アップルパイの言い訳



 皿の上には小さなパイが一切れ。さっくりと焼き上がった生地、こんがりと網の目になって色づいているそれは、これでもかとシナモンやバターのお菓子の香りを漂わせている。
「これは」
「アップルパイだ」
 アップルパイ…と繰り返したワラビはちょこんと椅子に座って目の前に置かれた焼きたてのパイを眺めている。片方だけの瞳が見開かれてきらきらとして、その香りに耐えきれなかったのかすん、と匂いを嗅いで開いた口からはふわぁ、とため息を漏らした。そしてこっちを見て、本当に食べても良いのか、と口を開くのだ。未来を視るまでもなく、いつもどおりわかっていたことだったので了承の意味を込めて頷く。
「い、いただきまぁす」
 小さな銀のフォークがさくり、と生地に刺さる。ぱりぱりと散るかけらに慌てながら少女は漸く一口分を口へ運ぶ。ゆっくりとした咀嚼に遅れて、ぱちぱちと少女はまばたきをした。口に広がる甘酸っぱさと香ばしさにキャパシティオーバーしているのだろう、飲み込んで数秒してやっと、おいしい、と呟いた。
「あのっ、さくってして、りんごがじゅわってして、とろとろで、ぱりぱりで、」
 いつもの何かに怯えている顔はどこへやら。へにゃりと眉を下げて口元を緩ませるその表情は自分こそが世界一の幸せ者だと雄弁に語っている。どんなパティシエも料理人も、自分の作ったものにこの顔をされればきっと嬉しさで舞い上がってしまうだろう。
 ワラビがこれまで口にしてきたものは果物だけだった。だからこの国にやってきて初めて菓子を見たと言う。だから毎日こうやって様々なものを食べさせるのが習慣になっていた。フォークやスプーンの使い方がわからないと言われたときは頭を抱えたが、それでも慣れない手付きで一生懸命にロールケーキを食べる様はあまりにも、可愛らしかったのだ。いや可愛い、なんて言葉で無理に表現しているだけなのだが。少女が初めての食感に、味に、見た目に驚いてはまるで宝石を鑑賞するようにきらきらと瞳を輝かせる様は何より素敵だったし、こちらが日常にしている砂糖や油、香辛料ひとつとっても新鮮な反応を示す様は万華鏡を見るように綺麗で愛おしかった。まるで動物への餌付けね、と言ったのは誰だったか。ワラビの反応を求めて菓子を食べさせる様はそう受け取られても仕方ないものだったので否定もしなかったが、これは彼女を人間にするための行為だ、とは思っている。いやその考え自体、ころころ変わる少女の表情を楽しむ免罪符に過ぎないかも知れないが。
「全部食べられそうか」
 んーっ、と至極幸せそうな声を漏らす少女にそう問う。少女は同じサイズの者と比べても胃が小さい。ケーキ一切れで満腹だと言ったし、そもそも砂糖や油に身体が慣れていない。だから甘味も毎日一品が限度だった。夢中でアップルパイを頬張る少女は頷いて、リスのように頬を膨らませて顔を蕩けさせた。「ほっぺたが落ちる」なんて表現があるが、彼女を見ていると本当にそうなってしまうんじゃないかと少し不安になる。
「んむ、ありがとうございます、んへへ…おいし…」
 そう言った少女の頬についたパイのひとかけらを指で拭う。少し身体を強張らせただけで物理的に蕩けることはなかった。彼女はどうやら極度の怖がりで、特に自分に対してはまだ怖さがあるらしい。これだけ体格差があれば当然か、とも思うが…今となってはあの初対面はどうにも拙かったことはわかる。いや仕方ないことだったのだが。
 幸せそうににへ、と蕩ける笑顔を浮かべる彼女にファーの下で口元が緩む。少女が幸せならばそれでいいか、と堅苦しい思考は止めにして、明日ワラビに食べさせるのは何にするか、と腕を組んだのだった。


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