20 刹那と永遠の狭間で



「すまない……場所を選ぶべきだった!」
「大丈夫だから安心して、私が選んだことだし」
 ふう、と息を吐く。なんとか戻った人の身体に不備がないことを少しずつ確かめながら彼にそう返した。絆された、なんて受け身ではなく自分から望んだ行為だったけれど、全くその後のことを考えていなかったあたり随分浮かれていたのだろう。今は招待されたパーティの最中で、ここは自分の棲家でもなんでもないのに、今思えば馬鹿だ。でも、時と場合を選べるほど時間は無かった。生は有限だからだ。それもこの学生の間となれば、特段に。
 呪いが解けた。なんともまあ、呆気ないものである。自分自身でかけたものだったし、呪いで困ったことなんか一つもなかった。そもそも解く気がなかったからあんなテンプレートな条件にしたわけだし。蛇の姿で彼の隣にいるはずだった。けれどそれが難しいとわかって人間の姿を手に入れた。元々ごく小さなヤモリだった以上蛇の姿でいることは不便では無かったし、むしろ捕食される危険性が下がって良いくらいだった。人間の形をとる術は身に染み付いているし呪いが解けても問題なかったのだ。あくまでこれは物理的な結論で。精神的なものとしては問題が山積みだった。彼に見せていた姿全てが偽りであると露見させる行為であるし、常日頃見せていた蛇の姿ほど綺麗なものでもない。彼に拒絶されたらどうしようという不安で溺れそうだった。彼に拒絶されたがっていたのに、ほんの一月でとんだ心変わりである。恋は人を馬鹿にする。それは真実だし、であるならば恋を頼りにここまで生きてきた私は正気に戻るのが怖かったのだろう。馬鹿のままでいたかったのだ。恋と共に生まれた自我だから、今更正気に戻ったとてやっていけるわけがない。
「レト」
「うん?」
 セベクくんはさっきから何やらそわそわしている。居心地が悪いというよりは、何か喜びたいのを抑え込んでいるようなポジティブな雰囲気で。それにしても燕尾服の彼は大変にかっこいい。すらりとして筋肉のついた長身を覆うその黒は、彼を存分に引き立てている。服に着られることもなく、彼だけが目立つこともなく。随分と良いものを用意してもらったことは素人目から見てもよくわかる。式典服を纏うときよりは薄めのアイラインも、あくまでナチュラルなもの。彼を自然体そのもののように装っている様は、まるで完成形だ。彼の姿こそがこの世界の完璧のように思えた……なんて、本人に言えばきっと「では若様は宇宙一だな!」と声を張るのだろうけれど。
「いや、」
 彼にしては珍しい。どんな時でもハキハキしているのが彼だとばかり思っていたけれど、恋があり方を変えるのは彼に対しても適用されるのだろう。なんて考えていた矢先。私の背を摩っていた彼の手が私の腕を掴んで引き寄せた。あ、と声を出す余裕もなく彼の胸へ収まってしまったものだから、思考をする暇すら奪われてしまった。私はまた、彼に抱き締められている。
「えあ、う」
 数秒黙った後、やっと現状を理解できた私はそんな素っ頓狂な声を出した。何の脈絡もなかったじゃないか、と反抗しそうになって、そういえば「こういうのは聞かなくていい」と言っていたのは私の方だったな、と口を噤んだ。嫌じゃないし、むしろ彼の腕の中は落ち着くし、幸福で包まれている気分になる。ドッドッと走る彼の心音が聞こえるのも、なんだか私だけが胸を高鳴らせているのではないとわかって心地良かった。
「レト。好きだ」
 いつもに比べれば誰のものかすらわからないほどに小さな彼の囁き声は、鼓膜を甘く震わせた。ずるい。こんな、彼は抱き締めて一言発しただけだ。それだけで私という存在が曖昧になる心地がする。最上級の幸福なんかさっき味わったばかりなのに、こんなの幸福感の洪水だ。普段からイメージしていた私だったらここで彼に「私も大好き」と特上の甘くとろける声で返していた。でもこんな、こんなのはあんまりだ。彼が言っているという現実だけで身動きが取れなくなってしまった。相変わらず彼の心臓は早鐘もさながらの様相で、それは私も同じなのに、彼はそんな状況でも言葉を発しているではないか。
「私、も」
