3 泥濘で手を伸ばす



 北の海の冬は長い。

 息を吐けば白くなり、ふわりとほんの少し漂って消えた。一瞬で終わった秋の名残なんかもうどこにもなく、夜になれば骨の髄まで凍らすような寒気が海上を覆う。ピリ、と頬を引き攣らせ裂いていく風に顔を顰め、薄っぺらいマフラーをきつく巻き直し目元だけを露出させた。今日は新月、星が綺麗に見えた。漂泊中であるので陸地は遠く、灯台の光も見えない。天体観測には絶好の機会だった。

 海賊船の、見張り台。海賊として旗揚げした父はおれを連れて行くことに疑いを持たなかった。最初は腐っても血縁関係だからか、などと考えていたが結局、都合の良い世話役が欲しかっただけのようである。つまりは、奴隷のようなものだった。父の言うことを聞かなければ殴られるし、そうでなくても憂さ晴らしに手を上げられた。誰もやりたがらない仕事は大体こちらに回ってきたし、その最たるものがこの夜間の見張りだった。 

 ここからの景色は三百六十度どこも変わらない。双眼鏡を使ってもなお軍艦も海賊船も見当たらないのでもういいか、と床に寝転がった。大人三人が入るこの見張り台、まだ身体の小さい自分ならば横になっても平気だった。丸く切り取られた夜空、マストがそびえ立っている。すっかり暗闇に慣れた目では眩しすぎるくらいの星空。六等星までしっかり見えて、夜空だというのに黒い部分などどこにもなかった。星々が所狭しと輝く様は、朝日にきらきら光る砂粒のようだと思った。

「……イサベル」

 寒いせいだ。涙液が凍ってしまう心地がして、宇宙があんまりにも綺麗だから、視界が潤んで揺れている。呟いた彼女の名前など一切関係ないのだ。例えそれが、あんまりに優しくて温かい響きでも。

 彼女との約束の日はとっくに過ぎてしまった。果たせないままだった。流星群を彼女とともに見ることは無かったのだ。


 あの約束をしてから数日後、父が家に戻ってきた。休日でもないのに珍しいな、と思っていたがどうやら、怪我をしたので療養するように通告されたようだった。心配して聞いても怪我について父は詳しく語らなかったけれど、こっそり覗き見た診断書には頭を鼻のラインで真っ二つにした図があり、そこに重ねて棒が描かれていた。海賊との交戦中、父は脳を損傷したらしかった。どう考えても奇跡的な生還だろう。残念ながら医学の知識はなかったので、それがどれくらいの確率のものなのかはわからなかったけれど、

 父は真面目な人だったので、問題なく身体を動かせるのにな、と言いながらも医者の言いつけを守って安静にしていた。身の回りの世話をしようとしても大丈夫の一点張りで、結局いつもどおりの日々を過ごしていた、のだが。

 それは軍医が経過観察に来る三日前の夜だった。突如として父は、海賊になると言い出したのだ。さも宇宙の真理を解明したと言うような自慢げで明るい表情で、ベッドの上で両手を広げて演劇じみて一種のカタルシスさえ携えて言う父は、おどけているのだとしか思えなかった。いや、仮に冗談であっても父は決してそんなことは言わなかった。部下も多く、慕われる海軍将校である父はジョークひとつとっても弁えていたのだ。だから言ったのだ。「そんな冗談、父さんらしくないね」と。そうすると父は表情をくるりと変えて怒鳴ったのだ。おれは本気だ、という部分しか聞き取れなかった父の怒号は未だに耳にこびりついている。すっかり怖くなって泣くことも忘れて、乾いた笑いしか出なかった。父はこんな人じゃなかったはずだ。

『ドリィお前、人魚と会ってるだろ』

 感情が不安定になっているらしい。喚き散らした直後に落ち着いた声色で父は言った。何もわからなかった。ただ、本能的に肯定してはいけないと思って黙ったまま俯いていた。そうすると父の癇に障ったらしく、目一杯頬を殴られた。

