「アルベルくんってさ、飛べるよねぇ」
「……ああ」
にんまりと猫のように笑いながら聞いてきた彼女に、けれどそう簡潔に返答をした。彼女が言わんとすることは十分にわかっている。でもまあ、こちらが率先して言うことでもない。
「いいなぁ、私も飛びたいなぁ
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!」
島のどの子供よりも子供っぽくわざとらしく彼女は言う。どうせこう言うとわかっていた。自分も連れて飛んでくれ、空に連れて行ってくれ。そんなことを言うんだろうなとは思っていた。が、しかし「じゃあ飛ぶか」とこちらに言わせる交渉術を用いてくるのは想定外だ。黙ってしばらく彼女を見る。ぱちぱちと暖炉の薪が爆ぜる音が室内に響く。今夜は珍しく風も氷柱も無い。
「いいなぁ
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」
「……飛ぶか」
目をキラキラさせながら言う彼女に、折れた。瞳に反射する炎のゆらめきをもう少し見ていたいような気もしたが、このまま見つめ合っていても埒があかないだけだ。
つくづく、冬島の似合わないひとだ。春の花の色をして雪解けの小川のように波打った髪、芽吹く新芽の瞳。快活な言動は春のそよ風のよう。
「やったぁ!」
いや。そよ風ほど可愛らしいものでもない。春一番というか、春の嵐というか。ガッツポーズをした後両手を挙げて何度も跳び上がる彼女を見て思う。
「じゃあさ、崖の上に行こうよ。翼でもないと行けないからさ」
「今からか」
いそいそと外套に袖を通しマフラーを巻こうとしている彼女。確かに今は凪いでいるが、ほとんどの島民が眠りについた深夜。おれたちも就寝の準備がてら温めた牛乳を飲み終わった直後のことだ。
「いーじゃん、いけないことしてるみたいで楽しいよ」
手袋を嵌めながら彼女は言う。目元だけが見える彼女は、件の明るい瞳を三日月のように細めている。これで結構頑固というか、一度決めたらなかなか引かない奴だ。まあ別に断る理由もないし、おれも少し嬉しくなっている。空を飛ぶのはさして嫌いではない。むしろ彼女がそれで上機嫌になるのなら進んでやっていいくらいだ。彼女が投げ寄越した外套を羽織り、毛皮の帽子を被った。なくても良いが、流石に冬島の夜はきりきりと痛む。進んで痛いことをする趣味もない。
「座って座って」
自分が今まで座っていた椅子をとんとんと叩く彼女に首を捻る。何をするつもりなのか。まさかマフラーでも巻こうとしている? 邪魔なだけだというのに。そう思いながらも彼女の言う通りにする。
「よし!」
「よしじゃねェ」
彼女は椅子に座ったおれの腿の上に横向きに座り、こちらの首に手を回した
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つまり、自らおれに横抱きされたというわけだ。
「だってアルベルくんの背中におぶさるわけにもいかないし、これが一番安定するでしょ?」
人差し指をピント立てる彼女は、さも自分が世界で一番正しいとでも言いたげな声色だ。彼女の言う通りそれが安定するのは事実。でもここまで一直線で来られるとは思うまい。というかわかっていても実行できるか普通。
「さあレッツゴー!」
まあでも。彼女が楽しそうなら良いじゃねェかと思う自分がいた。片手で彼女を支え雪を踏む。ばさりと翼を広げた。
「わっわ、浮いた浮いたー!」
子供か。子供より子供な反応に、あえて無反応を貫く。酒でも飲んでるんじゃないかという気になる。咎める人は誰もいないのでそこは別に構わないんだが。
「高い! 寒い! わははははー!」
キャッキャッと騒いでいるのを横目に、ただひたすら正面だけを見る。彼女が行きたいと言った崖は真っ黒に聳え立っていた。夜空の黒よりも黒いそれに目の奥がしんしんと痛む心地がする。
何故か、腕の中の彼女のことを考えないようにしていた。割れ物でも運ぶように細心の注意だけは払っているが、どうも腕の中に彼女がいると考えた途端に胸がドッドッと変な音を立てるのだ。彼女を抱えて飛ぶのは二度目といっても一度目は急を要していた。無我夢中ではないにしろ、彼女の命を救うにはそうするしかなかったからだ。
夜の香りが鼻を刺す。鼻腔を突くようなその空気が涙腺まで刺激した。泣いた記憶さえ持たないこのおれが、どうしたってこんな程度で視界を揺らがせている。
このまま彼女を攫ってしまいたかった。
彼女には春が似合う。永遠に春を待つドームの中なんかじゃなく、春島で一生を終えてほしかった。安らかな日々と、穏やかな空気だけに包まれているべきだ。暖かな陽射しと花の香り、生命の生臭さを少しだけ混ぜた、そんな優しい世界にいてほしい。彼女に雪は似合わない。肌を裂くような風も似合わない。
