何処までも続く暗い廊下。

 もう随分と前に工事の中断された建物は崩れた壁や埃に覆われていた。

 狭い廊下に反響する足音とドクドクと忙しなく耳に届く心音が煩い。
 そもそも何故涼が今こんな場所に居るのかと言うと、総てはあの男の所為だと言わざるを得ない。


 その日学校が終わり、特別部活動や委員会に所属していない涼は後は何時も通り帰るだけという時だった。
 校門を出て暫らく経ったころ、その男はいきなり自分の前に現われたのだ。

 陽の光に煌めく金の髪、海を讃えたような蒼の瞳。

「久しぶり…と言うべきかな?高槻涼……」

「キース!?」

 ざわり、と一気に緊張が辺りの空間を包んだ。空気がピンと張り詰め背中に冷や汗が伝う。


「クク…まぁそう警戒するな。今日はお前と闘うためにわざわざ来た訳ではない」

「何……?」


 そんな言葉が信じられる筈もない。ゆっくりと近付いてくる相手にどんな対処でも出来るようにと身構える。

 視線を外さずに涼の見据える中、一定の距離を開けてレッドは立ち止まった。


「…高槻涼、私とゲームをしないか?」


 そう、笑って。


「…はぁ?」

「日本では…そうだな、確か"鬼ごっこ"と言ったか?」

 予想もしていなかった言葉に一瞬肩の力が抜ける。想像すらしていなかった"鬼ごっこ"という単語。ゲームと言うよりは単なる子供の遊びでしかないソレ。

 この男は本当にそんな事をする為だけに己の元へと来たのだろうか?一体何故?
 半ば呆れながらも相手が続ける話に耳を傾ける。


「10秒やろう。私が10数えるその間にお前は逃げればいい。簡単だろう?…ただし……」


 一度瞳を閉じ、またゆっくりと目蓋を開ける。

 …その瞳を見た瞬間、ぞくりと全身が総毛立った。背筋を冷たい汗が伝い、知らず握り締めた拳が震えだす。


「捕まった時は覚悟しろ。容赦はしないぞ…?」

 ギラつく碧色が彼が本気であることを伝えていた。蛇に睨まれた蛙のように身動ぎ一つ出来ず、吐き出す呼吸すら相手に聞こえぬよう自然と抑えられたものとなる。


「…逃げなくていいのか?」


 その言葉に、反射的に身体が反応した。バッ、と勢い良くキースに背を向け走る。
 クスクスと笑う男の声が、遠ざかっていく中でもやけに耳に残った。


 そんな経緯の後、路地を駆け抜け住宅街を右に左にと走り、そうして崩れ掛けたビルの中を走り回っているのだが……


「ハハハ、逃げろ逃げろ!でなければ捕まってしまうぞ?」

 ムカつく程に余裕の含まれた笑い声が朽ち掛けた廊下に響く。

 男は走るでもなく、涼を焦らせるためにわざとゆっくりとついて来ていた。
 彼はこのゲームを純粋に楽しんでいる。それが涼にとっては屈辱だった。
 しかしそんなことよりも、その余裕が逆に恐ろしくて堪らないのだ。

「ハ…ッ…ハ、ァ……!」

 いくら体力に自信があると言えど、小一時間も走り続けていればさすがに限界だった。

 よろりと壁に手を付いてゼェゼェと荒く肩で息を吐く。

 立ち止まった瞬間に溜まっていた熱が体中に巡り、一気に汗が吹き出した。額から顎へ汗が伝い落ちる度に、ジワリ、と地面に染みを作る。


 荒い息は何処か茫洋と耳の奥に谺し、周りの空気に融けていった。

 後ろから聞こえてくる足音は徐々に大きくなり、嫌でも相手との距離が近づいているのが分かる。

 出入口は一つ、引き返すことは出来ない。
 窓から飛び降りるにせよ高い階まで昇り過ぎた。魔獣の能力を駆使しても、逃げられるかどうか分からない。


 何故こんなビルの中へと逃げ込んでしまったのか……今更になって自分の軽率な行動を悔やんでも遅く。

 しかし何時までもこの場に留まっている訳にいかない。重い足を引きずり、少しでも男との距離を取るためにとそれだけが頭を支配して、涼は突き動かされるように走り出した。


 それからどれくらい走っただろうか。不意に、涼の足が止まる。

 前方には一つの扉。

 どうやら何時の間にか最上階に来てしまったようで、周りの部屋は中途半端に骨組みが露出し、普通に使えるような扉といったら此処しかないらしい。
 必然的に行き止まりということになる。


 だが此処で立往生していても始まらない……もう、すぐ後ろにはあの男が迫ってきているのだ。


 コクリ……

 小さく喉を上下させ、僅かな可能性に掛けて涼はドアノブへと手を伸ばした。

 戸を開け放った瞬間吹き込んでくる風。
 其処はどうやら非常階段になっているらしく、長い間雨風に曝されていた所為で錆が浮き脆くはなっているものの、降りられないという程ではない。


(よし……!)

 このまま此処を降りれば逃げられる。

 そう確信した瞬間の僅かな隙を突かれた。


 ノブを掴んだままだった自分の手に覆い被さった大きな手により、ガチャリと音を立てその扉が閉められた。


 ……身体が 強張る。



「残念だったなぁ、高槻涼…もう少しだったと言うのに」


 すぐ耳元で聞こえてくる声には、クツクツと笑いさえ含まれていて。ねっとりと絡み付いてくるような声に、知らず身体が震えた。


 そのまま強く腕を引き寄せられ、反対側の壁に押しつけられる。
 咄嗟の事に受け身を取るのを忘れ、直接壁にぶち当たった背中がジンジンと鈍く痛む。

「、ぐ…ッ!!……ッッ!?」


 痛みに閉じていた目を開いた瞬間、間近に見える無駄に整った顔にビクリと肩が跳ねた。

 顔の両側に置かれた腕は、さり気ない、逃がさない為の束縛のようだ。
 頭の片隅で鳴り響く警報。逃げなければ、いけないのに。その瞳に見つめられるだけで体が動かなくて。


 薄い唇がゆっくりと弧を描いていくのを、どこか頭の片隅で冷静に見ている自分が居た。


ダ、メ

ダメだ、こんなの


こんなの 間違ってる



―‐だけど、惹かれてしまった


体中の血液が沸騰して

心臓が破裂してしまいそう


……動けない




「Game Over…鬼ごっこはお仕舞いだ」


だめだ  だめだ


ゆっくりと、近付いてくる



相手は敵で、


殺されるかも



しれない、の に





碧い瞳から 目が離せなくて、
身体が 動かない――




重なる 影


自分より体温の低い口唇が

触れて



呑み込まれていく感情



 ダ メ 、 だ ……



もう逃げられない




千切れることのないその糸に




身体と――‥心と



絡め獲られてしまった




.end.



尻切れトンボぇーい
初期作品です。大分手直ししましたがやっぱり見れたもんじゃない。お目汚しすいませんでした






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