『明日連れて来い』

 どうして、と頬を庇いながら聞き返した。父に殴られたのは初めてだったので、痛みよりも殴られたという事実の方が心を深く刺した。けれど全てのことが余りに突拍子もないことだったので、どこかでこれはきっと夢に違いないと思っていた。切れた頬の内側は鉄の味がしたし、寒くもないのに歯の根は合わなかったし、脂汗でじっとりと背中が湿っていたけれど、これは解像度が高いだけの夢であると。

『人魚ってのは高く売れるんだよ。まああの髪色なら人魚じゃなくとも高値がつきそうだが』

 凶悪に顔を歪めて笑う父がもう心底恐ろしくて、父の姿をしているだけの極悪人なんじゃないかと思った。吐き気がして口元を押さえた。優しくてかっこいい、憧れの父はもうどこにもいなかった。父と、いやバレルズというこの男と一緒にいるとこちらまで狂ってしまいそうになって、たまらず家を飛び出した。後ろからはこちらを呼び止める声も追いかけてくる物音もしなかったので、前も見ずに走った。走って走って砂に足を取られて転んでやっと、涙が出た。夜の砂浜、満月が煌々と照る中で声を上げて泣いた。痛みをやっと感じることが出来たのか頬は鈍くずきずきして、その痛みも合わさって涙が止まらなかった。父が豹変してしまった悲しさがあった。大好きな彼女をものとして扱われたことへの怒りがあった。ショックだった、と総括すればそのとおりなのに、その一言で片付けられないほど負の感情で覆われてしまって、自分が人間でなくなった気さえした。海水に濡れて冷たい砂に額を押し付けてもてんで冷静になれなかった。しゃくりあげて呼吸さえままならないのに、落ち着こうとしている自分がいることが滑稽に思えて笑いさえ零れそうだ。自分が怒っているのか、悲しいのか、笑っているのか、何もわからなかった。

 ふと顔を上げてぐちゃぐちゃの視界に見えた海が、とても魅力的だった。溺れてしまいたかった。イサベルとの約束は果たせなくなるし、彼女の忠告に背くことになるけれどそれでも良かった。溺れて海の藻屑になってしまえば、それは彼女とともにあることだろうと思ったのだ。ざぱり、と夢中で足を進めて腰まで浸かる。秋の入口、海水温は未だ夏に引き摺られたまま。

『ディエス!』

 彼女の声がした。幻聴であってほしかった。全身ずぶ濡れになって目の前に立っているイサベルはきっと海の中にいたのだろう。そういえば彼女の普段寝泊まりする場所については聞いたことが無かったなあ、とどうでも良いことを頭の片隅で他人事に考えていた。相変わらず、綺麗な髪だ。月光に照らされた海色は太陽の下で見るのとは違って幻想的で、この世ならざるものの魅力を纏っていた。きっと彼女は幽霊や精霊やそんな何かだと思えたし、それならばおれを海へ引き摺り込んでくれやしないかと、切に願ってしまった。失望は彼女を怪異に仕立て上げる。

 どうすればいいか、鈍く熱を持った頭をなんとか回転させて考える。大きな瞳が心配そうにこちらを見ている。何が起こったか説明した方が良いだろうと思ったけれど、自分でも現実を受け止めきれていなかったので説明してその事実を飲み込んでしまうのが恐ろしかった。深呼吸をして無理矢理落ち着いて、彼女に伝える言葉を探す。冷たい空気が頭の隅まで行き渡ってつきりとした痛みがした。

 彼女に縋ってしまいたかった。どこでも良いから一緒に逃げてほしいと頼みたかった。でも、あの男はきっと自分を逃がしはしないだろうなという確信もあったし、まだ父を見限りたくはなかった。夢であるのが一番だけど、もしかしたら父の乱暴は気まぐれで、例えば薬の副作用でああなっているだけかもしれない。そう信じたかった。

