季節は6月に入り、鬱蒼とした気怠さと朝から降り続く雨が梅雨に入ったことを告げていた。

 人通りの少ない小路を、黒と濃紺の傘が並んで歩を進めている。
 黒い傘を差した男はその端麗な顔を不機嫌そうに歪め眉間に皺を寄せ、対する濃紺の傘を差した少年は至極楽しそうに口元に微笑を浮かべていた。

 そんな様子の少年を怪訝そうに見やり、不機嫌も顕に男が口を開く。


「……何をそんなに笑っている」

 只でさえ欝陶しい雨だと言うのに、何故涼が笑っていられるのか不可解極まりない。
 更に今は必要物資が足りなくなった為仕方なく買い物に出た帰りの途中だ。楽しいことなど一つも無い筈だろう。

 立ち止まり呟いたシルバーの声に、反応が遅れ一歩程前へ出てしまった少年は振り返ると小首を傾げた。


「んん?…うん、こうやって二人で居られるのって久しぶりだろ?…凄い、嬉しいなって」

 自分より頭一つ分高いシルバーを見上げ、これ以上の幸せは無いという程にやんわりと微笑(え)んで見せる。


 純粋なまでに向けられる好意。それがあまりにも綺麗で。

「フン……」

 詰まらないとでも言ったように鼻を鳴らし、シルバーはさっさと歩きだしてしまった。
 それに別段気を悪くするでもなく、涼は微笑んだまま静かにシルバーの後に続く。


 今までの経験上、ソレが人一倍不器用で寂しがりの彼の照れ隠しということを知っていた。
 ならば、怒る理由など何処にもない。

 そうやって自分にだけ彼が感情を表してくれることが嬉しかった。
 何だかんだで甘やかすのも、言い方は酷いがまるで動物を手懐けているようで楽しい。

 以前敵同士であったことを思えば、こうして共に過ごせることは――きっと、幸福なんだと思う。


 居心地悪げに先程より強く眉間に皺を寄せたシルバーにクスリと笑い、前を向いた。

「うわっ!?」

 途端、パサリと肘に当たり飛沫を散らす物に驚いて声を上げる。
 目の前にあったのは、公園脇のフェンス越しに大きく飛び出した、所謂梅雨の風物詩とも言える植物。
 錆びたフェンスに沿うように、沢山の紫陽花が群生していた。

「あ……」

 ソレを見つけた涼は、嬉しそうに屈んで其処を覗き込んだ。

 遊びに来る者がいるのかどうかすらも分からない程小さな公園。
 きっと普段手入れされることの無いソレは止まることのない成長に肥大し大きな葉を広げている。

 何時も通る道だが、すっかり忘れていて油断してしまった。
 先程飛び散った水滴は腕を伝い、また服に小さく染みを作ってはその冷たさを伝えている。


 しかし今、そんな事など気にならない程にはソレは涼を夢中にさせているようだ。

 典型的な水色をした楕円形の花は、雨に霞んで余計ひっそりとした寂しげな印象を与えていた。

「なぁ、知ってるかシルバー?紫陽花の花の色が違う理由」


 突然の問いにシルバーは答えない。それでも涼の話を遮ることはせず、ただ無言で先を促した。

 パラパラと葉に当たる雨が音を奏で耳に届く。


「あれは吸った水分の性質で色が決まるんだよ。青はアルカリ性、赤は酸性」


 先程濡れてしまったからだろう、今更気にすることはないと手指が濡れるのも気にせず花に触れる涼をシルバーはじっと見ていた。

 普段自分達が花びらだと思っている部分が、実際は咢(がく)と言う花弁を支える為の器官が発達した姿なのだと教えられたのは、ついこの間だったか。


「雨が多い梅雨の時期は、面白いほどにころころ色が変わるんだ。だから…花言葉は『移り気』」

 ザアアアァ……と、本の僅かに弱まった雨がその緑色した葉を一層艶々と輝かせた。
 空間を満たしていく雨の音は意外な程、優しい。

「不思議だよな、“六月の花嫁は幸せになれる”っていうのに……全然意味が違うなんて」


 そっと瞳を伏せて涼は静かに笑う。

 その横顔が少しだけ寂しそうに見えたのだが…きっと傘が作り出す影の所為でそう見えたのだろう、涼は雨宿りかな?と言いながら葉影に隠れたカタツムリをにこにこと眺めていた。

