2 なつのひにおもいでを



 ぶかぶかの靴に手を離せば風に飛ばされそうな白い帽子。白地に青いライン、カモメのようなマークのあるデザインのそれは海兵のものだ。古くなった制帽を海軍将校である父から譲り受けた少年は、いつも薄っぺらい木の板で作った短剣を腰にさして海兵のような恰好をして浜辺を駆けていた。海軍基地にほど近いこの島ではよく見かける、海兵ごっこをする少年たちのうちのひとりだった。オレンジ色の髪に頭上の夏空を宿す透き通った青い瞳。幼少期の、X・ドレークである。

「あっ」

 案の定、とでも言おうか。夢中になって架空の海賊と闘っていた少年を突風が襲う。びゅうと飛ばされた帽子は少年の手をすり抜けてぱちゃん、と海面へ落下した。少年はすぐに靴を脱いで帽子めがけてざばざばと水をかき分けていく。我儘を言って父に貰ったものだ。なによりも大事であったし、泳ぎには自信があった。海兵になりたいのなら泳ぎもできなくちゃな、と教わっていたから日々練習はしていたし、おかげで島の子供の誰よりも遠くまで泳ぐことが出来たのだ。しかしながら少年に落ち度があるとすればそれは、海を甘く見ていたことだろう。

 どんどんと沖へ沖へと流されていく帽子、それを追いかける少年。両者の距離はだんだん詰まっていくが、子供の体力、限界はすぐである。気付けば靴を脱ぎ捨てた砂浜ははるか遠く、海は底が見えないほど暗く深い。その動揺は安易に彼を引き摺り込む。さっきまで浮かんでいたはずの身体が沈み始める。息継ぎの方法がわからない。次はどちらの手を動かすのかすら迷い……とぷん、と最後まで足掻いた細い手が水中へ消えた。

 人間は水中で生きられない。呼吸できないということすら忘れ吐き出した呼気が泡となって水面へ消えてゆく。出ていった空気の分入り込もうとする海水は簡単に人の命を奪う。朦朧とする意識の中、水面を眺める少年の視界に海よりも暗い青色がチラついた。ゆらりと海藻のように揺れるそれは、長い髪だ。毛先に向かって暗くなるそのゆらめきは、そして水中をなめらかに旋回するその人魚らしいシルエットは、幻覚か何かのようだ、と少年は思う。死ぬ前に何かおかしなものでも見ているのかもしれないな、と。

 沈みゆく少年の周囲をくるりと泳いでからやっと、その長い髪の持ち主である少女は彼が死にかけているということを理解した。少女は人魚であり、ながらく人間と接してこなかったせいで目の前の少年が動かなくなりつつある理由がわからなかったのだ。もう吐き出すあぶくもなくなってゆったりと海中に在るその小さな身体に少女はおっかなびっくり触れた。

 そうして少年を抱えて少女は一度大きく尾を波打たせ浮上する。抱き寄せるようにして少年の口を大気の下へ。きょろきょろと周囲を見回せば遠い砂浜と、浮かんだ白い帽子が少女の目に入った。あそこからやってきて、きっとこれが目当てだったのだろうなと少し首を傾げて考えて、少年を運ぶついでに帽子を咥えて砂浜へと向かう。きゅ、と服の端を少年が掴んでいる。まだ死んではいないらしい、とフラットな安堵を吐いた。

 少女からすれば少年は小さかった。彼女はその幼さにはアンバランスなほど身体が大きく、人間の大人ほどはあった。更に尾鰭を持っているので余計に大きく見える。彼女は人魚の中でも大型のサメの人魚だったので、そんな形をしていた。しかしいくら彼女が大きいと言っても、彼女もまた非力な子供であることには変わりない。それにすっかり意識を失った人間は子供と言えどかなりの重さがある。ずりずりと砂浜に引きずりあげるのも全身の力を使わねばならなかった。