『…もう、会えない』

 自分でもおかしな顔をしていたと思う。ぐずぐずに泣いて、でも心配させまいと笑って。彼女の手を握って言った。彼女の手はひやりとしていて、ああ、そういえばこちらから彼女に触れたのはこれが初めてだったのだなあ、と気付いた。

『おれのことなんか忘れて、魚人島に戻ってよ。ここにはもう近づいちゃだめだ』

 イサベルは口を開いて、何か言おうとしてやめた。聡明な彼女のことだから、きっと何が起こったのかくらい想像できていたのだろう。彼女も泣きそうに微笑んでこちらの手を握り返してから、わかった、と呟いた。

『でもわたしは、君のこと忘れたくない』

 彼女の大きい身体が、小さいおれをぎゅうと抱きしめた。柔らかくて甘い海の香りがした。耳元で囁いたイサベルは痛む頬にそろりと触れる。彼女の長い髪が顔を囲うように覆って、前髪の上から額に柔いものが押し付けられた。彼女は海だ。今この瞬間、おれは彼女に溺れてしまったのだ。決してそれは恋愛小説に出てくる例えなんかではない。それ以外に上手い表現なんか思いつかなかったのだ。

『さようなら』

 どちらともなくそう言って、でもなかなか握った手が互いに離れてくれないからそれがおかしくて二人で笑った。やっと彼女と触れ合った部分がなくなって、じゃあね、と手を振ったのだ。踵を返した彼女の髪が、最後まできらりと月光を跳ね返して名残惜しそうにたなびいた後、水しぶきがして彼女はもう見えなくなった。


 ちかりと星が瞬いている。大気の揺れで恒星からの光が屈折して起こる現象なんてことはわかっているし、何度も見たことがある。だというのに目が離せなくなってしまった。自分がどこに存在しているか曖昧になる気がして、体の良い現実逃避だった。そうして、彼女のことを考えていた。一面に砂をばらまいたようにある星々を人に例えるなんてのはよくあることだけれど、もしそのとおり自分がこの中の星のひとつなら、彼女もまた同じ視界にいるはずだった。

 彼女との思い出は幸せだった日々の象徴だった。父が海賊になる前までの記憶の中で、一番楽しかった。一番あたたかかった。一番輝いていた。彼女との日々の証はこの思い出と命にしか存在しない。誰にも侵せやしなかった。だからこの思い出は希望とした。父の豹変も殴られて痛む身体も自分の肩書きが海賊であることも、疑いようのない現実だった。あの日々に、彼女に縋ることでしか自分を保てなかった。自己は他者との関係に依存する。強い繋がりのあった父と自分の関係が変わってしまった以上、自分を自分たらしめるものは彼女だけだった。

 それでもなお、自分の中でイサベルをどこに位置づけるべきか、未だ迷っている。希望と呼ぶには抽象的。友人と言うには少しばかり遠い。幼馴染と言うには過ごした時間が少なすぎる。条件は満たしているのにどれもこれもがしっくり来ない。

「………恋」

 最後に思い付いたのがそれだった。一番不明瞭で定義不足、それなのに一番近いんじゃないか、と思った。彼女に抱いた憧れは、希望と縋る現状は、ドキリとした心臓と熱は、あの忘れられない髪色は。でも一番近いというだけで恋そのものではないことはわかっていた。この感情を恋と呼ぶにはあまりにも綺麗すぎる。それこそ、あの日見た海中のように。

 

「ドリィ、酒だ!酒を運べ!」

「…すぐに」

 酔った父の怒号に短く応えて部屋を後にした。

 結局、父の暴虐は止むことはなかった。海軍将校であったのが嘘のように、根っからの海賊であるように振る舞う父の元から離れることはできなかった。優しかった時を知っている。それだけで思考を停止して従うことしか頭に浮かばなくなってしまうのだ。そうして何年も経って、気付けばおれはバレルズ海賊団の戦闘員となっていた。敵船との交戦の度に最前線に放り出されていれば並大抵の相手ならば軽くいなせるようになる。最初はそれこそ死んでしまおうとしたが、ただ怪我を負うだけでろくに死ねなかった。それに加えて治療に金がかかるのだからと父にまた殴られるのだ。だから極力、怪我せず相手を殺さず無力化させることだけを念頭に置いて死物狂いでいただけだ。それなのに気付けば、この船一番の戦力だと言う。笑いすらも出ない。幼少期から海兵になるべく訓練をしていた剣を海賊として振るっていると知ったら幼い頃の自分はどんな顔をするだろう。絶望した顔で縋ってくるに違いない。ああ、ありえないことを考えたって仕方がない。

