17 少年少女は触れ合わない



 鬱蒼とした森はモノトーンの世界。霧深いせいか木々すら緑色というよりも黒色に見える。青空の下にあればきっと素晴らしく過ごしやすい場所だったろうに、この谷の気候では叶うことはない。居住区はともかく、森の中まで晴れるのは年に数度あるかないかだ。
 そんな獣の気配すらしないエリアに、小屋が建っている。石造りの壁に藁束を乗せた屋根。苔生した外壁は生命の気配を感じさせない。誰がどう見ても廃墟である。そこに、少女が一人で住んでいる。森の中とはいえ、近くには小川も流れている。市街地まで遠いのが少々悪条件ではあるが、ここに住んでいればいろいろと詮索されずに済む。そもそも少女は、この森で生まれ育った。そしてこの小屋で少女に成った。彼女にとって、ここはそこまで悪い場所ではなかった。
「あれ、粉末青翡翠切らしてたんだっけ」
 部屋の中心には大鍋が鎮座している。部屋の壁に沿って所狭しと置かれた薬品棚を漁りながら少女は言う。特大の柄杓は魔法でずっと大鍋をかき混ぜ続けている。ごぽごぽと泡立つ鍋の中はどろりとした緑色。ここに粉末青翡翠を入れれば透き通るピンク色になり変身薬の完成のはずだった。こんなことなら学校帰りに買ってくれば良かった。そう頭を抱える少女は大鍋の火を消す。
 今はウィンターホリデーの真っ只中。この家の主人である彼女も、ここへ戻ったのは三ヶ月ぶりだった。彼女はナイトレイブンカレッジの生徒である。学校の設備はどれも一級品であり高価な素材も珍しい素材も心置きなく使えるのが利点だが、やはりずっと生活してきたこの小屋も決して悪くはない。そもそもこの小屋は彼女のものではない。と言っても元の主人は既に姿を消している。維持魔法のせいでせいぜい五十年しか経っていないように見えるが、実際は数百年単位で主人は不在である。そんな小屋を彼女は利用しているだけだ。元の主人も彼女と同じように魔法士だったので、設備は元からあったものを適宜修理して使っているのだ。魔法は彼女にとって手足のようなもの。学校で学ぶ以前に身につけたものが殆どだった。
 少女はすっぽりと頭までローブを纏う。黒髪のボブに白い横髪というツートンカラーはかなり特徴的だ。あまり人目を引きたくはない。簡単な変化魔法で髪色の変更をしても良かったが、生憎彼女はこの外見にすこぶる自信を持っている。好いた男を恋に落としたこの見た目のことが気に入っていたし、だからこそみだりに衆目に晒したくはなかった。幸い、茨の谷には偏屈者が多い。フードを目深に被っていても怪しむ者はいなかった。
 
「これ、用意してくださいますか。お代はひとまずこれで。足りない分は後ほど」
 素材屋の店主は目利きだ。たとえ保存用のガラス瓶であっても一流品しか店に置かない。こちらが渡したメモを受け取った店主は三十分、とだけ告げて店の奥へ戻って行った。あまり客の詮索をしないのも良いところだ。それに、彼の持病を和らげる薬を持ち込めばある程度値引きしてくれる点も気に入っている。彼は極度の不眠症だった。
「どうしようかな」
 このまま街を散策するの悪くはない。けれどそれには少し中途半端な時間だった。隣の通りの書店にでも行こうか、魔法薬に関する書籍が入荷しているかもしれないし。
 惚れ薬はもう作らなくて良い。だからてっきり、自分はもう魔法薬に対する情熱を失ってしまったのだと思っていた。けれどそうもいかないらしい。だって暇があれば新たなレシピを模索し既存のものを魔改造してきたのだから、突然それをやめられるわけがない。もはやライフワーク、というわけだ。魔法薬の作成は楽しいし、突拍子もない素材から新たなものが生まれた時の快感といったら。もちろん、きちんと安全性を確保してからしか他人への使用はしない。というか、うっかり毒性を発現させないように書籍を片っ端から読みあさっている。知識はつけておかねばならない。   
「最新……」
