19 それは宛ら御伽噺のように



 ちりん。鳴ったベルに首を傾げる。これは来客用のものだが、誰も近寄らないこの小屋にとっては郵便物の到着を示すだけになっている。郵便、と言っても手紙はコウモリが配達している。茨の谷は領土が非常に狭いことに加え、全体が霧に覆われることも多い。そんな理由で視覚に依らず飛行できるコウモリが昔から利用されてきた。もちろん魔導式の模型を使おうとした時期もあったようだが、コストの問題からコウモリをずっと利用しているのだ。まあ、コウモリは茨の谷領主の眷属とされる存在だからという理由もあるだろうが。
「ありがとう」
 手紙を届けてくれたコウモリには、こう声をかけてお礼として食べ物を与えるのが通例だった。虫でも果物でも何でも良いのだが、私は虫を与えている。森の中で捕獲しやすいし、遠くまで飛んできた後に貰うならタンパク質の方が嬉しいだろう。実際、小皿の上に置いて渡せば美味しそうに平らげてからキュイ、と鳴いて帰っていく。まああんな肉付きの良い芋虫美味しいに決まってるよね、ヤモリだからわかる。閑話休題。
 手紙の差出人は、もちろん彼だ。昨日の今日で手紙が届いたあたり、随分彼を悩ませてしまったことは事実だろう。本来ならば私から手紙を送るべきだった。いや、本当は無理に押しかけてでも会ってこの口で説明するべきだった。ああ。封を開けるのが怖い。ペーパーナイフを持つ手が震える。
 ぺらり。中に入っていたのは便箋一枚だけだった。いつも通り大ぶりな彼の文字で綴られていたのは、簡潔な謝罪の言葉と控えめな誘い。彼にしてはあまりに素っ気ない文章に、きっと会って話したいのだろうという感情が透けている。けれど、パーティの準備があるので次に会えるのは当日だとも綴ってある。名残惜しそうな弱々しい字に、少しだけ目頭が痛い。
 〈招待はしたが、来る来ないはそちらの自由です。会えるのを、楽しみにしています。〉
 そう結ばれた手紙を、ぱたんと畳む。兎にも角にも、パーティ当日までに準備を万全にしなければならない。彼への弁明、謝罪の言葉。ドレス、立ち居振る舞い。何より、彼と喋ることができるだけの精神状態。それらを完璧にして、それでやっと彼と話す権利が得られる。
 ひとまず、ドレスを用意しなければ。彼の反応を思うにかなり期待しているはず。生半可なものは用意できない。いっそどこぞの成り上がりプリンセスのように魔法でドレスを用意してしまおうか。黒曜石をちりばめたひらめくレースのドレス。ガラスの靴は用意できないけれど、彼とは一晩限りじゃ終わらない。彼ならばきっと、靴がなくとも私を見つけてくれる……なんて。彼への期待が、その分私を葛藤させているのに。
  