 ここはミニオン島。海賊としての振る舞いがすっかり板についた父が根城にしている。山の斜面にある家々は村ひとつ分ほどはあったが、今は人の気配がない。我々がこの島に到着したときには既にこの島はもぬけの殻だった。

 重い扉を開ける。船員がたむろする大広間からは少し離れている酒やら食料やらを溜め込んでおく部屋だった。冬の長いこの島では食料が凍ることはあれど腐ることはほぼない。特に冬期であればなおのこと。目当ての木箱を見つけて持ち上げる。酒としか言われなかったものの、きっと何を持っていこうがお叱りを受けるのだろうな、と笑う。

「…?」

 中に入っているのは大量の酒瓶のはずだ。それなのにかちゃりとも音がしない。割れにくい配慮がされているような高い酒なんか買っていないし、もしや中には別のものが入っているのか、と部屋の壁にかけてあるバールを手にとった。開けたら開けたで怒られるのだろうが、中身が違っていても怒られることはわかっている。箱の隙間にそろりとバールを差し込んだ。途端、ズン、と屋敷が揺れる。普段海の上で過ごす以上揺れには鈍感であるし今も若干陸酔いさえしているが、この揺れは違う。自分の記憶の中で一番近いのは、砲撃の振動だった。襲撃か、と無感動に分析する。無音であることは些か疑問だったが、海賊にとってそんなこと日常だ。我々だって他の海賊船を襲っている。きっと父は今頃慌てているのだろう。あの役立たずはどこだと喚き散らしているに違いない。でも、動く気は毛頭無かった。父がここで倒れたとして、当然の報いだろう。海賊の最期なんてそんなものだ。感情は常に不安定だった。あんな男早く死んでしまえばいいと思いながらも、隙だらけなのに実の父だからか殺せなかった。死んでほしいと何度思っても、結局何度も父を助けてしまった。もう擦り切れてしまって真っ当な判断もできない今なら、父を見捨てることもできる気がした。放ったバールががらん、と音を立てたのを境に遠くからざわめきが聞こえだした。開けることを諦めた木箱に腰掛ける。廊下にはオレンジ色の光源に照らされてできたであろう長い影が見えた。屋敷は一部が炎上しているらしかった。先程の振動はやはり、何かを爆発させたものだったのだろう。

 ここで死んでしまっても良いと思った。かつて抱いた夢からはかけ離れた自分なんか、生きる価値も無い。おれだって海賊なのは違いなくて、こんな最期がお似合いなのは自分だって同じだ。心残りがあるとすれば…ああ、彼女にもう一度会って、ちゃんとお別れを言いたかった。きちんと説明をして、結局名付けたのになんだか恥ずかしくて一度も面と向かって言えなかった愛称で呼んで、そうして。そうして、好きだったと言おう。これが恋であるとしっかり断定できるほど大人にはなれなかったけれど、十年近くも無責任に彼女のことを希望と崇め続けたのだ。それだけ大きな感情を彼女に向けておいて伝えないのは、あまりにも乱暴だ。

 パチパチ、と火の爆ぜる音と熱が近づいてくる。ここで死ぬのだ、おれは。覚悟というよりも無気力だった。死にたくない気持ちが全く無いわけではなかったけれど。ただ、最期に見るのが木箱の山かあ、と残念に思って窓の外を見た。正常な思考回路は既に失われているらしかった。