 店先の棚をつつ、と指で辿る。茨の谷はそれほど僻地にあるわけではない。それでも妖精族という時間の流れにルーズな民がマジョリティなせいか、最新書籍と言いながら一年前のものが入荷されている可能性もある。それでも書籍よりも親族の誰かに聞いた方が早く深い知識が手に入りがちなこの谷では、たとえそんな書店でもありがたいのだ。
「む、すまない」
「いえ。こちらこ、そ」
 指先が誰かのものと触れ合う。人気のないこの書店で珍しい、と思い声のする方を見上げる。
「っセベクくん
「レトどうしてここに」
 本を探すのに集中していたせいだ。私が彼の気配を見逃すなんて…やはり親しくなったせいで慢心しているのか?そんな自戒を胸に、フードを脱いだ。彼の顔を見るには邪魔だった。
「そ、素材を買いに…時間潰し…」
「そうか、僕はリリア様おすすめの最新刊を買いに来てな。いやあ奇遇だな!会えて嬉しい!」
 しどろもどろする私に対して、セベクくんは人懐こい笑顔で言う。ああ、あまりにも眩しい。心の準備ができていない中で彼と出会うとは思わなかった。彼に会う確率が少しでもあるのならばこのローブではなくて新しく買ったものをおろせば良かった。そもそもここが茨の谷である以上彼と出会わないとも限らなかったけれど、いつもマレウス様の隣にいる彼が単独行動をしているとは珍しい。いつも彼を見てきたからわかる。そもそもマレウス様がナイトレイブンカレッジに入学してからもここへ来ることは滅多になかったはずだ。
「これからレトはどうするんだ?僕は今日一日お暇を頂いている。良ければ少し話しても?」
「ええと、素材を持って帰らなきゃだから、一回家に戻る…」
「そうか、じゃあ運ぶのを手伝おう。鍛えているし安心して…ああいや!別にお前の家に押し掛けたいわけではなくだな…!」
 相変わらず大きい身振り手振りにふふ、と笑いが漏れる。どうやら緊張しているのは私だけではないらしい。
「ぜひ!とても助かるよ」
 ぱあ、と彼の顔がより一層明るくなる。じゃあ行こうか、と開いた口は、書店店主の「冷やかしならば他所でどうぞ」といわんばかりの咳払いに打ち消されてしまったが。
 
「随分、辺鄙なところに住んでいるんだな」
 彼と出会えたことで舞い上がっていた。やはりここは少しでも見栄え良くしておくべきだったかもしれない。家に重要なのは中の住み心地だからと疎かにしておいたのが仇となったか…だってこんな古びた小屋、人どころか生命の気配すらしないではないか。幻滅されたって仕方がない。彼は表情に感情が出やすいから安易にわかる。少しどころかかなり面食らっている。
「ま、まあ中は快適だからさ」
 荷物を運んでくれた、と言ってもせいぜい紙袋が二つ。今回は鉱石が多かったせいでいつもより重量はあるが、一人でも持ち運べない量ではない。キッチリと身体を鍛え上げている彼ともなれば容易い仕事だったかもしれないが、彼へこんな苦労をさせて良かったのだろうか。
「失礼する」
 ギイ。木の扉はいかにも古ぼけた音を立てる。彼の住んでいる家は家というよりも屋敷だし、そもそも彼は領主様の城によく出入りしている。彼にとっては本当にこんなところに人が住めるのかと疑問で仕方がないだろう。ううむ、次の休みまでには家の外装を綺麗にする魔法を習得せねば。
「こっちの部屋ね」
 既に起こっていることなのだから仕方が無い。言い訳がてらの溜息を飲み込んで小屋へ足を踏み入れる。
「どうかした?」
 彼の足音は自信に満ち溢れている。獣人でなくとも聞けばすぐわかる。それが続かないのを不審に思い、振り返る。何か入りづらいものでもあったか、それとも屋根が低く頭をぶつけそうなのか。その予想とは裏腹に、彼は小屋の中と外をしきりに見比べている。ああ、そうか。
「どうなっているこの家は
 この小屋は吹けば飛ぶようなボロボロの小屋。どう考えても部屋は一つだけ。しかしそれは外見だけの話で、一歩足を踏み入れれば中はカレッジの教室程度はある研究部屋に、居住スペースも含め小部屋が六つ。前の主人が空間拡張を行なっていたらしいのを、ほんの少し強化しているのだ。
「空間拡張の魔法だよ。この家に住んでた前の人がやったみたいだけどなかなか便利でね」