  
「受付はこちらで良いですか?」
 ハロウィンとは異なり、ランタンではなくキャンドルがそこら中に浮遊する夜。ふわふわとオレンジ色の暖かな光に彩られた街並みは、街明かりの少ないこの谷では随分と幻想的な光景となる。一際大きなキャンドルが飾られた城門付近、ここがパーティの受付となっていた。遠目からは何度も見ていたけれど実際にここまで来るのは初めてなので少しばかり緊張する。
 受付を担当しているのは壮齢の男だ。どうも現役を引退した近衛兵が担当しているらしい。なるほど、引退したとはいえ勝手のわかる存在がここにいれば牽制効果は抜群だろう。不埒者が現れても手練れの彼らならば難なく確保できる。
「はい、カードを拝見します……おや。ジグボルトの坊やのご招待ですか」
「ええ。彼とは学友でして」
「それは何より。ではお楽しみください」
「ありがとうございます。そちらも良い夜を」
 にこり。笑って言えば受付の男性は少しも怪しまずに同じような笑顔を返した。この谷には魔法が染み付いている。正体を見透かすのもお手の物だ。だから私が少女の姿をして、男子校に通うセベクくんと学校で知り合ったと言っても何の訝しみもおぼえない。これだから谷の大人は。あれこれ詮索されないのは良いことだけれど、見透かされているのはどうにも居心地が悪い。まあ、もう既に正体を隠すことはやめたから良いのだけれど。私の存在は霧の中からやってくる存在として認識されているはずだ。
 それにしても。この国は狭いせいで誰も彼もが顔見知りだ。噂好きの人間ほどではないにしろ、皆それなりに人間関係を把握している。セベクくんは谷で近い歳の存在はシルバー先輩だけだったと言っていたし、彼もそこそこ目立つ存在なのだろう。というか代々ドラコニア家に仕えてきた一族だと言っていたし近衛兵であれば彼の親族が知り合いにいても不思議ではないか。
 きょろきょろと会場を見回す。大広間には黒い衣装に身を包んだ老若男女が大勢いる。彼は目立つ髪色をしているとはいえ、この中から探すのは少しばかり骨が折れそうだ。シルクハットにタキシード、白黒のつぎはぎをしたドレス、尾を引くようなタイトスカート。皆モノトーンという目立たない色合いの中で、かなり個性を強調した格好ばかりだ。この中であれば、私のドレスも悪目立ちはしないだろう。ふわりと広がるレースはフィッシュテールドレス。肩だけを出すスタイルで上品に仕上げているのとは裏腹に、ミニハットは僅かに可愛らしさを醸し出している。レースの所々にあしらった黒曜石の粒はキャンドルの灯りをちかりと反射している。大丈夫、これならば彼にがっかりされることもないはずだ。
「あ……シルバー先輩!」
 ふと目についたのは彼だった。銀の髪にオーロラ色の瞳。いつもは髪を遊ばせている彼も流石にキッチリと撫で付け、燕尾服に身を包んでいる。王子様、と言っても過言ではないその姿ではあるが、あいも変わらず眠たそうだ。彼のことだし、きっとセベクくんの居場所も知っているかもしれない。
「お前は……」
「ファンデルスです、レト・ファンデルス。セベクくんを見てませんか」
「ああ」