 とりあえず、と少年の全身を海から出し乾いた砂の上へ仰向けに寝かせる。そこで少女は首を傾げた。そもそも人間が水中では生きられないことすらわからなかった彼女だ、どんな処置をすれば少年が目を覚ましてくれるのかも当然知らなかった。顔を覗き込んで頬をぺちぺちと叩いてみるも、てんで反応がない。

「ッ溺れたのかい!?」

突如響いた声に少女はびくりとする。ざくざくと砂を踏んでやってくるのは人間の大人の足音。急いでサメの下半身を人間の脚に変化させると少女は小さく、はい、と応えた。人魚は希少種族でありその美しい姿から高値で取引される。人魚は小さい頃から決して地上へ行くことがないように口酸っぱく言われるのだ。

 少年の頭の近くに膝をついたのは恰幅の良い初老の男だった。慣れた手付きで少年の胸部を圧迫し、蘇生を促していく。その甲斐あってほどなくして少年はごぼ、と水と息を吐き出した。少年が呼吸を再開したのを確認して男は少年を抱え上げる。

「この子は村で手当するよ。お嬢ちゃんは大丈夫かい」

 男の問いに少女はまたはい、とだけ返して男の背中を見送った。うっかり返しそびれた少年の海兵帽を手に握りしめたまま。

***

「青い髪の人…」

 ドレークは首を傾げる。先日溺れた自分を海から出してくれたのは青くて長い髪の人魚だった。グラデーションを纏ったあの髪色は海の中、意識が遠のく中でもはっきりと記憶にある。もしかしたら見間違いだったのかも、と人魚という条件は無視したとしても、そんな髪の人なんか見たことなかったのだ。少なくともこの島にはいないはずだ。手当してくれた男性も「あんな子は知らない」と言うので、彼はすっかり頭を抱えてしまった。あの日見失ったっきりの海兵の帽子について聞きたいという気持ちもあり、勿論お礼を言いたくもあり、何より、彼女と話をしてみたかったのだ。仮に自分の見間違いなどではなく彼女が本当に人魚だと言うのなら、海に憧れる者として単純に興味があった。どこの子供も寝物語に魚人島という海の楽園の話を聞いては心踊らせるものだ。いや、それ以前に、彼はどうもあのゆらめいていた髪に心惹かれたらしかった。もう一度、今度は陸の上であの光景を見ることが出来たなら――。少年の中ではすっかり彼女への感謝よりも好奇心の方が勝っていたのだった。

 ざり、と砂を踏む。自分が溺れたあの海辺だというのに、ドレークの抱いた恐怖心というものはあまりに薄かった。死に触れた恐怖よりも期待のほうがあまりに大きかったのだ。少年特有の希死念慮とも取れる無鉄砲さに支配されて、彼は一種の高揚感の奴隷になっていた。

 そのまま、波打ち際まで足を進める。珍しく穏やかな海、遠くに見える入道雲、日射しはぎらりと凶悪に肌に刺さる。北の海の短い夏、絵に描いたような光景だった。やけに感傷的な気分になって、或いは初めてのアンニュイな感情に大人になった気がしてわざと大袈裟にそれに浸って。少年は靴を脱いで座り込む。湿った砂が尻に気持ち悪かったが、足の指の間を擽るぬるい海水が心地良かったのでぼおっと波を眺めることにした。その様子はまるで、すっかり海に取り憑かれてしまったかのようだった。自分を助けてくれたひとも含めて、ドレークは海という概念に心奪われて――俗な言い方をするならば、恋をしていたのかもしれない。

「また溺れるの?」

「え、あっ?」

 突如真横から響いた声にドレークは素っ頓狂な声を出してずしゃりとバランスを崩した。その様子に首を傾げているのは彼と同じように砂地に座った少女。毛先に向かって水色から紺色へと変化していく長い髪を持つ彼女は、間違いなく数日前に溺れたドレークを助けた少女であった。丈の長いワンピースは暗い青。ごく薄い白いカーディガンを羽織って頭にはドレークの持っていた海兵の帽子を被っている。

