5 夢想メイデン!



 ぐわん、と世界が揺れた。天蓋の幕を下ろし一人、枕に顔を押し付ける。嫌だ。そんなこと聞きたくなかった。彼の良き友人になれたのは素直に喜ぶべきだ。それがゴールだと思っていたし、それ以上の幸せなんか望まなくていいと思っていた。それなのに、彼が誰かへの恋を吐露した途端にこれだ。気持ち悪い。初めて手製の変身薬を飲んだ時のほうが遥かにマシだった。三半規管が駄目になってしまったみたいだ。ぐるぐると渦巻いているのは思考だけではない。
(気持ち悪い)
 心が例えば宝石の形をしているのなら、それが融解してぼたりと濁っていく心地がする。彼の言葉をゆっくりと咀嚼する脳がその残滓として零した何かが、心を汚していく。コーヒーのドリップのようにゆっくりと、確実に。泥の中にいる方がまだマシだ。身動きが取れない。思考が鈍っていく。心地よいはずのシーツが沼になったみたいに、うつ伏せになったまま呑まれていく感覚。このまま異世界にでも行ってしまえればいい。どうにもならない。一瞬にして錆びついた全身が軋む。呼吸の方法すら行方不明で、こんな脳内で繰り広げる自問自答の現状把握会議でさえ踊っている。足りないものをずらりとリストアップしても全部売り切れ。ああ駄目だ、てんで思考がまとまらない。惨めなモノローグ未満の、文章として成立していない何か。
(どうすればいい)
 誰だ。最近になって悩みだしたのならばきっとこの学校の中の誰かだ。ぼくはいつだって彼の隣にいる。わからない。彼の感情の機微になんか一番神経を尖らせているはずだった。彼がその誰かを目の当たりにすればすぐにその恋のようなものを感知できるはずだ。ぼくが、私が!セベク・ジグボルトのことに気付かないわけがない!
(惚れ薬……いや)
 いち早く完成させなければ。「相手がこちらに恋愛感情を抱く」効果ばかりを突き詰めたのが間違いだった。惚れ薬とはそもそも曖昧な定義に基づく名称だ。結果的に相手を手に入れられる薬を全般的にそう呼称する。それならば、相手にとって自分が理想になる変身薬も、相手がこちらのことしか考えられなくなる精神干渉薬も、相手を手中に収めることができるならば全て惚れ薬の範疇だ。
(材料は、ある) 
 一年生に開放された実験室の棚を脳内で閲覧する。大丈夫。規則違反なんか一つも犯さずに作り上げることができる。グズグズの思考回路のくせしてレシピだけは着実に組み上がっていく自分の頭が恨めしくて、大好きだ。手間も時間もかかるし成功確率が低いが、どうってことない。「また問題児がやらかした」で済まされる話。どれにも毒性なんか無い。大丈夫だ。
(私は、彼を、)
 
 ●●●
 
「ファンデルス、こんな時間に何をしている」
「先生。試験前にどうしても仕込んでおきたい材料があって……一ヶ月間浸さなきゃ使えないので」
 深夜。全寮制ということもあり校舎への立ち入りは禁止されていない。私が今ここにいたとして何ら問題はない。魔法薬学教室においてもそうで、入るだけなら大丈夫なのだ。何せ、危険なものは全部施錠された戸棚に入れられている。
「そうか。しかし学生の本分は」
「学業でしょう?わかっています。今日はちょっと他にやることがあったのでこの時間になってしまったんですけど……明日からはちゃんと九時までには済ませます」
 どうしてこの時間にクルーウェル先生が、と思わないわけではない。学生相手なら言い訳できても相手はプロだ。魔法薬学についての知識で誤魔化しができるわけがない。私の今の説明も正直怪しまれているはずだ。
「……オーバーブロットを知っているか?」
「突然ですね、先生。ええ、魔力の使いすぎに伴う暴走状態でしょう?」
 早いところ、片付けてしまいたい。今から調合するものは別に違法ではない。材料も全部市販品の域を出ないようなものばかり。けれど先生の前で行えば先程の説明と異なることは一瞬でわかってしまうだろう。誰にだって邪魔されたくないのに。私の恋を永遠にしてしまいたいのに。
「惜しい。使用者の感情……負の感情の暴走も原因にある」
「何が言いたいんですか?」
「言葉通りだ駄犬(バッボーイ)。そのままではオーバーブロットしかねないと思って声をかけている」
 教師という存在は、不思議だ。そもそも人でない私には理解できないシステムというか。他者を導く存在というものは慈善事業じみているじゃないか。そんなの自分の幸福を追い求めていないのと同じだ。相変わらず一足飛びの思考回路は在らん限りの批判を繰り広げる。
「あは」
 今まで抑え込んでいた女声の笑いが漏れる。まるで魔女みたいだ。
「……ぼくは。大丈夫ですよ、初めてのテストが少し不安ですけどね」
「信じていいんだな」
「ええ、ええ。駄目だったら……そうですね。私が将来開発する魔法薬の特許を一つ先生に差し上げますよ」
「教師に取引を持ちかけるか、ファンデルス」
「まさか。それくらいありえない話だってことですよ」
 からからといつも通り男声で人懐っこく笑って見せる。先生に嘘を吐いているわけじゃない。耳を傾けていないだけだ。多分人的感覚ならば感謝しなければならないのだろうけれど、もう誰も私を止めることはできない。そんなところまで来てしまっている。先生には申し訳ないけれど。
 友情を選んだはずだった。儚い恋は見ないことにして、こんなはずじゃなかっただろうにという自問自答は聞こえないふりをして。その結果が、これだ。お前は大切な友人だ――そんな、喉から手が出るほど欲しかったはずの言葉に絶望している。私が欲しかったのはこれじゃなかった。気付いたときにはもう遅い。心臓をナイフで一突きされたような、頭を目一杯ハンマーで殴られたような衝撃をもたらしたその言葉はずっと、呪いみたいに心を蝕んでいる。
「ねえ先生。未来は自分の手で切り開くものでしょうか。それともただ口を開けて待っているものでしょうか」
「前者だ。その未来を手に入れ損なった後悔まで背負う覚悟があるのならば、の話だが」
「そうですか」
 この問いに意味はない。時間稼ぎと、論点の移動。未来は切り開く。それがどんな結末をもたらしたって私はそれを愛せるし、愛してみせる。そんなもの、彼と出会った時からできているじゃないか。
 ああ、私きっと反抗的。私を案じる先生の言葉を、くだらないと一蹴してしまう自分がいる。品行方正、誰からも好かれるレト・ファンデルスの仮面が外れかかっている。彼の心だけがほしい私になってしまうのは随分と簡単で、幸せなことなんだろうけれど、まだだ。まだその時ではない。
「早く済ませてきちんと睡眠を取れ。若人の苦難を否定するほど俺はオールドタイプじゃない」
「ありがとうございます。先生も、良い夢を」
 目を細めれば肉食の縦瞳孔は見えなくなる。瞼の下に隠して笑って人畜無害で、手を振った。ほんの少しだけ、舌の先ほどだけで先生ごめんなさい、なんて思いながら。
 だってこの恋は、私だけのものだから!

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