 考えれば考えるほど、ここに住んでいた魔法士はよほど研究が大事だったらしい。そして人間が嫌いだった。大きな家を建てるよりも小さな小屋を無理やり広げる方を選んでいる。他者との関わりの面倒さを省くべく、こんな大魔法を完成させ維持させているのだから。それも半分オート発動の結界タイプにしている。おかげで私でも軽く触るだけでこの魔法を維持できているが。
「素晴らしい!余程強大な魔法士だったのだな!」
「ほんとほんと。顔も知らないけどここに小屋がなければ私も存在してないわけだし」
「もちろんお前もすごい!僕は結界があることすらわからなかった…まだまだ研鑽が足りないということか…!」
 彼の良いところはすぐに他人を褒められるところだ。それでもこう、真正面から称賛されると調子が狂ってしまう。恋愛感情の混ざらない単純な照れでどうすれば良いかわからなくなってしまうのだ。
「そ、そうかな!えっと荷物はこっちの部屋ね。お茶も出すから待ってて」
 素材の収納と整理は後回しで良い。今になって、彼と一つ屋根の下という降って湧いた幸運に胃がひっくり返りそうになっている。もちろん彼とは冬休みに入っても文通を続けていた。SNSなりスマホのメール機能なりがあるのに頑なに文をしたため続けていたのは半ば意地というか、なんというか。とにかく、彼とこの姿で関わるためには手紙という媒体を挟まないといけない気がしてしまうのだ。もちろん彼はそう明言したわけではないし、できればこの姿の私でいた方が良いと思っているだろう。そうわかってはいても上手くいかない。特にこんな、会う約束すらしていなかった偶然の結果ともなれば。
「ああ…なあレト、この部屋、見ても良いだろうか?もちろん触りはしない!」
 とさり。紙袋を大鍋の隣の作業台に置いたセベクくんはうずうずしながら言う。彼は知的好奇心の塊で、しかもそれを隠さない。きっとこの混沌とした工房が気になるのだろう。好き勝手に使っているし作成途中なこともあり綺麗にはしていないのが少し気になるが、もう今更だ。それに彼は既に、秘密基地を作ろうとする子供さながらに目を輝かせている。止めるわけにもいかないだろう。見て減るものも幻覚作用があるものもないし。
「良いよ、何かあったら呼んでね」
 ありがとう!そう目を輝かせて言った彼は、もう既に薬品棚を覗き込んでいる。魔法薬学の授業があるとはいえ、学校ではまだ扱えない素材や見掛けない素材も多い。珍しいのは当たり前か。それに、ただでさえこうも所狭しと素材ばかりが並んでいるのは我ながら圧巻である。さて、私はお茶を入れるとしよう。極東地域から届いた珍しい茶葉があることだし、今日はそれを開封するとしよう。
  
「あのさ、本当に私で良かったのかい」
 柄にもなく、そんなことを聞いた。いつか問わねばならぬと思っていたこと。けれど一方で、聞くタイミングを逃し続けてきたことだった。私は今でこそ人間の姿を取っているが、元の姿はヤモリである。そしてその姿にすら戻れない中途半端な存在。それと恋をするのは、並大抵の感覚では嫌悪感が伴うのではないだろうか。おとぎ話にも歴史書にも異類婚姻譚が溢れているとはいえ、その当事者になるとは誰も思わないはずだ。勿論彼には私の正体を告げているし、それでも良いとの回答も貰っている。それでも、やはり。元々自分という存在には自信がある方だ。この姿も今の立ち位置を手に入れるだけの技量を持った自分を、愛さずにはいられない。自分なんか、と卑下するほど自分の才能が貧弱だとは思っていない。
「不思議な問いをするな、お前は。良いに決まっている」
「…ありがとう」
「ここは妖精族の谷だ。妖精族や人間でない種族も住んでいる。それに時折いるそうだぞ、霧の中からやってくる不思議な存在が」
 彼はこちらが言わんとすることをわかっているのだろう。私の存在が特に稀有ではなく、だからこそ受け入れることに何の躊躇いもないと語りたいのだ。彼の言をまとめればこうだ。森からやってくる人型の存在は、この谷のありふれたお伽話の雛形のひとつなのだ。正体不明のその存在は谷へ預言をしたり、はたまた領主の右腕となったり、正直な若者と末長く幸せに暮らしたり。しかもそれは伝承の中だけでなく、リリア先輩によれば百年に一人ずつは存在しているのだとか。だからお前も気に病むことはない。そう彼は結んで、お茶を一口啜る。