 なんとか絞り出した声は震えている。ああ、そんなの私が一番わかっているんだからそんな愛おしそうな目でこちらを見るのをやめてほしい。目を逸らしたいのに、この瞬間が続けば良いと彼の瞳を見つめている。少し緑みがかった金色は、全てを見通しているみたいだ。あたたかな森の色。
 と、見惚れた我々を現実に引き戻すように城の鐘が鳴る。毎時的確に時を告げるこの鐘の音は、私の住んでいる森の奥深くまでも響く。
「…はっ、しまった!三十分後に若様の挨拶がある!」
 ぱ、と城の時計塔を見上げた彼はそう言う。そうか、現領主様の挨拶の前に次期領主であるマレウス様の挨拶があるのだ。それにしても三十分後だし、まだ早いのだけれど。彼のことだ、きっと最前列でマレウス様の話を聞きたいに違いない。
「セベクくん」
「何……あっ!す、すまない、決してお前との時間を終わらせたいわけでは……」
「髪が乱れてるよ、直していい?」
「……ありがとう」
 ぴょこんと飛び出た前髪を撫でつける。そしてマジカルペンを一振りすればついでによれた襟も元通り。全てをキッチリと着こなした彼は素晴らしい。やはり彼は背筋をしゃんと伸ばしている方が似合う。
「きみは騎士だろ?主人を優先するのは当然じゃない」
 言えばセベクくんはキョトンとした顔をして見せる。別に彼に心労をかけないための方便ではない。本心からこう思っている。恋のために全てを賭す覚悟はあれど、彼本来の在り方を捻じ曲げてまでも隣にいたいというのはあまりにも傲慢で、怪物じみている。それは彼を好きと言うよりは彼を好きな自分が好き、と言うやつだと思うからだ。いざというときに彼が私ではなくマレウス様の元へ駆けつけようとも構わない。それが彼だからだ。学友となってまだ数ヶ月だけれど、彼そのものが好きだ。いつだって誰かのために一生懸命になれるのは、とてつもなく素晴らしい。
「ああ!」
 頷いた彼の、こういう顔が好きだ。ぱあ、と大輪の花が開くような、雲間から太陽が現れるような。さりげなく手を引いて大広間へ戻るセベクくんに、ほんの少しだけ照れたりして……ああきっと、最高の夜だ。
  
 *** 
  
 それを宇宙の始まりだと表現した存在に、心底嫉妬した。
 ただの接触のはずだった。ただ指先が触れるのと同じように、肩が触れ合うのと同じように。唇と唇が触れることをやけに神聖視さえするのは古典的表現の踏襲に過ぎないとばかり思っていた。読書が好きだ。どんな本であろうと、自らの知らない世界を齎してくれるから。だからよく見かけるその表現を決して馬鹿にしていたわけじゃない。ただ、現実にはありえないだとか、比喩としては大袈裟すぎるのではないか、とかをぼんやりと考えていた。
 けれど。
 先ほど、僕と彼女の間に宇宙は誕生したのだ。大袈裟な比喩でもなく、途方もない勢いで塗り変わっていく世界はそうとしか表現できなかった。触れ合う前の僕たちと組成は何も変わっていないのに、ただ二人一点で交わっただけで世界が全て、全て別物になってしまった。宇宙の始まりほどの概念で、星の終わりほどの衝撃で、僕と彼女は。古今の物語において、口付けというものが機械仕掛けの神さながらの暴力装置として扱われる由縁が、今漸く理解できたのだった。
 彼女が、愛おしくてたまらなかった。随分前から彼女に想いは寄せていたし、好きだという感情は溢れんばかりだったのだが、それでも。例えばこれが愛と恋の違いなのだろうか、とか、この瞬間が一秒でも長く続けばいいとか、そういう取り止めもないことを考えた。彼女の真の姿が顕になろうともそれは変わらなかったし、寧ろ増していくばかりだった。自分の掌の上にいる彼女が、あんまりにも好きだった。