「…海軍」

 到底この場にいるはずのない存在が目に入る。見間違えなどしない、あのマークを帆に掲げた軍艦が停泊している。雪の照り返しで見づらかったが確かに、島の海沿いに何人かの海兵らしき人影も見えた。バレルズ海賊団とドンキホーテファミリーの取引を聞きつけたのだろう。世界をひっくり返しかねない悪魔の実だ、海軍も動いて当然だった。

 焦がれた正義がそこにあった。父がそれに泥を塗りたくったならば、子である自分はその罪を背負う義務がある。虚ろな頭でそう思った。そんなことないと僅かな正気は主張していたけれど、せめて自分を含めてバレルズ海賊団が行ってきたことを片っ端から陳述せねばならない。自分がここに一人逃げられる状況なのはきっと、償いへの第一歩であり、罰なのだ。

 部屋の扉に背を付ける。助走をつけて窓を破る。着地する。そのまま海岸線へ走る。それだけだ。斬りかかってくる海賊を相手取るよりも遥かに楽なことだ。ふう、と息を吐く。煙が足元を這い始めた。時間がない。

 駆け出す。跳ぶ。顔をカバーするように腕で覆う。バリン、と頭を揺する音と腕に走る衝撃。背から降り積もった雪へ落下する。それだけでは勢いを殺せず無様に転がる。まさに這う這うの体だった。走る。目指すは海岸。無我夢中でひたすら走る。肺を刺す冷気を気にする暇などなかった。

「ドリィ!」

 船員の声だ。身体に染み付いたものはこんなときもきちんと反応をするらしい。振り返ると、すとん、と白い線が彼らと自分の間に刺さった。小さな子供でやっと間を通り抜けられそうな間隔で刺さったそれは、まるでドームのように島の中心部を覆ってしまった。本能が語る。危険だ。は、と呼吸が詰まる。中では船員たちが、殺し合っていた。思わず後ずさる。ドームの中の彼らはこちらに「どこへ行く」だの「どうにかならねぇか」だの言っている。勿論従う気はなかった。決別だ。おれはこれきりで、償いをするのだ。ぐ、と歯を食いしばる。今ここで見捨てるのだ。再び海を見据えて走り出した。背後に叫び声が聞こえた。あれは、おれが殺したのだ。


「―少年を保護!繰り返す、少年を保護しました!」

 海兵が電伝虫にそう告げている。海軍に接触することはできた。すぐに言うはずだった。自分はバレルズ海賊団の一員であることと、我々のやってきたことの全てを。それでももう大丈夫だ、とこちらを案じて毛布を渡してもらって気が緩んだのか、途端に知覚した寒さに凍えて何も言えなかったのだ。海兵の話を聞けばどうやら、バレルズ海賊団に拉致されていた可哀想な子供という扱いをされるようである。毛布に包まれ抱えあげられる。船室へ運ばれるのだろうな、と考えたが思考はそこで断絶した。ふ、と意識が遠のいたのだ。

 ああ、ああ。これで漸く――。



 海兵、X・ドレーク。座学、実習ともに好成績。問題を起こすこともなければ口論しているところすら誰も目撃したことがない。おとなしい。真面目。何を考えているかわからない。模範兵。どこで何をしていたのか対人剣術では負け無し。深海や冬の夜のように冷たい独特の雰囲気。近付き難い。それが彼の、出自を知らない周囲からの評価だった。混んでいる海軍基地食堂でもなお彼はぽつりと孤立している。

 バレルズ海賊団とドンキホーテファミリーの取引が行われるはずだったミニオン島。そこで保護されたドレークは海軍が引き取ることになった。海賊による被害で生じた孤児は当人が望めば海兵として育てられることとなる。彼もまたその一人だった。更に言えば、彼は元海軍将校でありながら海賊に成り下がったバレルズの息子で、その一番の被害者と言っても過言では無かった。海軍としてはドレークを海兵とすることで汚点を少しでも雪ぎたかったのかもしれない。保護されてから、海賊団の行ってきたことやバレルズが海賊になった経緯を片っ端から供述し据わった目で罪を償いたいと語る彼の様子は異常だったらしく、彼を海兵として育てることはすぐに決定したのだった。

