわるその姿は元気がなく、息をしていないかのようにほとんど動きが見られない。
辛うじて生きていると判断出来るのは息をして微かに上下する体だけで、それが無ければ精巧な人形か別の何かだとしか思えなかった。

瞼を閉じたままだったブースターは幾度か少女の手に撫でられた後、ゆるゆると目を開らく。瞼一つ開けるのでさえ辛そうだが、声を掛けてきた少女に答えたいのか閉じそうになる瞼を必死に見開く。

『もう…こんな風が吹く時期なのか』

せめて声だけは元気なものを出さなければと喉を張り上げて言ったつもりが、懸命に出したモノは擦れた声音しか出なかった。弱々しく情けないそれは今一番少女に聞かせたくないものであったのに。
見栄を張りたくともその体力さえこの身には残っていないようだ。たった一年前は力強く走れたのに今ではこの有り様とは情けなくて呆れることしか出来ない。

情けない自分の姿に嘲笑いたい気持ちが込み上げたが、笑う力すらない今はそっと瞬きをするだけで精一杯だった。

ブースターの思いが伝わったのか、少女は口元に仄かな笑みを浮かべると彼の頭を撫でていた手を鼻先に滑らして指先で軽く突く。
優しく触れるような力加減は花弁が掠めるような軽い感触しか感じられなかった。それで少女が自分に触れることを酷く恐れていることを改めて知ると、申し訳ない気持ちが胸に押し寄せる。

それと同時に愛しい温もりが自分の隣にあることが嬉しくて堪らなかった。

罪悪感と幸福感。込み上げる二つの感情がたった一つの心を苛むようにチリチリと焦がす。ぐっと瞼を閉じると小鳥が囀るような小さな笑い声が上から降ってきた。

「ブースターがお寝坊さんだから、もうこんなに季節が過ぎてしまったのよ」
『…悪い』

からかうような声音はいつまで待たせる気だと言っているようでいて、何よりも彼の体を気遣う思いが含まれている。それが分かっているからブースターも口応えをせずに素直に謝罪の言葉を口に出来た。

だがそんな彼の態度が意外だったのか優しく撫でていた少女の手が止まる。驚く気配が感じられブースターは可笑しそうに体を震わせて笑った。それは木の葉が擦れ合うような本当に小さなものだったけれど。

「謝るなんてアナタらしくない」
『…そうか?』

暫く間を置いた彼女だが、その後すぐに少々拗ねたような声音で口を開く。それに対して思いの外柔らかい声が出たブースターは確かにこれは自分らしくないと思った。

「えぇ。だっていつもはもっと意地悪なことを言うもの」
『ほう…』

重ねるように言われた言葉は先程よりも責めるような響きが感じられる。

「わたしが何か言えばいつも煙に巻くような言い方して結局わたしが悪いことにされちゃってるし」
『あぁ…』

そう言えばいつもそんなことをしていた。別に嫌いだからからかっていた訳じゃない。ただ返される反応が嬉しかっただけ。からかえばからかうほど色んな表情が見れたからわざと言葉が沢山返されるようにそんな言葉を選んだ。

「いつもいつもわたしはあなたにからかわれて…」
『……』

彼女の声が震えている。それでも撫でる手だけは優しかった。

「あなたはそれを見て笑うばっかりで…」

涙脆い彼女はもうその目に涙を湛えているのだろう。けれど触ってあげたかった。けれどこの手は動かすことは出来ない。

『悪い…』
「あ…やまらないで…」
『悪か…』
「謝らないでっ!」

重ねるように叫ばれた言葉はもう涙が滲んでいた。ついで覆い被さるように両腕を腹部にゆるく巻かれる。本当は縋りつきたいほど不安な癖に妙なところで強がりな少女はこういった場面で決して自分を出さない。
泣かせたのは自分だ。原因は自分だというのに。

「おねがいだから…もう、あやまらないで…」

震える声と俯いたことで見えた歪められた表情が悲痛なまでに叫んでいる。しとしとと下りてくる涙を通して彼女の思いが自分に流れてくるようだった。

「もう…、もういいから…もう、あやまらなくていいから…っ」
『…あぁ』

引き攣るような涙交じりの声が痛みを伴う。

「…いきてよ…」

今まで何も言わなかった彼女が本心であろう言葉を言った。
本当はそれに応えたい。何も心配することはないと見栄を張って、いやその言葉の通りにしたかった。
けれど自分にはそんなに時間は残されていない。
残酷な嘘か苦痛を伴う真実か。どちらを選んでもきっと傷つく。どちらを口にしても同じだけの痛みを伴う。ならば、もう言うことは一つしかなかった。

柔らかい温もりを感じながら、ブースターはそっと口を開く。

『悪い…本当に…』
「…っ」

嘘偽りない、見栄もない本心だけをそっと零した。
その言葉を聞いた彼女は一瞬息を止めると、再び涙を落とし始める。嗚咽を漏らすまいと唇を噛み締めることで声を殺してぽろぽろと泣いていた。

『お前は…本当に仕方ないな…』

そんなに力強く噛んだら血が滲んでしまうだろうに。

溜息混じりの苦笑を洩らすと最後の力を振り絞るように気を集中する。瞬く間に彼女よりも視線の高くなった視界に驚くこともなく、泣いている彼女をそっと抱き寄せた。

「…っ、」
『泣くな…なんて言わない。だから…そうだな…』

泣いても構わない。苦しいことを外に出さないで溜めこんだら怒る。行き場を失ったモノはいつか耐えきれなくなって罅割れて壊れてしまうからだ。けれど泣くことは少しだけそれを楽にしてくれる。

だから泣くなとは言わない。だからその代わりに…。

『笑って…それで長く…出来るだけ長く生きろよ』
「…、…」

もう何も出来ない自分だが、待つことだけは出来る。一生が終わる時までは待てるだろうから、だからな長く生きて欲しい。
視線を合わせてそう言うと、彼女はそっと瞼を伏せて小さく笑った。

「あなたはやっぱり…意地の悪い人ね…」

微笑む彼女の頬に涙がまた伝った。

不器用な笑みを浮かべる少女に人の姿を模したブースターも、そっと笑いかけた。


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