 彼女の存在は、奇怪である。彼女は男であり、女であり、蛇であり、そして小さなヤモリである。彼女はそれを後ろめたく思っていたようだ。僕に対して偽りの姿で近付いたのがバレたら、と思っていたのだという。確かに普段の僕ならば、それは不誠実であると断じたかもしれない。けれど彼女が元の姿のままでは僕は彼女とここまで親しくなれなかった。彼女は僕に救われたと言っていたが、事細かに説明されてもなお僕は何も思い出せなかった。リリア様は彼女のことを知っている口ぶりだったので彼女との思い出は偽りではない。彼女も悪意を持ってやったことではなく、それはただ純粋な想いの成れの果てだった。だから良いというのが暴論なのは、他でもない僕が一番わかっている。しかし、恋のためにいくつもの国が滅んだのを、僕は今糾弾できなかった。恋とは、愛とは。我々感情を持つ者に与えられた不具合であるのだ。宿命であり、業であり。何人たりとも克服することのできないものだ。もし仮に修正されていたのなら、世界に溢れる恋物語は全て旧時代の遺物と成り果ててしまうだろう。
 あれほど、彼女を好きな気持ちは彼女を傷つけているのではないかと考えていたのに。全て塗り変わった世界はそれを肯定しているように思えた。いや、世界のせいではない。彼女に触れて、僕の心がすっかり方向転換してしまったのだ。憑き物が落ちた、とでも言うべきか。僕は彼女だけを愛しているわけではなかったというのに、今の今までそれに気付けなかった。あんまりにも愚かだ。僕は、レトという存在が好きだった。わざわざ彼と彼女とを分けて考えなくても良いというのに、触れ合わなければわからなかった。
 それに。彼女が随分疎ましく思っていたらしい元の姿も素晴らしいと思った。そもそも彼女の元の姿がどんなものであれ、既に好きになった気持ちは変わらないだろう。そもそもそれで変わるような気持ちであれば彼女に手紙など書かなかったし悩むことすらしなかったはずだ。
「レト」
 彼女がなんとか人の姿に戻ったのを見て、安心する。どうにも時と場合を考えるのは苦手な方だけれど、今回もそうだった。あくまで今はパーティの最中。こちらから招待しておいて彼女の姿を戻してしまうのは些か浅慮だった。実際彼女はすぐに人型をとることができたけれど、それは結果の話だ。
 大丈夫だから、と言う彼女をまじまじと見る。髪の色も相まって、彼女にはモノトーンがよく似合う。尾を引くようなドレスはひらひらと年相応の華やかさもあり、それでいて彼女の瞳のように優雅だ。ちかちかとところどころ煌めいているのが星空のようで、それがまた彼女の人外の魅力を強めているみたいだ。メイクも普段とは少し違っていて、可愛らしさよりも美しさを強調している。今更どきりと心臓が高鳴った。かわいい。綺麗。好きだ。僕ときたら彼女がせっかく着飾ってきてくれたというのに、今までろくに見ていなかったらしい。謝らなければ、と逸りすぎたせい。考え事があるといつもそれだけに集中してしまうのは悪い癖だ。だからまた、彼女にろくな言葉も告げられずに腕を引いた。抱き締めたくなった、と言えば彼女はまた顔を真っ赤にするだろうから、急いで口を噤んで。
 自分の心臓の音がうるさいのは自分が一番わかっている。彼女にも確実に聴こえているはずだ。それでも、彼女が腕の中にいるのはとてつもなく幸せだった。だから彼女に好きだと言った。若様の言葉をすんでのところで思い出し、彼女を怖がらせないよう、耳元で囁くように。
 ずっと彼女を抱き締めていられたら幸せだ、とそんな願いまで込めて囁いたはずなのに、鐘は鳴る。手紙の上でなく彼女の言葉で聞いた好意が嬉しくて嬉しくて、けれど僕には使命がある。僕は生まれながらに若様のためにあるし、物心ついた時からそうあるべきだと認識している。だからそう、うっかりいつものように口に出した。てっきりレトは良くない反応を示すと思っていた。頬に楓の葉を貼り付けてもおかしくなかっただろう。それでも彼女は、僕を呼び止めて、乱れていると細い指で髪を撫でつけたのだ。思っていたのとは違う反応に数呼吸分の時間息まで止める。
「きみは騎士だろ?主人を優先するのは当然じゃない」
 花咲くように笑いながら言う彼女に、心がぎゅうっと包まれたような気分になる。愛おしいとも違う、救われたとも違う、何かあたたかな感情。言葉のつけられないその感情は、けれど彼女には伝えなければと全てを乗せて彼女へ頷いて見せた。そのまま手を引いて広間へ戻る。今までで一番軽やかで躍るような足に、心地よく高鳴ったままの拍動。ああ、いっとう良い夜だ!

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