「何より、僕はお前が好きだ」
 はにかんで言う。きっとこの恋は醒めないと言う彼の言葉の、なんと甘美なことか。彼の言葉に嘘はない。嬉しくて嬉しくて、心というものが臓器として実在するならば飛び出そうな感覚に陥る。きっとこれが有頂天というやつなのだろう。他でもない彼からの言葉だ、心臓が滾っている。そんな私の反応をよそに、彼もまた頬を赤くしていた。透き通るほど白い肌は、すぐに耳まで赤くなる。
「そ、そうだ!年末にパーティを行う。若様からはお前も招待して良いと言われていてな。どうだろうか」
 慌てた素振りの彼は、持っていた鞄から一枚のハガキを取り出した。色鮮やかなメッセージカードに彼の文字が乗っているのはまるでデザイン性の喧嘩だ。そうか、ウィンターホリデーのお祝い。確か通常は年越しを騒ぐ催しなのだが、この茨の谷では初代領主さまの生誕祭も兼ねているせいで半ば儀式めいている。とはいっても祈りを捧げることと服装はモノトーンにすること以外は決まっていない。いつもは落ち着いて物静かな谷の住人がハメを外す日、と言うのがより正確だろう。なまじ魔法の天才が多いせいで数年に一度大騒ぎになるようで、その評判は森の奥にいても聞こえてきた。谷の住民の殆どが半獣化したなんていうのはまだ軽い方だ。そのパーティ、しかも彼が若様と言ったということは領主さま主宰のものなのだろう。もちろん彼の招待ならば受けたいし彼と一緒にいたいのは事実。それでもやはり、マレウス様とのやりとりを思い出せば少々気が引けるのは確か。もちろん彼は全面的な好意で言ってくれたのだろうが、あれで本当に私が認められたのかどうかがわからない。それにそもそも、私は一度セベクくんに傷害未遂事件を起こしているのだし。
「嬉しいけど、私が行っていいパーティなのかな…」
「勿論!見習いコックの友人までも招かれる大規模なものだからな!それに事前に申請すれば誰でも立ち入ることができる」
 領主様が顔を見せるパーティである以上、警備どころか招待者までもキッチリ管理されているものだとばかり思い込んでいたけれど、そうでもないらしい。誰でも招くあたり、護衛の力を示しているのだろう。うっかりパーティにかこつけて襲撃があった程度では痛くも痒くもないのだ。それを物語るような自信に満ち溢れた彼の表情は、いつ見ても微笑ましい。自分のことも他人のことも、こうやって誇ることができるというのはある種の才能だ。
「ふふ、じゃあ遠慮なく。ドレスで良い?」
「ドレス」
 微笑んでそう返答すれば、目の前の彼はカップを持ったまま言葉を繰り返して固まってしまった。思うに彼はきっと感受性が高すぎる。だから表情にすぐ出るし、ちょっとキャパオーバーすると固まりがちなのだろう。三秒にも満たないフリーズを経れば、すぐに彼特有の爆音が鳴り響くはずだ。元々小さな生き物のせいか彼の声色は全身に響くので、こう心構えでもしないと飛び上がってしまう。さながら雷鳴のようだ。
「ああ!既に購入しているか?まだであれば知り合いの仕立て屋に僕から頼んでも良い!」
「大丈夫だよ。自分で用意するから、当日までのお楽しみ、ね」
 ウインクまでつけて言えばまた彼はフリーズする。そうして静かに息を一つ吐いて、ゆっくりとカップを置いた。
「楽しみにしている!」
 
  
「気をつけてね」
 結局、夕刻近くまで話し込んでしまった。彼とこの姿で長い間喋るのは初めてだったのもあるが、彼の話を聞くのは好きだ。今まで経験した何よりも濃厚で短く感じた彼との時間だけれど、夜になるまで拘束しては良くない。
「心配には及ばん!」
「頼もしいね」
 自信満々で言う彼に微笑む。霧深く薄暗い森とはいえ、五分も歩けば遊歩道のようなところへ出る。そこにある街頭の灯りはこちらからもうっすら見えている。まあ彼のことだし心配はいらないのだけれど。
「ああ…それと、だな」