 ドレークは自身の扱いに対して何も文句はなかった。寧ろ願ってもないと思ったほど。幼少期から憧れた海兵に漸くなれるというのだ。ただ、海賊行為をしていたという事実は彼の心に深く根を張っており一度はその申し出を辞退した。こんな自分が海兵になっていいはずがないのだと。しかし周囲の説得―境遇を考えれば仕方がないだとか、司法に基づいても情状酌量が認められるだとか、その分正義を背負ってくれだとか、そんな優しい言葉をかけられれば自分の夢にも素直になってしまう。勿論ドレークの罪は重くない。それでも彼は背負い込みすぎるきらいがあったので、全て自分の罪であると考えていた。父を止めることもなく従ったのも、言われるがまま海賊行為をしたのも、あの日父を含めた船員を皆見捨てて逃げたのも。自分の足元には無数の命が這いずり回って手を拱いているのだと、ドレークは常に思っているのだった。

「隣いいか」

 ドレークの返答も待たず隣にどかりと腰掛けたのは白髪の男。坊主頭に葉巻を咥えており、誰が見ても海兵というイメージからは程遠いと思うだろう。

「…どうぞ」

 彼の名はスモーカー。自らの信条を第一に置くためか上官の命令に背くことは日常茶飯事という、まごうことなき問題児でありその扱いづらさは海軍上部に野犬とまで揶揄される男だった。

「お前がドレークか」

「はい」

 返事をしながらドレークは今日のメニューであるカレーライスを頬張る。隣ではスモーカーが葉巻をぎゅうと消して食事の載ったトレーを置きスプーンを手に取ったところだった。ドレークにとって、人と喋ることはあまり得意ではない。周囲全てが自分を虐める「敵」だった思春期を経れば当然だろう。必要最低限の応対を続けていれば任務以外で関わってくる者もいなくなるし好都合だとドレークは捉えていた。スモーカーは今までの周囲とは違っていたようだが。

「対人組手で負け無しの男がいると聞いていたが、随分とおとなしい」

「ええ、まあ…」

 スモーカーが話しかけ、ドレークがごく短い返事をする。かちゃりかちゃりとスプーンと陶器の皿が触れ合う音がして、またスモーカーが言葉を発する。その繰り返しだった。

「…バレルズという海賊を知っていますか」

「いや」

 我慢比べに負けたのはドレークだった。いや、スモーカーの方はそんな勝負をしているつもりなど毛頭なかったのであるが。

「元海軍将校でした。おれはそれの、息子です」

 人付き合いの無いドレークとはいえ、スモーカーのことは小耳に挟んでいた。海賊に容赦のない彼は確かに強いが扱いが難しくてかなわん、などとぼやく上官は何度も見てきた。だから自分の過去を告げればこの男はきっと立ち去るだろうと思ったのだ。

「そうか」

 しかしながらスモーカーの返答の声の調子は変わらなかった。例えば、明日は雨が降るそうですよという会話の返事のようなそれにドレークは困ってしまう。

「…だから何だ、と言えるほどおれは割り切れねえが、現状お前は海兵だ。共に海賊を捕縛するのに連携することもあるだろ」

 勿論、海賊に味方したり海賊になるってんなら容赦はしねえ。そう付け加えてスモーカーはまた匙を動かした。

 問題児と模範兵。ここで出会った正反対の彼らは、訓練を多く共にすることで戦友に近いものになっていくのだった。
 


 ――ああディエス、貴方までわたしを置いて行くのね。同じ暗くて寒いところなら、深海に来てくれたっていいのに。冥界なら海にだってあるの。それならあのとき、底まで連れて行ってしまえば良かった。ねえ、いい加減目を覚まして。まだわたしに会えてないでしょう――

 瞼の裏に海を見た。沈みゆくおれの周囲をくるくると泳ぎながら少女はそう囁いたのだ。


「やっと目ェ覚ましたか」

 霞む視界。一面が白いことしかわからないまま、ぼんやりと瞳を動かした。響いた声はスモーカーのもの。いつものように葉巻(病室だからか火は付いていない)を咥えて、ベッドの隣の椅子に腰掛けている。

