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「……遠征、おつかれさま」
 そう言って廊下に仁王立ちしていたのはクロンミュオンだった。想定外の人物との邂逅に、思わず足を止める。
「出迎えとは嬉しいものだな」
 彼女といえばラボに籠り切っているイメージが強い。それが間違いだったというのは考えにくい。彼女のことは半年以上観察してきたが、放っておくと数日日の光を浴びないなんてのも珍しくない。本人は紫外線は浴びてるし体も動かしてるから大丈夫などと言っていたものの、必要最低限の健康は効率的すぎて不健康に思えて仕方がない。
「話が聞きたいんだろう?お前の部屋で良いか」
「いや……遠征帰りの君を拘束するほど人でなしじゃない。手短に用件だけ。遠征のことは休息も含めて諸々が終わってからでいいよ。事後報告兼ねた会議の後がいいかな」
 どうした。目の前で腕を組んでこちらを見上げる女は本当にクロンミュオンなのか。俺のいない間に性格書き換えコードでも実行したか。あれは軍部追放じゃ済まされないから止めるよう言っていたのだが。それとも彼女にしては珍しく徹夜したか……ああ、熱があるのか?そう思って触れた額は冷たささえ感じるほどに平熱だ。
「なんだよ君、私の挙動がおかしいとでも思ってるのか?残念ながら平常通りだよ。寧ろ君が戻って調子が良いくらいだ。ああ、向こうの話は後ででも構わないけど私が関わったものが動作不備起こしたとかトリガーの改良案とかなら今この場で言ってくれるかい。ああいや君、遠征後に返事を聞かせてくれと言ってただろ」
 早口なのはいつも通りとして、彼女はここまで饒舌ではなかったはずだ。感情の振れがあるのは確かだがそれがプラス方向なのが不思議なところだ。彼女はもしや、俺が戻ってきたことに喜んでいるのか? そんなポジティブ極まりない思考はあまりに短絡的。何より愛してやまない戦闘を心ゆくまで味わってきたとはいえ、[[rb:玄界 > ミデン]]への遠征ともなると長時間の移動を伴うもの。疲れているに決まっている。
「……疲れてる?飴でも食べるといい」
 彼女は不審そうな顔をしてこちらの手に飴玉を握らせた。ぱり、と軽い包装が音を立てる。彼女の小さい手は柔らかい。ああ駄目だ。これは遠征前に彼女を抱き抱えてわかってしまったことなんだが、彼女はこちらが思っている以上に小さく、軽い。うっかり抱き上げた反動でそのまま投げそうになってしまったくらいには。その感覚を思い出している。駄目だ、やはり疲れている。思考もまとまらなければ今自分がすべき行動の選択すらできやしない。素直に飴玉を口に放り込んだ。ずきりと舌から脳の隅々に伝播する甘さに痺れそうになる。これは彼女が好んで食べている味だ。安っぽい味がやけに強く目眩すらする。
「ありがとう」
 少なからずダメージを負っているのだ。戦闘体はあくまでトリオン体だし、たとえ足を欠損しようと胸を貫かれようと肉体への影響は皆無だ。だが精神はどうか。何度も何度も死ぬあの感覚は快いようでああいや。そんなのはもう慣れている。何度言い聞かせたって、見知った人間を始末(、、)する作戦を容認する、というのはなかなか堪えるのだろう。徹底した冷酷というのは俺には向かないのか。いやはや、どうにも度し難い! 彼女にさえ精神疲労を悟られるようでは俺もまだまだということか。
「単刀直入に言う」
 彼女はこちらを真っ直ぐに見据える。ずっと端末を弄っている割には澄んで透き通った瞳。ワインのようだ。僅かに薄い色味からは考えられないほど香りも味も強烈な、主役級のそれ。
「君との婚約を、受け入れたく思う」
 息を止める。
「元より、君との婚約を破棄するつもりは無かったんだ。ただ二つ返事に頷くのも短絡的だったろう?」
 わかっていた。自分がどう動こうと彼女が断らないことなど、あの晩からわかりきっていたのだ。それでもなお猶予を与え彼女を泳がせたのは、確実にしたかったからだ。手中にある彼女の存在を、こちらの戦略を。合格点では物足りない。一つたりともミスのない完璧な勝利。それを追い求めた。
