1 泡沫にさんざめく



 ごぽごぽ、と不規則に揺れる陽光を仰ぎ見る。今この身体は、海中を漂っていた。青くきらめく海面は、まるでそよ風の抜ける木漏れ日、いや、本でしか読んだことのないオーロラがきっとこんな感じなのかもしれない、それとも…と足りない頭は考えるのはやめた。なにせあまりにも綺麗で、そんな思考をして意識をそいでしまうくらいならば何も考えずに眺めて脳裏に焼き付けた方がよっぽど有意義だったからだ。もういっそ、ずっとこのままでも良いと思った。文字通りのマリンブルーに透明な大小の球が合わさって、絶えず形を変えながら昇ってゆく。その泡を吐き出したのが自分の口であることも忘れてただ見惚れていた。陸から見ればのぺりと在るだけのように見える水の塊も、その中から見れば泣いてしまうほどに美しい。涙は海へ溶けていく。自分と海の境目が消えていくようだった。夥しい生物が生まれ、消えていくこの海というものは残酷で、優しい。溺れるというよりは蕩けていく感覚だった。死に面して確かに苦しいというのに恐怖はごく薄く、寧ろ眠りに落ちるような安らぎさえ感じる。このまま海の藻屑になってもそれはそれで構わないと思った。だって、こんなにも綺麗なのだ。

 ふわりと身体の沈む速度は緩やかであるのにいつまで経っても背は底に付かない。けれど振り返ることはできなかった。見てしまったが最後、いもしない怪物が暗闇に赤い目を爛々と光らせてただ口を開けているような気がしたのだ。その怪物を直視すればきっと、ぎざぎざした牙で、まるで紙を破くような気軽さで肉も骨も一口に引き裂かれてしまうのだから。
 遠くなっていく水面は相変わらずきらきらと輝いて、いつか父がお土産に買ってきたガラス細工のようだと思う。やっぱり下手な例えしか思いつかなかった。クジラを模したそのオブジェは、透き通っているのに今にも動き出しそうだと感じてしまって、何度もそろりと触れては生命でないことを確認したくなるのだった。これならきっと触れても怒られることはないだろう。そう思って伸ばした手は掴むというよりも藻掻いて苦しそうで、何より自らの認識と異なるのは、それがまだ小さく傷もない子どもの手だ、ということ。

 ――ああ、これは夢だ。

 夢だと気付いてもなお、身体は沈んでいく。この夢は何度も見た夢だ。もうすぐ「彼女」が現れて、砂浜まで引き揚げてくれる。幼い頃の記憶のリフレイン。擦り切れるほどに何度も何度も繰り返し再生した記憶。閉じかけた視界の端に、青いグラデーションの髪が揺れる。ゆらめく青は毛先に向かって段々と暗くなっており、まるで海のようだと思った。浅い海の透き通る水色から、船から見下ろした深い海の青。そこから先はほとんど紺や黒なのに、ところどころちかちかとしているのは深海に光るまだ見たこともない生物なのかもしれない。兎にも角にもその光景はすっかり頭にこびりついてしまって、薄れゆく意識の中僅かに見ただけのはずだというのにいつもあらん限りの言葉で褒めそやしたくなってしまう。けれどもどれも言葉足らずで、それこそ口から昇っていく泡と一緒に消えてしまうのだ。

 背には細い腕が触れ、浮上するにしたがって脚だけが名残惜しそうに沈もうとする。足の甲を水が撫で、それが底へ底へと引き摺り込もうとする手のようだった。そうか、海は母だ。だから人は海を目指し、こうやって不意に母へ抱かれたいのだろう。怪物の顔を持つ母だというのに、人間は都合の良い部分にしか興味がない。

 結局、自分は彼女を選んでぎゅうと彼女の纏う衣服の端を握りしめた。そうして爪が食い込むほど手を握り込んで、その痛みで覚醒へ至る。冷たい海水は冷えたシーツへ。きらめいた泡は部屋へ射し込む朝日へ。いつも通りの光景だった。すっかり大人になってしまった身体は彼女に会えなかった期間の象徴。彼女がすくい上げたのは少年の自分であって、決してこの体躯の自分ではないのだ。お伽噺の想い出に拒まれているような気がして、それなら自分はせめて目の前にある現実を拒みたくて、手で顔を覆う。ああ、と掠れた声が漏れた。やっぱり、もういっそあのときあのまま海に沈んでしまっても良かったんじゃないかと思ってしまう。