「おれ、は、」

 意識は未だ不明瞭。痛みは全身にあり、痛くないところを見つけるのが難しいくらいだった。ああ、そうだ、確か海賊との交戦中に、と思い出しかけたところでぐん、とスモーカーが胸ぐらを掴んだ。

「ッあんな無茶な戦い方して!てめェは何がしてえんだ!…と怒鳴りたいところだが」

「…もう怒鳴っている気がするのだが」

 スモーカーという男は、仲間思いである。それでも本人の性格のためかその思いが優しく伝えられることは決して無い。部下には檄を飛ばし、同期には最低限の言葉だけをぶっきらぼうに伝える。それが常だった。まあ、今のように心配を怒りとしてぶつけてくるあたり不器用とも取れたが。ふ、と笑いを漏らしてすまなかった、と言えばスモーカーは舌打ちをして椅子に座り直した。しかしやはり、怪我人にする扱いではない。

「医者連中も匙を投げていたところだ。あのドレークが女のために戻ってきたとは笑わせる」

 そんな深刻な状況だったのかと包帯の巻かれた腹を撫でつきりとした痛みに顔を顰めてから、女?とスモーカーの発した単語に首を捻る。

「『ベリータ』」

「ッあー……忘れてくれ」

「なんだ、公言できない関係か」

 怒鳴ったことを茶化して帳消しにしたいのか、単純に気になったからなのか。前者なら不器用にもほどがあるだろうに。まあ彼の普段の言動からは容易に予測可能である。面白くなさそうな顔をしているものの口角がほんの僅かに上がっている。楽しんでいるな、こいつ。それは言葉に出さないままで口を開く。

「……幼馴染だ。まだ再会できてないのに死ぬな、置いていくな、と言われた。一応別れは済ませたんだがな」

 そういえば彼女の話を自分から誰かにするのは初めてだな、と思う。イサベル。久しぶりに彼女の夢を見た。いや幻想と言うべきか。当然彼女はあんなこと言うはずがないのだ。自分の願望が大いに入っているあの彼女はそれでも、褪せることなく美しかったが。

「まあ興味は無ェが。そのベリータの為にも死ぬなよ」

 目を覚ましたのならもう用はない、と言わんばかりにスモーカーは吐き捨てて部屋を出ていった。ひら、と後ろを向いたまま手を振って行ったあたり心配していないフリは大変に得意らしかった。スモーカーとも随分長い付き合いになったものだ。おれよりも要領はいいし手柄(海軍においてこの言い方は少々不謹慎だが)も十分あげている。しかしあの問題児っぷりは相変わらずなせいでろくに昇進もできていないらしく、今やおれの方が数階級も上にいたのだった。働きぶりを見れば最低でもおれと同じ少将にいてもいいだろうに。

 風が吹く。白いカーテンの向こうでは窓が開いていたらしい。遠くにすっかり日常の風景となった青い海が見える。きらきらと日光を反射する紺色は穏やかにのたうっていた。どうしても海を見ると溺れた記憶とイサベルを思い出してしまい、自分でも単純だなあと可笑しくなる。良い思い出が彼女に関するものしか無いわけではない。念願だった海兵としての生活は色濃いものだし、今となっては冗談を言っては笑い合える仲間もいた。けれど彼女との思い出は、特別だった。父に怯えて痛みに耐えている間、絶望の只中にいてもなお生きていられたのは彼女を希望としていたからだと思っている。

 彼女の存在は、「初恋」だった。少年時代に一頻り悩んで出なかった結論を、無理矢理そう出すことにしたのだ。未だ綺麗なまま心の奥底にあるこの感情を、恋と言わず何と言うのだろう。何年も募らせたこの思いを恋と定義して、これ以上複雑な感情にならないよう固定したのだ。濁ることもなければ褪せることもないこの想いは、恋であると。いつか再会したときにきっと思い出の中のままの姿をしている彼女に告白できるかと言われれば、それは難しい問題だったのだが。きっとこっ恥ずかしくて結局昔と同じように喋ってしまうのだろうな、と思う。