 笑いが漏れる。くつくつと鳴る喉はまるで飢えた肉食獣のようであまりにも野蛮だ。逃げないことを理解していて、あちらから牙の下へ喉元を晒させた。
「それに。私自身、君なしじゃあ既に難しいみたいでね」
 それがそちらの策略だろう?そう言いたげな愛おしい賢しら顔で彼女は言う。ああそうだ、そうだとも!肯定の返答を込めて彼女の頬を撫でた。
 腹の底が煮立つような充足感にぐらついた。こちらの都合(好み)だけで彼女を婚約者に据え置いている。そんな彼女が「君の隣は居心地が良い」と、「君なしじゃあ難しい」とまで言うのだから! せいぜいベルティストン家のステータスが都合良いから婚約を受け入れているとばかり思っていたので、なんとも堪らない気分になる。この星一の天才と名高い少女を陥落させる方法なんて検討もつかなかったのに、あれは想像以上の成果だった。勿論簡単だったなどと言えない。並大抵の娘であれば、こちらは平常通り振る舞うだけで皆、それが上辺であろうと本心であろうと好意を寄せてくるものだ。しかしクロンミュオンは当然、一筋縄ではいかない。もしも彼女が並大抵の女であればここまで惚れ込んでいないんだから。彼女は熟慮する。自分の感情を切り離した上でメリット・デメリットを鑑みることができるのだから、何もしなくとも婚約破棄なんてことはしなかっただろう。彼女にそう判断させるだけの地位と力がこちらにはある。だがそれでは意味がないではないか! そう思ってしまうのはすっかり恋に茹だってしまったからだろう。彼女の常用している飴よりも遥かに甘く粘度の高い欲に従った結果。「クロンミュオンも同じようにこちらを想っていてほしい」なんて軟派なものではなくどうせならば彼女だって楽しい方が良い、そんな単純明快で幼稚なもの。どうせ地獄と形容される生活をせねばならぬのなら、共に幸福であった方が良いに決まっている。さて、理詰めの自己解釈はどうしてこうも見苦しいのか。もっと野生的かつ直感的なものなのだから、説明など出来ないに決まっているだろうに。俺は、彼女を好ましいと思っている。それだけのこと。
「では。これからよろしく頼む」
 抱き上げようか悩んだ。悩んで結局、微笑むだけにした。勿論出発前の続きを行っても良かったのだがまあ、今この場所で急く必要もなかろう。擽ったそうにする彼女の両頬を親指と人差し指で挟む。
「ぬむ。やっぱり君、休んだ方が良いよ」
 彼女は怪訝な顔をしている。比較的感情を表に出さない方、所謂ダウナー。しかし彼女を間近で見ていれば十分わかりやすい部類に入るくらいだ。心配やら嬉しさやらがごちゃまぜになったこんな顔を、かつて彼女はしたことがあっただろうか? そう思うと大変に悦ばしい。堪らない気持ちになる。
「そうか」
「体温も心拍数も測ってないからわかんないけどさ。遠征帰りだし一応診てもらったら?」
 私は専門外だしさ、と口癖を溢す彼女。こんなことを言いながらも大体の問題は解決できるだけの賢さがあるのだから末恐ろしい。
「では戻って休むとしよう。添い寝でもしてくれるか」
「……私がいることで君の回復になるのならするが……エビデンスはあるのかい」
 一瞬だけ情報処理中の顔をした後で、彼女は真面目な顔をして言った。
「ははは、冗談だ。隊の会議は明日の十五時。遅れんようにな、婚約者殿」
 ぽん、と随分低い位置にある彼女の頭を撫でる。湾曲したトリガー角に親指が触れると彼女は少しだけ身を強張らせた。じわじわと、わかりきった回答への喜びが追いかけてくる。なんだ、遅効性の彼女のせいで引き分けじゃないかいや恋愛が勝負なわけがあるか、やはり疲れている。わかりやすい甘酸っぱさでいっぱいになった味覚がやけに鮮烈なのも、おそらくそうに違いなかった。

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