「なんてね。かっこいい帽子だねぇ、少年。これ取りに行ったんでしょ」

 返すね、と付け加えて少女は帽子をドレークの頭へ被せた。大人用のそれはやはり彼には大きすぎるようで、ずるりと右に傾いて目の下まで覆ってしまう。

「ありがとう、ございます」

 形が崩れるのも気にせず、ドレークはぎゅうと帽子を握りしめてお礼の言葉を呟いた。もっと言うことがあるはずだったのに、いざ彼女を目の前にすると必要最低限の言葉すら出てこなくなってしまった。

「うんうん。人間、水中で息できないんだから無理しちゃだめだよ」

 隣からドレークの顔を覗き込むようにして言う少女は、座っていてもなお大きかった。後ろから二人を見れば、きっと波打ち際に座る親子に見えただろう。探していた人物がひょっこり現れた驚きであるとか、溺れながら見た髪色は陽光の下でも変わらずきらめいているな、とか。多すぎる感想が目詰まりを起こして、ドレークは彼女の忠告にひたすら頷くことしか出来なかった。

「あ、あの!」

 このままではいけない、と彼は声を張り上げた。少女の眼鏡越しの瞳を見据えて、口を開く。

「助けてくれて、ありがとうございました!おねえさん、は、人魚ですか!魚人島のこと知りたくて、あと、あと」

 しどろもどろにドレークは言う。黙りこくってしまってはいけないと思って、伝えたかったこと全てを吐き出したのだった。それにきょとんとしてしまったのは少女の方である。先程まで緊張していたのか俯いていた少年に捲し立てられて、大きい瞳を数度ぱちぱち瞬かせた。

「え、えっと…わたしがいたから助けられたけど次からは深いところ行っちゃだめだよ。あと…わたしは人魚であってる」

 彼女は靴を脱いで膝を折って座っていた脚を伸ばした。人間の肌の色ではない足首から下、指の無いつま先。ドレークは少しだけぎょっとして、それでも人魚と関わるなんて初めてだったからごくりと唾を飲んだ。まるで蝶の羽化を見守る子供のような眼差しで。


「ちょっとまってね」

 ぴたりと少女が脚を擦り合わせると、ひとつまばたきをした後にはもう、そこにあるのは二本の脚ではなくサメの腹だった。

「ふふん、人魚は歳を取ると二足歩行もできるのです」

 すらりと流線型を辿れば丸っこい三日月のような尾びれが見えて、自慢げな彼女の様子にぴったりなほどぴしゃりと水に濡れた砂地を打って音を立てていた。さながら、嬉しがる犬のように。

「わたしはねえ、ニシオンデンザメの人魚だよ」

 ぽかんと脚だった尾鰭を見つめる少年がにしおんでんざめ……と慣れぬ単語を反復するのを見て、少女は笑顔になる。彼女はここ数年、めっきり誰かと喋ることを避けて(或いは諦めて)いたので、嬉しくなってしまったのだ。

 少女は孤独だった。ニシオンデンザメは魚類の中で最も長命である。現在確認されている最高齢個体が五百歳を超えるとも言われており、それはその人魚である彼女も同じだった。少女は親族の中で唯一、そんな長命種の人魚であったために喋る相手などもうどこにもいなかった。齢百に近づこうとも見た目は幼いまま。友人が先に大人になってなってしまうのを、もう五度も経験した。置いていかれるのが嫌で嫌で、見た目で気味悪がられることもない魚人島でさえ息苦しかった。曖昧に海を漂って消えてしまおうか、とまで思っていたけれど、運命を変える出会いがあるかも、なんていう予言をくれた友人がいたのだ。それに彼女にとって地上は馴染みの薄いものだった。そこに希望を求めてみても良いのではないか、と思ったのだ。

