気が付くと隼人は何時の間にか見渡す限りが真っ白な世界に佇んでいた。
己の姿を確認することは出来るものの、どうも視界の先が不明瞭で数メートル向こうのその先が分からない。
ぐるりと周囲を見渡して特別危険な場所ではないと確認すると、しかし警戒は解かぬまま逸らしていた視線を正面に戻す。
すると何時の間に現れたのだろう、その数歩分離れた場所には涼が立っていて。
己にニコリと笑いかける彼を目の前にしながら、『ああコレは夢なのだ』と漠然と理解した。
夢の中でソレを夢だと認識するなど何とも変な心地ではあったが、事実そうなのだから仕方ない。
まるでポッと湧いて出たように現れた彼が何よりの証拠だ。
「高槻…?」
問い掛ければ、不自然に貼り付けたようなままの笑顔で涼はゆっくりと此方へ近付き、目の前でゆるりと、まるで蛇のようにしなやかに腕が持ち上げられた。
ギシリッ
その動作が綺麗だな、と思う間に首に絡まりつく指に不思議と恐怖は無く。
「手前……誰だ?」
怒りよりも疑心を孕ませた瞳で睨み付けても涼の笑みは崩れぬままで。
指先に込められていく力。
届かない酸素に頭の芯が痺れていく。
夢の中でも死んだりするのか?と何処か呑気な事を考えつつ、目の前の人物をひたと見据えていた。
「何言ってんだよ
俺は、
お前の大好きな高槻涼だぜ?」
…一瞬だけ歪んだ笑みを視界に捉えて、其処で目が覚めた。
「――…ッ、」
ハァア、と無意識に詰めていたらしい息を大きく吐く。
心臓がいやにバクバクと音を立て汗で張り付いた衣服に不快な気持ちになった。
もう一度ゆっくりと息を吐き出して、身体の力を抜いていく。
見開いた眸に映ったのは、見慣れた天井と此方を心配そうに覗き込む涼の姿。
「大丈夫か?」
心配げに掛けられる柔らかい声。
汗で濡れ額に張りついた前髪を優しく退かす指先に、ああ、此方は本物だと安堵する。
「…すげぇヤな夢見た」
髪に触れる手に指を絡めてポツリと心底疲れたように呟けば、どんな夢だったんだ?と返ってきて。
「……言いたくねぇ」
まさか『お前に殺されかける夢』などと言える筈もなく。
気遣う涼に安心させるための言葉を掛けることも出来ず、そっぽを向く自分は端から見ても相当な子供なのだろう。
「そうか」
涼は一瞬不思議そうに首を傾げたが、もう次には気にした風もなく軽くそう言って笑って見せた。
言いたくないならそれでいい、とそういう事なのだろう。
こういう時、この同い年の男は何処迄も出来た人間であると認めざるを得ない。
その場の状況判断にも長けていて、人の感情の流動に敏感。
だからこそ細やかな配慮が出来るし頭もキレておまけに性格もいいとくれば、その周りには自然と人が集まってくる。
まあ、こと恋愛に関しては何処迄も鈍感ではあるのだが。
だから涼には決して気取られぬよう、周りの者達を跳ね除けて隣へ居座る自分はやはり質の悪い子供でしかない。
「なんか目が冴えてきたな…。俺コンビニに行ってくるけど、隼人は何か欲しい物とかあるか?」
矢庭に起き出した涼が服を整え外出の支度をし始めた。財布を手に取るのを見て慌てて起き上がる。
「俺も行くからちょっと待て。外の空気吸いたいし」
適当に上着を引っ掛け扉の前で待っている涼にバタバタと忙しなく近づく。狭い玄関で二人して靴を履いて外へと飛び出した。春めいてきたとは言え露出している肌を刺すように空気は冷えている。
未だ太陽が昇る前の空は不思議な色合いを醸し出していた。遠い山間は藍色で、其処からグラデーションのように紫、桃色、そしてうっすらとオレンジや白に色付けられた薄いベールを被って同じ色に雲が染まっている。
「綺麗だな」
隣を歩く涼がポツリと呟いて目を細めるのを、なんだか無性に泣きたくなってその手を強く握った。ほどかれる事なく握り返された指に、フフフと空気の抜けるような笑い声を聞いて、ああ矢張り自分はコイツにだけは勝てそうにないと隼人は心の中でだけ小さく白旗を降る。
恐らく目が冴えただとかコンビニに行くとかそんな物は建前で、涼は隼人が着いてくるのを見越して気分転換になるようにわざとそんな事を言い出したのだ。
敵わない。好きだ。悔しい。愛しい。愛しい。
堪らなくなって色々叫びだしたいのを寸でのところで我慢する。こんな早朝に大声を出せば近所迷惑どころの話ではなくなるからだ。
隼人が猛る感情のままに涼に抱き付いてワッシャワシャと髪を掻き混ぜまくれば、困惑した制止の声の後に吹き出したような笑い声。
今こうして隣に涼が居てくれる事がどうしようもない程の幸福に思えてくる。無性に口付けたくなったが、幾らひと気がないとは言え往来でそんな事は出来ないと隼人を押し留めさせた。
今家を出たばかりであるのが口惜しい。ならば早く帰って来られるようにと、コンビニへ向かう道を涼の腕を取って走り出した。
夜明けはもうすぐ其処だ。
.end.