 そうか、私が女性としてある姿を彼が見たのは一度きり。それに今の私は随分着飾っている。そもそも男の姿をとっていたとして、一度制服を脱ぐと判別に時間がかかるだろう。私も彼がシルバー先輩だと判断するまでに少し躊躇ったくらいだ。
「セベクなら拗ねていたからな、食べ物の近くか広間の隅だろう」
「何かあったんですか?」
「マレウス様に今日は護衛をしなくて良いと言われていた」
「ああ……」
 しょげる彼の姿が安易に想像できる。このパーティは規定の時間を除けばかなり自由なものである。それ故に領主の挨拶までは会場の料理を食べるも良し、楽団の側で踊るも良し、話に花を咲かせるも良しという、他地域のイメージする茨の谷とはかなり異なるだろう様相を示している。その領主の挨拶というのも手短に行われるうえ、あくまでフィナーレの花火の前座にすぎない。これも風習通りというのだから不思議なものだ。
「ありがとうございます、それでは良い夜を」
「ああ、良い夜を」
 こつ、とヒールが音を立てる。あまり踵の高い履き物には慣れていないけれど、今夜だけの場の浮かれ具合を模しているようで嫌ではない。
「お嬢さん、お飲み物をどうぞ」
「え、ええ。ありがとうございます」
 彼を探すために立ち止まった矢先、す、とグラス入りのドリンクが差し出される。ワイングラスに注がれているのは赤く綺麗な液体。香りからして、おそらくコケモモのジュースだ。僅かに吹き込まれた二酸化炭素はしゅわしゅわと泡立って宝石のような煌めきを与えている。会釈をすれば私にグラスを渡した女性は軽く礼をしてまた他の客の方へ近寄っていった。大皿料理が乗るテーブルに近いせいだろう。甘酸っぱい果物と香草と脂の香りが鼻腔を擽る。
「……良い夜ですか」
 と、壁際に見つけた彼の隣にすす、と寄って声を掛ける。シルバー先輩の言っていた通り少し、元気がない。壁にもたれ掛かって同じようにグラスを持った彼は、随分絵になる。おそらく先輩と同じ燕尾服に、いつもより僅かにキッチリと撫で付けられた髪。溜息が出るくらいに、素晴らしいと思った。かっこいい。文句なしに、彼を形容する言葉はそれしか出て来そうにない。
「ッレト!」
 こちらを見て数秒後。飛び上がるほど驚いてみせた彼はやはり大声で私の名を呼んだ。一瞬だけ周囲の注目を集めて、またざわめきが戻ってから彼は少しだけトーンを落とした声でもう一度私の名を繰り返す。しどろもどろ。目を泳がせる彼は言葉に迷っている。
「……来てくれないかと、思っていた」
「ごめん」
「いや、あ……すまない、外に出ないか」
 彼のほっとしたような顔はいつも泣きそうなので、心がきゅうっと締め付けられる心地になる。このときばかりは幼さが現れて好きなのだけれど。そんな感情のアンビバレンスに蓋をするように謝ってから、彼の提案に頷いた。今夜は城内が一般開放されている。それは大広間だけでなく、城壁内側の庭園も同じ。きっと彼のことだ、静かなところへ案内するつもりなのだろう。持っていた苔桃のジュースを煽った彼と同じように飲み干して、ことりとテーブルの上へ。甘酸っぱくピリリと痺れる口内の感覚が、まるで心境を表しているようだ。どこか非現実的に浮き足立っているのに、彼との会話への不安感が弾けていた。
  