 戸口に立っている彼は歯切れ悪く言う。珍しい。どんなことでも臆面なく口に出すのが彼の良いところなのに。何か言いづらいことでもあるらしい。
「どうしたの?」
 目を逸らしている彼を見上げる。見れば見るほどに上品なつくりをしている顔だ。すっと通った鼻筋に、使い込んだ天秤を思わせる古びた金色の瞳。明るい髪色はこの森にはない緑色で、少し癖があるせいか撫でつけても跳ねているのが彼の溌剌さを表しているようで、素敵だ。
「レト」
「うん?」
「抱きしめても、良いだろうか!」
「い、」
 ギチリと音を立てるほど握りしめた拳を腿の横に、彼はそう大声で言った。その内容に一瞬だけ内容を理解できず、いいよ、といつも通りに返答しかけた口は母音だけを小さく漏らした。
「嫌なら無理は言わん!聞き流してくれてけっこ、」
「そういうのは、聞かなくていいから…」
 ああ、すっかり調子を狂わされている。いや、そんなもの彼と出会ってからずっとなんだけれど、それでも、今回ばかりは特にそうだ。彼の望む恋人というのはきっと、おしとやかで控えめで、奥手な子だ。それはわかっているし、だから今までそうあろうとしてきた。幸いそのあり方をするのは性にあっていた。だからこんなことをするのは、ポリシーに反する。理想の少女像をとっている私が、彼にいきなり抱きついてしまうなんて!
「レト」
「きみのせいだ、きみのせいだぞ…きみがそんなこと言うから…」
 触れると余計に、彼の体格の良さと熱が伝わって心臓が飛び跳ねている。体内に火を宿す私よりも遥かに温かい彼は、そろりとこちらの背中に手を回す。ぎゅうと恐る恐る力を込めるその愛おしさと、彼に包まれる酩酊感に、すっかり目を回してしまいそうだ。世界が閉じて、私と彼だけになってしまった。そんな当然の幻覚が先程から頭を殴り続けている。これが世界の終焉でも構わないと思った。それくらい、頭がすっかり茹だっていた。彼の心音と、吐息。いつもより抑えた声が鼓膜を揺する。とろりと脳にまで流れ込んでくるようなこの瞬間が、永遠であれば良いと願う。何よりも尊かった。永遠を願うほど愚かではないと思っていたのに、彼とただ体が触れ合っただけで思考が全て塗り替えられてしまった。
 しばらく私の肩口に顔を埋めてから、彼はふとこちらの顔を覗き込んだ。誠実と欲が揺らめく瞳は、恐ろしいほどに色っぽい。熱を帯びた視線がかち合うまで、そう時間はかからなかった。彼の肌のきめ細やかさと、睫毛の長さ。熱が、近い。
「……ッ」
 突然に。朦朧とした意識の中で警鐘が響き渡る。これで、良いのか。
 私は彼に愛されている。どんなに鈍感な思考をしてもその結論は導き出せる。だからこそ、だからこそこの行為に一つ疑問と恐怖を抱いた。思わず静止のために彼と自分の胸板の間に腕を差し込む。
 呪いが、解ける。
 彼はこちらの存在を肯定している。正体も伝えてある。けれどこの瞬間に、呪いが解けて元のヤモリに戻ったら?腕の中の少女が爬虫類になってしまったら?彼の言葉を信じている。それなのに、その瞬間彼から否定されてしまったら?恋人が異形はおろか綱すら違う存在になってしまったら?否定されないとは言い切れなかった。苦しい。彼のことを疑いたくはないのに、それが一番怖かった。彼からの拒絶が、何よりも恐ろしかった。
「ごめ、ん」
 眉尻を下げる彼に、ずきりと心が痛む。違う、違う。私はきみが怖いのではない。きみからの拒絶が恐ろしいのだ。それを伝えなければならない。伝えなければならないのに、口を開いても言葉を紡げない。凍ってしまった思考回路では彼どころか自分の納得する声明すら導き出せなかった。
「すまない」
 すとん。私から手を離した彼は、こちらに目も合わせず小さく呟いて、踵を返した。とっとっ、と二歩だけ歩いて、そこからは霧の中へ駆け出していく。すっかり力の抜けてしまった体はその場に崩れ落ちた。
「ちがう、ちがう。違うのセベクくん」
 やっと声に出た頃には、彼の足音すらすっかり遠のいてしまっていた。

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