 同じようにずっと涼を見つめていたシルバーが不意に口を開く。


「貴様も似たようなモノだろうが…」

 その言葉に


「…っえ、」

と涼が振り反った。


「お、俺…ッ!浮気なんて……!!」

「泣いたり怒ったり笑ったり……ころころころころ、すぐに顔が変わる」


 慌てて言葉を紡ごうとした矢先、放たれた言葉に『あ、そういう事か…』と小さく安堵の声を漏らす。

 自分の早とちりに恥ずかしくなったのか、僅かに頬を染め「誤解するような言い回しするなよ…」と不貞腐れたように顔を伏せた。

「……高槻」

 雨の中低く転がされた自分の名前に顔を上げると、何時の間に近付いていたのか、目の前には惚れた欲目抜きにしてもいい男だなと思う程に整った顔。


 それを認識したのは、自分の唇に少しかさついた相手のソレが押し当てられてからだった。


「な、んン…!?」

 迂闊だった。

 抗議しようと僅かに開いた隙間をシルバーが見逃す筈もなく、簡単にぬらりとぬめった舌が口の中へと入り込んでくる。


「ふ…ぅ、は……」


 敏感な上顎や舌の裏を擽られ身体が跳ねる。
 押し返そうと肩に置かれていた手は、力が抜けた所為で自然に縋りつくような形となってしまった。


 いくら人通りの少ない路地とは言え、いつ何時人が来るか分からない。

 それが分かっていても、どんなに嫌だと思っていても、流されてしまう自分が居る。


 もしもあの角から通行人がひょっこりと現われたら?

 もしも家の窓から見られていたら…?


 そう思えば思う程、このスリルな状況に快感と興奮を覚えてしまうのは、きっと今自分の口中を好き勝手犯しているこの男の所為だ。

「は…ぁ……」


 いい加減足りなくなってきた酸素の所為か頭がクラクラとする。膝に力が入らずカクンと崩折れそうになった身体を、腰に回してきた相手の腕が簡単に制した。

 ようやっと離された口唇を、鈍く光る唾液を拭うようにもう一度舐められる。
 解放された瞬間入り込んできた酸素にむせ返りそうになりながら、涼は男にしがみ付き必死で肺に空気を送り込んだ。

 シルバーは肩で大きく息をする涼を見つめると、朱に染まり体温の上がった頬をゆっくりと撫でた。

「さっきのは…嘘だ」

 そう呟きながら、今度はわざとチュ、と小さく音を立て口付ける。

「…?」

 『さっきの』とは一体何の事なのか…ゼエゼエと荒く息を吐きながら、訳が分からないため訝しげに相手を見つめる。
 それにニヤリと淫猥とも取れる笑みを浮かべると、

「俺相手に其処まで赤くなるのは貴様ぐらいなものだろう?」

などと、未だ口唇が触れそうな程の極近い距離で囁いたのだった。


「…ッ!」


 いっそ湯気が出てしまうのではないかというほどに涼は耳まで赤く染め、何か言いたげに…しかし言葉が出ないのか、金魚のように口をパクパクと動かしている。

 その様子に心底愉快だとでも言うようにクツクツと喉を鳴らし、シルバーは先程のキスの際に手から離れた涼の傘を拾い上げた。

「帰るぞ」


 そう促し傘を閉じながら涼の横を通り過ぎる。
 未だ呆然としていた涼はハッと我に返ったのか、先に行くシルバーの背に向かい

「馬鹿野郎――ッッ!!!」

と精一杯の声量でもって罵声を浴びせたのだった。



 あれほど降りしきっていた雨は何時の間にか止み、紫陽花はひっそりと咲きながら自身にまとわりつく水滴をキラキラと輝かせている。

 そうして吹く風に身を任せながら、彼等の背中が消えるまで何時までも見送っていた。



.Fin.



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