「じゃあ、わたしのこともあわせて、魚人島について話すね」

 こくこく、とドレークは大振りに頷いた。もう言葉を発することすら忘れるほど興奮しているらしい。目をきらきらと輝かせて、湿った砂浜に手をついて身を乗り出して。こんなにも期待されるなんて、と予想以上の反応に少女はにこりと笑う。

「えーっと。魚人島は海底一万メートルにあって……」

 こほん。咳払いをひとつ挟んで改まって少女は口を開く。人に何かを説明することも期待の眼差しを向けられることも初めてではなかったのに、彼女の心は弾んでいた。これが運命ならば、という期待もあったかもしれなかったし、ただただ少年の空色の瞳に心を奪われてしまっただけかもしれなかった。ともすれば、その胸の高鳴りは地上への憧れすら内包した恋であったかもしれない。けれども一切、少女は感情を理解できなかったのだった。

 ***

「…いってきます」

 暗い室内にそう呟いて、何かから逃げるようにドアを手早く閉めた。家には誰も居ない。父は海兵だから週に一度、酷いときは月に一度くらいしか帰ってこない。母ももう既にいなかった。母との思い出は本当に遠い昔で、だから周囲の大人に心配されるほど寂しさなんてものは感じなかった。今は近所の家の人から面倒を見てもらっているけど、頼るのは得意じゃなかったから、もうほとんど一人で生活しているようなものだった。料理も簡単なものなら作れるし、父は家にいない分しっかりとした生活費を与えてくれたので困ることなど全く無かった。

 泳ぐ練習をして、本を読んで、それから立派な海兵になるべく剣の訓練をして。そうしたら一日が終わるので広いベッドで眠りについて。週末に父が帰ってきたら剣術の相手になってもらって、いろんな話を聞いて。その繰り返しだ。まだ小さいから海軍には入れないけど、いつか海兵になったときに一番の成績で一番早く活躍できるように頑張っていたい。かっこよくて大好きな父と一緒に活躍できるくらい強くなって、悪い海賊をたくさん捕まえるのだ。

 けれど、父は子供なんだから遊んでおけとばかり言う。本当はもっと身体を鍛えたいし、剣だけじゃなくていろんな訓練もしたいのに。村の子たちと遊ぶのは確かに楽しいけれど、どうしても年下ばかりなのではしゃぐことは憚られた。

 たったっと砂浜への一本道を駆けていく。砂浜にいる「彼女」に会うのがここ最近の日課だった。彼女は、人魚だ。数日前に溺れたおれを助けてくれたひとで、とても物知り。あと、綺麗な髪をしている。彼女の話はとても面白くて詳しくて、知らないことばかり。魚人島の暮らし、海の中の不思議な出来事、遠い国のおとぎ話、昔々の子守唄。彼女は何でも知っていたし、聞けば丁寧に教えてくれた。彼女の知っていること全てを教えてほしくて、こうやって毎日毎日会いに行くのだ。

「…今日も来たんだ、少年」

 砂浜に座って尾鰭で波打ち際を叩く彼女の姿は完璧だと思う。絵本の挿絵のようなその光景にいつだって見惚れてしまって、挨拶はいつも彼女からだった。

「今日は何の話をしようか…あ、深海の話とかどう?」

「…きょ、うは!おねえさんの話、聞きたい」

「わたしの?」

 こてん、と首を傾げて聞き返す彼女に頷いた。こうやって一緒に時間を過ごすことになって数日が経つけれど、そういえば彼女本人のことはあまり知らない。彼女が人魚であることと、その人魚についての一般的な知識は教えてもらったけれど、例えば彼女の好きなものだとか誕生日、挙句の果てには名前すらわからなかった。彼女といるのが楽しくて楽しくて、やっと今日互いに自己紹介すらしていないことに気付いたのだ。

