18 恋する二人に導きを!



 は、と短く息を吐く。黄昏時、街頭の灯りの下。ぐるぐると廻り終わりも始まりもわからなくなったのは思考だけではない。胸の奥底が澱んで、口を開けばその澱みがべちゃりと出てきそうな心地だ。
 彼女は、僕を見上げて怯えていた。
 ずっと言われてきたことだった。背が高く牙まであるし、声も大きい。だから自分より小さい存在と関わる時は注意するようにと教わってきた。谷なら自分と同年代の存在はシルバーしかいなかったから、ナイトレイブンカレッジに進学した際はそこを気をつけるべきだと。きっとそうだった。少女の姿であるレトは、僕より遥かに小さい。抱き締めたときの細さと柔さが何よりも物語っていた。温かいのに、少し力を込めれば折れてしまいそうだと思った。潰してしまいそうだと思った。こんなに薄っぺらな身体のどこに臓器が詰まっているのだろうと不思議だった。柔らかい全身は女体ならではというよりも、彼女だからそうあるのだと思った。彼女がまさか自分の腕の中にすっぽりと収まってしまうとは思いもよらず、泣きたい気持ちになった。それと同時に、彼女のことをこのまま自分だけのものにしてしまいたかった。たまらず彼女の肩口に顔を埋めると世界が彼女の香りになってしまって、立っているのがやっとなほど目が回った。これが幸福だと言うのなら、随分野蛮だと思った。こんなにも腹の底が鳴るような、涎が出るような感情は幸福の対極ではないのだろうか。ずるりと鎌首をもたげた欲はより一層の幸福を追い求めていた。うっかり覗き込んだ彼女の顔が大変に美味しそうに見えた。赤く色づいた木苺のような唇を縫いとめてしまうのは大層美味だろうと思った。彼女の真っ黒な瞳はきっとその先を知っていたし、肯定もしていたと思った。けれど。
 制止された後に見た彼女の顔は、まるで怪物に喰われんとする乙女のようだったのだ。ごめん、となんとか絞り出した声が悲痛だった。彼女を怯えさせているのが自分だと気付くまで、一秒と少しかかったのが恨めしくて仕方がない。だから何を言えばいいかわからなくなって、すまないとだけ告げて出てきたのだ。彼女は口をはくはくさせていたし、きっと理由を述べようとしていたのだろうとは思う。それでも現状、立ち去るのが一番だと判断した。彼女を怖がらせたのに、ずっと居座るのはタチが悪い。だからここまで、駆けてきた。逃げてきてしまった。
 何がお前を好きだ、なのだろう。真にそうだというのなら、彼女を脅かす全てから守って然るべきだ。それなのに僕は彼女を脅かす存在になってしまった。僕は、彼女を愛する資格なんか無いのではないか。
「セベク」
「若、様」
 ああ、まさかこんなところでお会いするとは!手鏡を持っていないのが悔やまれる。髪は毎朝キッチリと整えているから走ったとてそうそう崩れるわけはないのだが、万が一があれば困る。若様に情けない姿をお見せするわけにはいかないのだ。
「っ若様!護衛役がいないのであれば僕を呼び付けてください!」
 彼はこの谷の次期領主。そんな存在がこんな暗い森の中を一人で歩いていると知れたら大騒ぎだ。確かに僕はお休みを頂いていたが、それくらいならば問題無い。若様に何かあってからでは遅いのだ。
「何、リリアには許可を取っている。この道をずっと行くと古城があるんだ」
「リリア様の許可があるのなら…いやしかし次は僕をお呼びください!」
 古城。あれは確か数世代前の領主様が建てたものだ。今は廃墟となっているが防御魔法は健在、若様であれば身の安全も保証されるだろう。それに、あそこには若様の好んでおられるガーゴイルが多く残っている。生憎僕にはガーゴイルの良さを理解できるほどの精神的成熟が足りないが、あの場所は若様にはたまらないのだろうなとは思う。苔生した屋根に植物に覆われつつある外壁。そこに一体化するガーゴイルの数々には一朝一夕では出せない深みが溢れるのだそうだ。
「それにお前は今日休みだっただろう。休むときはきちんと休んだ方が良い」
「し、しかし…」
「ではセベク。共に城まで戻ろうか」
「はっはい!ご一緒させて頂きます!」
 若様は臣下である僕をここまで気遣ってくださる。休みを肯定した上で、それでも隣にいたい僕の気持ちを汲んで共に歩くことへの大義名分を与えたのだ。これは護衛ではなくただ共に歩いているだけ。なんと優しく寛大なお方なのだと思うのはもうこれで何百回目だろう。
「こちらの今日を話したことだし、今日はお前が何をしていたのか、教えてくれるか?」
「勿論です!リリア様おすすめの書籍を探しに本屋にいったらレトと出会ったので」