 ***
  
 城壁の内側。通常芝生が植わっているだろうここには、大量の茨が生い茂っていた。初夏には白く可憐な花をつけるこの植物も、今は棘が絡まり合う枝しか見受けることができない。この谷が茨の谷と呼ばれる由縁だった。居住区を囲むように茨が茂り、花の盛りには白く幻想的な光景をもたらすのだ。
「セベクくん、私謝らなきゃいけなくて」
 茨を浮遊するキャンドルが照らす光景に暫し見惚れた後、先に口を開いたのはレトの方だった。セベクもそんなことはない、と言おうとしたがまた彼女を怖がらせてはいけないと口を噤み彼女の声を聞いていた。
「きみのことは怖くなかったの、呪いが解けるのが怖くて」
 レトに見上げられ、セベクはくらりとする心地だった。彼女の言葉を一つ一つ噛み砕きながら頷いて、極力彼女を遮らないようにしながら。呪いが解けたらヤモリに戻ってしまうこと、その姿になればセベクに拒絶されてしまうかもしれないこと。辿々しく頼りない声色は、彼女にしては珍しい。
「ごめん、きみはそんなこと無いって言ってくれたのに、それでも嫌われたらどうしようって考えたら」
「嫌うものか!あの美しい蛇の姿も、学友としてのお前の姿も、もちろん可愛らしい今の姿だって好きだ。今更どんなに醜い怪物になろうと……レト
 震えながら言うレトに、セベクは耐えきれなかった。だから彼女の肩を掴んで、そう声を張ったのだ。声を抑えようなんて考えはもうどこかにすっ飛んでしまって、けれどそれ以上に彼女にこのまま喋らせるのだけはやめさせたかった。彼女には悲痛な声も姿も似合わない。だからそう言葉を発したセベクは、言おうとしていた無意識の殺し文句も途中で忘れてしまった。何せ目の前の彼女が、少し驚いた顔のままぽろりと涙をこぼしていたので。
「ごめ、ん」
「謝るな、お前は何も悪くないだろう?」
 同じ年頃の存在が一人しかいない中で育ってきた彼は、レトを宥めるのに必死だった。泣く誰かを間近で見るのも初めてだ。しかもそれが悲しみだけでない表情に彩られているのだから余計に理解が及ばない。泣いているのに、その顔は晴れやかで幸福さえ滲んでいる。読書は好きだ。未経験を与えてくれるから。必死に脳内の書棚を漁ってその顔と意味を探れど該当はしない。乱雑に足元に積み重なった本の中、棒立ちになって彼女の真意を考えた。
「私、やっぱり、愛されてる」
 だから彼女の言葉に、どうして良いかわからなくなった。頬を伝って雫になった涙にキャンドルの橙がきらきらと反射する。彼女の心ごと溶け込んだようなその様子に、彼は思わず息を呑んだ。
「レト」
 よくある話。悪い魔法使いに呪いをかけられた少女は、真実の愛という名の口づけで目を覚ます。百年の眠りも、押し付けられた醜い姿も。すべてを無かったことにしたら、めでたしめでたし。ありふれて、それでいてヒロインではないレトからすれば手の届かないものだった。幸福を掴もうものならば、醜い姿に逆戻り。彼女のあり方そのものがありきたりな幸福を受け入れられない。もちろんヤモリの姿になったとて、魔力も記憶も失われない。彼女のことだから十分もしないうちに人間の姿に変身することができるはずだ。それでも、あの矮小な姿に戻るのを見られるということが怖かった。偽りの姿で彼を惑わしていたと文字通り目に見える形で判明するのが怖かった。セベクの言葉を疑っているわけではない。自分自身がそう実感してしまうのが恐ろしかったのだ。
「呪いを、解いても良いか」
 セベクはレトの頬に触れ、親指で涙の跡を拭いながら問う。息を呑んだ。
「きかないで」
 五音の動きをしっかりと見届けた。幾分スローで再生される唇が、まるで一瞬のきらめきのように愛おしかった。
 彼女はつま先立ちをする。彼にそう言われては、もうたまらなかった。何度脳内で天秤をぐらつかせても出なかった結論が、彼にそうまっすぐ言われてしまっただけで天秤は音を立てて壊れてしまった。既に選択肢という前提すら無かった。自己嫌悪も恐怖も、躊躇いもすべて認識できなくなっていた。
 
 ああ、恋愛とは、革命である。
 
 唇を触れ合わせるだけの単純な愛情表現にここまで意味を持たせる知的生命体への讃歌、それで幸福を知覚する不具合。言葉を紡ぐ口を塞ぎ合って、言葉よりも多くの感情を一瞬に注ぎ込む。温度、呼吸、鼓動。混ざり合って、世界が停止していく。色付いた瞼の裏、筋肉の音にすら震える鼓膜。最上級の幸福と自我の喪失に等しい混沌が、そこにあった。
「あ」
 ぐるりと彼女の中身が揺れる。呪いが解けるのだと、初めての体験であるのにしっかりと理解できていた。ただいま、と言うべきだろうか。十年ぶりの身体に懐かしささえおぼえている。
「……随分、可愛らしい」
 まるで眠りだと思っていた。ヒロインがキスで眠りから目覚めるならば、ヒロインになれない自分はキスで異形に戻り、眠りにつく。だから彼の言葉で現実に引き戻されたような気分になった。彼の掌の上。小さなヤモリはその声を聞いて反芻する。初めて彼に出会ったときのことを思い出していた。彼の体温は変わらない。彼の言葉も、心からの真っ直ぐなものだった。こんなにも誠実な声を知らない。
 彼女のこの姿を見てもなお、愛おしさが止まらなかった。彼はどうしようもなく心を奪われていた。一目惚れから始まって、彼女すべてを愛していた。
 ふわりと浮かぶキャンドルが彼らを照らす。影のゆらめき、蝋の融ける音。この瞬間にだけは、永遠が存在していた。

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