「名前とか、まだ知らないから…あっ、おれ、おれの名前は、X・ドレーク」

 でぃえすどれーく…と繰り返す彼女。生まれてからずっと付き合ってきた名前だというのに、彼女の口からその声で呟かれるとどこか気恥ずかしいような、照れくさいような感覚になる。

「え、ええと…わたしの、名前は」

 自己紹介なんて初歩的なコミュニケーションのはずなのに、彼女は口ごもる。

「ううん…ソムニオスス・ミクロケファルスと名乗ろうかなあ」

「そむに…?」

 慣れない文字列に思わず口に出してしまう。彼女はいつもこちらに合わせて優しい言葉遣いをしてくれるのに、このときばかりはずっと早口で繰り返せなかった名前をもう一度ゆっくりと言ってくれることもなかった。

「あー…ソムでもニオでも好きに呼んで。別に君が名前をつけてもいいよ、ディエス」

 彼女の曖昧な言葉に引っかかる。彼女はもしかすると、名前が無いんじゃないか。けれどその理由を聞くのは幼い自分でも良くないことだとわかってしまって、少し迷う。
 名前は、その人を表すものだ。個人を個人たらしめるもの。それが無いのなら、彼女の存在はきっと曖昧だ。彼女の言う通りソムだとかニオだとかと呼んでも別に構わないだろうけれど、なんだか違う気がする。多分彼女の言った名前はさっき決めたものな気がする。

「……イサベル」

 彼女はおれの命の恩人だ。だから彼女にはせめておれの前でくらいはキッチリと存在してほしくて、随分と考え込んでから言った。ただの我儘だ。でも、おれが彼女にあげられるものなんてこれくらいしか思いつかなかったから、名前を渡した。彼女に出会った頃から抱いていた印象を詰め込んだ名前だった。かろやかで、透き通って、綺麗で、少し古風で。思い付いたというよりも、思い出したような感覚だった。うっかりど忘れした彼女の名前をやっと口に出せたような気分だ。

「イサベル。おねえさんの名前はイサベル。あだ名はベリータ」

 イサベル……ベリータ……今度はと彼女が言葉を繰り返す。気に入ってくれなかったらどうしよう、なんていう不安は不思議と無かった。

「イサベル、イサベル。うん、ふふ、いい名前!」

 花が咲くよう、というのは今の彼女のことを言うんだろうなと思う。ほころんだその顔はとてもしあわせそうで…思わずドキリとした。かわいい。顔が熱くなって、でも視線は逸らせないまま。

「えへへ、じゃあ、『イサベルが』お話するね!」

 イサベルの眼鏡の下、緑色をした瞳がきらきらと太陽の光を反射している。こんなに肌に痛いほど強い陽射しだというのに、彼女の瞳で跳ね返るだけでここまで柔らかく美しくなるのか。宝石で例えられるほど言葉を知らなかったし実物も見たことがなかったけれど、彼女の瞳は宝石みたいに輝いていた。きっと、将来実物を見たときには彼女のことと、今日の日を思い出すのだ。

 イサベルが喋るとき、いつもその言葉には独特の抑揚がついていて、まるで歌のようだと思う。今日は一段とそれが顕著で、こちらも心が弾んでしまう。見たことのない深海魚の話も、海の底の生活も。彼女が語ればなんだってありありと瞼の裏に浮かんでは消えていく。まるであのとき仰ぎ見た泡みたいだ。

 ざあ、と波の音が絶えず響くこの砂浜には、二人きりだった。

***

「大丈夫?」

 日陰を飛び石のように選んで跳ねていく。時折後ろを振り返るとこちらと同じステップでぴょこぴょこと跳ねるイサベルが見える。そうして少し進んだら彼女を待って、また少し進んで、の繰り返し。