 そこまでして彼女を心の中に留めておくのは、自分が想うことをやめれば彼女の存在があやふやになってしまう気がしたからだった。彼女が過去の思い出になってしまうのが怖かった。自分が彼女の存在を左右するなんて不遜な考えじゃあないが、もしかして彼女は自分の作り出した都合の良い妄想なんじゃないか。彼女はおれの脳内にしか存在しないのではないか。そんな考えをしない日は無かった。けれどこの恋と定義した感情を抱え続けている限りは彼女の存在を信じていられるのだ。



「ロシナンテという海兵を知っているか」

 机に肘を付き口の前で手を組んで、センゴク元帥は言った。

「いえ、存じ上げません」

 敬礼をしたままピシリと返せば元帥はこちらに休めの姿勢を取るように促した。感謝します、と言って考える。自分は一体どのような案件で呼び出されたのだろう、と。辞令であれば掲示や放送、直属の上官から無機質に告げられるはずだった。

「…君が保護された日に死んだ男だ。あの島で」

 あの島、とぼかされたものの身体が強張る。父を見捨て殺した、過去と決別した場所だ。あれから十年近く経っているとはいえど、呼吸が詰まりそうになる。あの記憶は呪縛となって未だこちらを雁字搦めにしてくるのだ。元帥もまた苦虫を潰したような顔をして続ける。きっと、手塩にかけて育てた部下だったのだろう。

「ドフラミンゴファミリーで潜入捜査をしていた」

 潜入捜査。聞いたことはあった。海賊やマフィアなど、人々の安全を脅かすものの影響力や戦力的な問題で直接的な手出しはできない団体の動向を内側から監視し報告する部隊が存在する、と。海軍本部所属の海兵たちの間でまことしやかに囁かれる噂の域を出ないが、この話を知らない者はいなかった。

「どこへ入り込めば良いのでしょうか」

 元帥の口から言葉が続かないのを案じて、そう切り出した。呼び出されたのはそういうことなんだろう。憶測に過ぎなかったが、自分が適役であることは十分に理解できていた。表向きはアウトローに身を窶し潜入する。元々海賊船にいたのだから海賊としての振る舞いは心得ている。何より海軍に恩がある。悪目立ちをせずただ従順にしてきた自分は、信頼されているのだろう。潜入捜査、つまりスパイには絶対的な忠誠心が必要だ。あの日保護されていなければきっと今頃おれは死んでいる。それに罪を償うべきだと零したのが丁寧に記録されていたのか。それらを鑑みれば、なるほどおれは適任だろう。

「話が早くて助かるが…ドレーク少将。本当に良いのかね」

「ええ、構いません。適役でしょう」

 自分にしかできない任務だ。

「……四皇、カイドウ」

 その名を知らぬ者はいない。新世界を支配する海賊の一人。百獣のカイドウ。確かにあれは監視すべきだろう。四皇の中でも残虐性は抜きん出ているうえ、何度捕らえても処刑しても殺しきれないのだ。手出しが出来ないからと野放しにしておくわけにもいかない。

「あれは気に入った海賊を自らの船団に引き入れている」

「海賊として名を上げる必要がありますね。船医と航海士は引き抜いても構いませんか」

「…恐ろしいくらい上出来だな」

 不敬であることはわかっていながら元帥に返せば彼は面食らった様子で笑いを漏らした。

「構わん。船にしろこちらで用意するが指名したい者がいるなら言ってくれて良い」

「了解しました」

 敬礼をして回れ右をする。機密事項のはずだ、あまり長く話していれば周囲にも怪しまれよう。

「ああ、よろしく頼むぞ」

 ドアノブに手をかけたところで元帥から声がかかる。

「海軍本部特殊機密部隊SWORD隊長、X・ドレーク」

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