 だって今日もまた、目覚めた隣に彼女はいない。



 X・ドレークは、海賊である。

 懸賞金二億二千二百万ベリー。海軍本部少将の地位を捨て海賊に身を窶した男。その異色の経歴から注目を集める彼は、懸賞金が語るとおりの苛烈さを誇る。海軍に恨みのある海賊など一度海に出ればごまんとおり、そんな海賊たちの襲撃を全て返り討ちにしてきた。海賊といえば激情型が多いのが一般的なイメージであり実際もそうであるが、彼は珍しく冷静沈着で、それでいて容赦というものをてんで持っていなかった。彼と敵対した者は皆口を揃えて言うのだ。話の通じる相手ではない、と。ついた異名は赤旗。彼の海賊船の掲げる帆は赤く、それを見ただけで周囲は逃げ出していた。「皆殺し」だとか「降伏を認めない無警告の殺戮開始」などといった意味を持つ赤い旗を掲げる行為に由来するもの、旗が血で赤く染まるほど残酷という意味、或いはドクロを掲げない彼のあり方がさながら革命的であるという一種の希望。人々はそんな勝手な印象を赤旗という二つ名へ抱いていた。ただドレークという男は残忍冷酷であるという認識だけは共通しているのだった。

 というのが、X・ドレークの表向きの顔だ。

 彼の本来の立場は、海軍である。海軍本部機密特殊部隊SWORD隊長。それがドレークの本来の肩書きであった。手出しは出来ないながらも監視すべき対象の懐に入り込み、海軍本部へ逐一報告をするのが彼の主な任務である。対象は、四皇。偉大なる航路後半の海、新世界を統べる四人の強大な海賊のうちの一人、百獣のカイドウ。曲者揃い、残虐揃いの四皇の中でも取り分け凶悪な人物として知られるその男は、この世における最強生物とまで言われる。海賊として敗北したことも、海軍に捕縛されたことも、死刑宣告され処刑されたことでさえ一度や二度ではない。それでもこの世界中の誰もが、彼を殺すことが出来なかった。それに加え本人の残虐性もあり海軍としては彼を放っておくことはできず、ドレークに監視を命じたのである。勿論、その身分を偽り海賊としてカイドウ傘下に入ることで。

 海軍側の人間であっても、ドレークの正体を知るのはごく一部である。海軍および世界政府の情報操作だけでは簡単に尻尾を掴まれてしまうため、海賊としての実績をきちんと積み上げていく必要があった。かつて自らを苦しめた海賊として生きるのが彼にとってどれほどの苦痛であったかは誰もわからない。けれども彼の実情を知る者は皆、彼ほどの正義を背負える者はそうそういないだろう、と無責任に言うのである。



「ドレーク船長、今後の航海についてですが」

 古い紙とインクの香り。視線を少し逸らせば分厚い丸ガラス越しに水平線を切り取って見ることができると言っても、この部屋はいつも胸躍る冒険活劇とは無縁の匂いがした。

 船長、とドレークへ呼びかけた男はこの船の航海士。彼は、ドレークが海賊として、特殊機密部隊の隊長として旗揚げをする前からの付き合いである。勿論今は海賊であり階級など関係ないのだからもう少し砕けた口調でも良いのに、とドレークは言うが、あくまで任務であるということを忘れないようにしたいと彼は繰り返すのである。隊長のドレークが真面目であるなら、部下もそのとおりらしい。なお、ドレーク海賊団には船長であるX・ドレークと一部船員の実情を知らぬ者も大勢含まれていた。全員が全員海兵であれば顔が割れて不審がられる。皆、彼が海賊に転向したと信じているのだ。

「次はシャボンディ諸島だったか」

「ああいえ、その前に一度船の点検をするべきだと報告が。ここからほど近いところに造船を主産業とする島があるようなのでそこに向かいたいと」

「頼む。他の皆には船内放送で伝えておこう」

「お願いします。恐らく今日の日没前には到着して、異常がなければ明日の昼過ぎには出発できるかと。ログは貯まるのに数ヶ月かかるそうなので問題はありません」

 てきぱきと報告し、海軍式の敬礼をしようとしたのをすんでのところで留めて彼は言った。シャボンディ諸島は、偉大なる航路を旅する全ての海賊が集合する立地にある。偉大なる航路後半、新世界へ突入するには海底一万メートルにある魚人島を経由する必要があるが、そこへ向かうには海中でも航行できるようにしなければならない。そこで新世界を目指す海賊たちは皆、シャボンディ諸島で船のコーティング加工を依頼するのである。この加工をすれば海底まで航行できるようになる。おかげでシャボンディ諸島では度々懸賞金が億を超える海賊たちが鉢合わせては乱闘が起きるのだ。そうでなくとも小競り合いや世界政府に黙認された人身売買なんかが日常茶飯事のその島に不安が残る状態で入るのは些か不用心だろう。

 修理が不要ならばそれで構わない。丁度船員たちのためにも息抜きは必要だと思っていたところだったのだ。何しろ暫く上陸の無い航海だったので。海兵にしろ海賊にしろ漁師にしろ、海に生きると言えど人間はどうしても陸が恋しくなってしまうらしい。人間は海では生きられない。海を求めてなお陸に縛り付けられる。つくづく可哀想な生き物だ、と自虐を込めてドレークは溜息を吐いた。

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