「大丈夫だよぅ」

 今日は砂浜でなく、森の中を二人で歩いていた。別に彼女の話のタネが尽きたとか、おれが彼女の話に飽きたとかではない。彼女は魚人島という海底でずっと過ごしていた。それに彼女の話によればそこの環境は地上とはまるきり違っている。それならば、なんでも知っている彼女にも初めて体験することがあるのではないか…と考えたのだ。彼女の話を聞くのは好きだったけれど、いつもこっちが教えられてばかりなのは少しだけモヤモヤする。別に彼女に張り合っているわけじゃないけど。

「あった」

 目当てのものを見つけて、彼女を手招きする。二足歩行できるとはいえ、以前見せてもらった彼女の足に指はなかった。今はスニーカーにねじ込んでいるけれど、そんな足では木の根が這いずり回る森の中はさぞ歩きにくいだろうと思った。いつもよりゆっくりとした足取りだったおかげで、思ったより時間がかかってしまった。しゃがんで低木をがさがさとかきわける。

「イサベル、口開けて」

 五歩遅れてやってきて同じくしゃがんだ彼女は少し不思議そうな顔をしてから口を開いた。サメの人魚だと言う彼女の口は大きくて、歯はやはりぎざぎざとしていた。そんな中に、摘んだばかりの小さな赤い実をぽいと放り込む。

「ん…っ!?」

 驚く彼女の顔が嬉しくて、ふ、と笑いが漏れた。彼女に食べさせたのはただの木苺。自分も続けて摘んで、その小粒ながら濃厚な甘酸っぱさに目をぎゅうと瞑る。

「お、いしい…」

 もきゅもきゅと口を動かす彼女が、自分よりも大きくて年上の彼女が目をぱちぱちするのは、きっと「かわいい」と言うのだろう。

「こ、ここらへんは誰も来ないからさ!全部食べても大丈夫!」

 慌ててそう付け加えれば、声が裏返る。照れ隠しにまた一つ口に放り込む。マットな赤い色をした実はぷつりと口の中で弾ける。こつりと小さな種を噛み潰して飲み込んで、また次の実を探す。何か気の利いたこと、例えばこの実は集めてジャムにするとか、そういったことを一つでも言えたらよかったのに彼女の反応をちらちらと伺うだけで精一杯だった。

「ありがとね、九十年生きてきて初めて食べたよ」

「どうってことな…きゅうじゅうねん?」

 十年とかではなく?と彼女の言葉に引っかかってぎぎ、と長らく油をさしていない機械のようなぎこちなさで振り返る。彼女が嘘を吐くとは思えなかったし、けれど今目の前にいる彼女がそんなおばあちゃんみたいな年齢だとも到底思えなかったのだ。

「……あれ、言ってなかったっけ、わたし今九十…といくつかは忘れちゃったな、とにかくそんなお年頃なのです」

 がさがさと茂みをかき分けて白い指でぶち、と木苺を摘みながら彼女は言う。ひとつまた口に押し込んできゅうと酸味に顔を少し歪める。ああ、そういえば、と彼女の言葉を思い出す。こう見えて君よりずっとずうっと年上なんだから!と、ニシオンデンザメについて説明してくれたときに言っていたっけ。いやでもまさかそんなに年上だとは流石に思わなかった。

「長生き…っていうよりは成長が遅いんだよね、大体ふつうの十倍くらいかかるの」


「…じゃあ、今九歳くらいってこと?」
 彼女は一粒毟っては食べるのが面倒に思えてきたらしく、丈の長いワンピースの裾を少し持ち上げてそこに次々と木苺を入れていく。握りこぶしひとつ分の赤い果実の山ができた頃にはもう十分だと思ったのだろう、木の根に腰掛けてそれを摘んでいる。

「んー、そうなるねぇ」

「長生きするのってどんな気分?」

 自分もイサベルの真似をして、シャツの裾を伸ばして木苺を入れて隣に腰掛けた。ふと思い付いた疑問を彼女にぶつけると、あー、と煮え切らない声を出してをして彼女は目を泳がせた。何故だろう、特に失礼なことを聞いたつもりはなかったんだけど。