 つっと言葉が詰まる。フラッシュバックする彼女の顔が、あまりにも苦しい。どうすればいいかわからず、当然それを知っているわけもない若様の方を見た。若様と二人きりで喋ることができている興奮と浮遊感、そして冷水を被ったような自己嫌悪で身体がバラバラになってしまいそうだ。
「どうした?」
 ごく優しい声色でそう問う若様に、ええと、と歯切れ悪く言う。若様のことだ、きっと僕がしでかした失敗などお見通しのはずだ。そもそも若様にこんな個人的な戸惑いを見せてしまうことすら恥ずべきこと。だからこそ、次の言葉を迷っている。若様の話を聞かせてくださいと言えば不審がられるだろうし、かといって若様に真実を告げない不誠実はどうあっても避けたい。僕は若様の臣下だ。いついかなるときも正しく胸を張れる行動をしなければならない。現状それができていない以上、どう言葉を繋げても言い訳や逃げになってしまう。
「いえ……その。実は彼女を、怖がらせてしまったみたいで。これからどうしたものかと」
「ほう?」
「ああいえ!このような私情を若様にお話しするなどもってのほかですので!」
 とんでもない!と大袈裟に手を振る。僕にとっては一大事ではあるものの、若様にとってはきっと自分の好きなものについてお話ししていただく方がよほど有意義だ。若様ならばきっと素晴らしい解決案をお持ちなのかもしれないが、それとこれとは話が別。自分で解決しなければ、彼女にも若様にも、自分自身にも示しがつかない。
「セベク。民の話に耳を傾けるのも領主の仕事だ。その練習台にはなってくれないだろうか」
 ふむ、と少し首を傾げた若様は、そう口にした。ああそうか、そういう考えもできる。若様は茨の谷の次期領主。今のままでもその職務を十分すぎるほどに全うできるだろうに、更に上を目指しておられるのだ。その発言を聞いただけでこの谷の素晴らしい将来が約束されたような心地になる。
「はっはい!若様の為ならばこのセベク、何度でも踏み台になって見せます!」
 満足そうににっこりと笑う若様に、けれどどこから話したものかと頭を捻る。
「僕は若様ほどではありませんが、それなりの身長があります。だからでしょうか、レトに触れた際に、怯えさせてしまったみたいで」
 そう話してみたけれど、だからどうしたいのかが自分でもわからない。どうすればよかったのか、という議論は過ぎたことである以上生産性に欠けるし、次はどうすれば良いか、という話は少々夢見心地が過ぎるだろう。彼女を怯えさせてしまったという事実は揺るがない。そんな僕がもう一度彼女に触れようとするのはあまりに我儘だ。
「彼女は元々小さき者でもある。種族差による感覚の違いは埋めるのが難しいからな」
 そうか、種族差。彼女は常々人間らしい見た目をしているし、普段はあまり感じさせないからかわかってはいてもつい失念してしまう。人間と妖精族という同じ見た目の種族であっても深い溝があるのならば、元々手のひらの上に乗るような体の彼女からすればそれはより大きなものとなるだろう。既に人間や蛇の姿に慣れてしまったとはいえ、生まれついた姿が最も安定するはず。だから彼女の感覚は小さいままの可能性がある。
「それで、セベクはどうしたいのだ」
「僕、は」 
 ここでやはり回答に詰まる。彼女にもっと触れたい、というのは確かに正しい感情であるが、これを中心に据えるには強欲が過ぎる。彼女は次出会ったとしても何も無かったかのようににこりと微笑んでくれるかもしれない。けれどここに対して何の話し合いもしないままでは、互いに心の奥底に蟠りを抱えたままで付き合っていくことになる。それだけは避けたい。避けるべきだ。
「彼女に謝ろうと思います。どんな理由があったかはわかりませんが、僕の行動で彼女を怯えさせたのは事実なので……」
「そうか」
 どうにか絞り出した言葉に、若様は慈愛に満ちた笑みを浮かべて頷いている。
「決まったな」
「はっ……若様のおかげです!きっと僕一人ではとても辿り着かなかったと思います!」
「そう卑下するな、お前の中でもう既に決まっていたのだ。僕はそれを誘導しただけだ」
 きっと五年ほど前ならば僕は若様に撫でられていたのだろう。僕を見る若様の瞳は非常に優しい。こんな素晴らしいお方の臣下でいられること、そして彼の治める領地の民でいられるのはとてつもない幸福だ。何度目かの実感ではあるものの、今までで一番強いその感覚に心が弾む心地である。それでいてもう泣いてしまいそうなくらいに感動しきってしまった。
「は、はい!」
「ふふ、では戻ろう。そろそろリリアも心配しだす頃だ」
 若様の言葉に大きく頷いて、市街地へと一歩を踏み出した。帰宅すればすぐにでも、彼女への手紙を書こう。急げば明日の夕刻にでも彼女の元へ届けられるはずだ。

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