はしゃぐ彼女は、崖すらも越えて海へ繰り出したらどんな反応をするだろう。困惑するだろうか。帰してくれと泣くだろうか。化け物でも見るような目でおれを見るだろうか
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このままどこまでも一緒に行こうとまでは言わないだろうな。ただの幻想で、妄想で、戯言だ。
「すごいねー! あっと言う間に着いちゃう!」
彼女の声に我に返る。ごうごうと煩い風の中でも、彼女の声はしっかりと耳に届いた。ああそうか。彼女はこの島にいるから良いのだ。冬の中にあって、春の足音を教えてくれる。小春日和のような、陽だまりのような、雪を割る葉のような。そんな存在がきっと彼女だった。
「あーーー楽しかった!」
とっ、とふんわり降り立った崖の上。彼女は早速おれの腕から飛び降りて雪の上へ仰向けになった。けらけらと笑っているあたり突貫夜間飛行は怖くなかったらしい。かなりの高度とスピードがあったはずだが。
彼女が言葉を紡ぐ度、白い息が空に消える。寒いだろうにマフラーを取っ払って、上気した頬を余計に赤くして息を切らしている。
「……ここには何をしに?」
「ここ禁足地なんだ」
「は」
島に住み始めて暫く経ったとはいえ、そんな話初耳である。基本的にドームの中で生活が完結している暮らしでは無理もないか。ここには野生動物もいなければ植物も無い。来る必要も無いので今の今まで意識したことすらなかったのだ。ただ、景色の一部であった。
「怪物だか神様だかがいるらしいよ。まあそんなの信じてるのご老人ばっかだけど」
本当にそんな存在がいたらどうするつもりだったんだ、と彼女の隣に座り込んで視線で語る。怪物ならどうにかできても神様とか災害みたいなもんは手に余る。おれ一人ならまだしも彼女もいるし。
「あ、いやそんなタブー踏み割ってイキがりたかったわけじゃないよ。単純にただの人間じゃ来れない場所だから気になってただけだし」
怪物ってのも思うに滑落とかの擬人化だよ、と早口で言う彼女に笑いが漏れた。とんだ禁忌の片棒を担がされたもんだと思ったが、彼女はそこまで考えちゃいない。信心深くもないし、あの無邪気な春みたいな顔でそんなことされちゃ困る。
「アルベルくんも寝転が……あ、羽根とか邪魔か。とにかく見てよ、上」
「上?」
脈絡のない彼女の言動に思わず反芻してから、その指の先を見る。息を呑んだ。あまりにも見事な、満天の星だった。
こんなことに一々感動できる感性がまだ自分にあったのか、などと背伸びしたことを考える。そういえばこの島に来てからというもの、空を見上げるなんて滅多になかった。いつも分厚い雲が覆っているし、そもそも空なんて眺めていたら氷柱に貫かれて終いだ。
「星は柘榴、望月は蓮、頬に風。
百年の後もただ君をこう」
「……歌か」
凛と通る彼女の声に暫く聞き入ってから、そんな当たり前のことを問う。夜のように透明で、冷気のように刺さる、そんな声だった。
「うん。何年か前に来た海賊が歌ってたやつ。どっかの国の流行りのやつなんだって」
そんなことどうだって良かった。歌詞ですらどうでも良かったのだ。可愛いとか素敵とか、そういうんじゃなくただ只管にうつくしいと思った。別に全世界を虜にできるほど上手いわけじゃない。それでも、おれは。少なくともおれはこの一瞬で心を奪われた。こんな子供を種族という一点だけで懸賞金さえ掛けるこのクソみたいな世界が、彼女という存在だけでマシなんじゃないかと思えた。
「ロマンチックで好きなんだけどお腹すいちゃうんだよね、この歌。柘榴って美味しいじゃん」
なんか月もおっきいパンに見えてきた、などと雰囲気もロマンもぶち壊す彼女の発言を笑うことも忘れ、空を仰ぐ。まかり間違ってもおれが決して抱いてはいけない感情が溢れてしまう
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そんなものないくせに、そんなことを思う。彼女と出会えて良かったとか、幸せとか、安直な感想を抱きたくなかった。
「アルベルくんももう少し笑いなよ」
彼女は起き上がり、こちらの頬を引っ張る。彼女には甘いといえどそこまで素直な性格じゃないので、わざと唇を尖らせた。
「なんでおれが笑わなきゃ」
「二人でいけないことしちゃったんだぜ、私たち」
歯を見せて笑う彼女を見て、何故おれが笑う必要があるのだと再び思う。彼女の笑顔にはどうやったって敵わない。おれが笑ったって蛇足になるだけじゃねェか。彼女は諦めたのか、「頑固だね、君も」などと言ってまた仰向けになった。
もう二度と戻らない、夜の記憶だった。