「ん、んん……じゃあディエスは生きててどんな気持ち?」

 彼女にしては珍しく言い淀んで、やっとそう問うた。視線はこちらではなく、遠くの木漏れ日を見つめているらしい。隣から見上げると眼鏡のフレームの隙間からその虚ろな瞳が覗いてゾクリとする。ついこの前宝石のようだと思った瞳なのに、別物みたいだった。同じ透き通った緑色でも、底の見えない淵のよう。うっかり足を滑らせればもう二度と浮上できない気がして、それでも目を離すことはできなかった。彼女はこちらを見もしないのに、きっと蛇に睨まれた蛙とはこういうことなんだろうと思う。あの日溺れた恐怖が、今やっとリフレインを始めていた。

「なんてね!ディエスも聞かれて困るでしょ?なんにも変わんないよ」

「そ、そっか」

 金縛りが解けたように、息を漸く吐いた。こちらを見つめる彼女の瞳は、あのときと同じきらきらと陽光を乱反射するものに戻っている。彼女は何でも無いようににこにこと相変わらず木苺を摘んでいるけれど、きっとこれは触れてはいけないことだったのだ。誰にだってある心の暗部。イサベルの場合、長命がそれだったんだろう。もし改めて彼女に聞くとしたら、それは自分も相応に歳を重ねた後だ。

「っそうだ!イサベル、他にしたことないの、ある?」

 冷や汗さえ背中に伝わせながら強引に話を逸らす。長い人生の感想よりも、この木苺しかり彼女の未経験を探るほうがきっと彼女も楽しいに決まっている。

「したことないこと…あっ星!」

「星?」

「夜空を見たい…っていうのかな。魚人島には擬似的な空はあっても宇宙は無いから…」

 ぴこん、と頭の上に感嘆符を浮かべながら言ったイサベルはそう付け加えた。なるほど。海底、しかも赤い土の大陸の真下にある魚人島では当然星など見ることができない。

「じゃあ、流星群を見よう!」

「りゅうせいぐん…」

 頭上にクエスチョンマークを浮かべる彼女に内心でガッツポーズをした。物知りな彼女でも、宇宙に関しては何も知らないらしい。珍しく彼女に説明ができるチャンスだ。自慢ではないけれど、おれは宇宙が好きだ。村の中の誰よりも詳しい自信がある。小さい頃にオーロラを見たときからすっかり心を奪われてしまった。流星や蝕なんて天体ショーに心躍るのはもちろんのこと、日々空を彩る星座、身近な月の満ち欠けも全てが楽しかった。暗さに目が慣れて、ただの黒い部分だと思っていたところにも無数の星々があることがわかった瞬間のおぞましさに似た興奮と言ったら――。それに、宇宙という存在は浪漫に満ち溢れている。世界中のどの国も、まだ宇宙の黒い部分を架空のものだと仮定することでしか諸々を説明できない。今輝いて見える光も、実は何万年も前に発されたものである。挙げ始めたらキリがないほど。海兵というものが存在しなければきっと、おれは宇宙物理学者を目指していただろう。まあ、海兵になったとてこの趣味をおいそれと放り投げることもしないだろうが。

「あと一ヶ月もしたら流れ星…星が、しゅんって降ってくるんだけど、それがたくさん見れる日が来るんだ!」

「すごい!」

「だから一緒に見よう、あの砂浜だったら灯りも少ないし見やすいよ」

 きっと冷えるから家からブランケットとお湯を入れた水筒を持ってきて、二人でマグカップにココアを作って飲むんだ。それからそれから、と計画は尽きない。彼女も想像の域から出ないにしろその光景に心を踊らせているようで、楽しみ!と胸の前で拳を作っている。おれだって楽しみだ。今から家に戻って、二人で本を読んで星について説明しよう。

 さあ、と風が駆け抜ける。涼やかな風は彼女の海色をした髪をふわりと揺らした。もうすぐ、短い夏が終わる。

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